6-3
「天使さん。今日も来ちゃいました」
「やあ。ここは寂しいからね、千代が訪ねてくれると私も嬉しいよ」
ある日の午前中、千代は教会へとやってきていた。
その場にはいつか見た天使の姿があった。
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あの日、あのあと松代はすぐに目覚めた。
思っていたとおりに松代は何も覚えておらず、松代は千代とのデートの最中に眠ってしまったという認識だった。
どうしてアリナではなく初対面の千代なのか、その辻褄合わせもどうかと思ったが、特に否定することもなかった。
その日は結局すぐに家へと帰ったのだが、なぜかアリナも千代と一緒に付いてきた。
千代とアリナは記憶をしっかりと保っていたのだが、あの事件に関わった二人以外の人物は全てを忘れているのだ。
その記憶には、アリナや千代と関わったこと自体も含まれていた。
さすがに書類までは弄れないから、千代は相変わらず女学生のままだ。
しかし知人の全てを失うことになってしまった。
アリナは宿泊先に名前こそ残っているが、その宿泊代は警察持ちだ。
警察もアリナのことを忘れている以上、お金が払われるとは思えない。
それに、千代を一人にすることも不安だった。
「そんなわけで、申し訳ないのだけれどわたしを千代のところに泊めてもらえないかしら」
「ええ、精一杯おもてなしさせてもらいますね」
家に帰った瞬間に千代は泣くことになった。
もちろんアリナが一緒に来てくれたからではなく、千代の母親も千代のことを忘れてしまっていたからだ。
とても悲しい出来事だけれど、アリナにもどうすることもできなかった。
ただ泣いている千代の前に立ち、その母親の口を塞ぐことしかできなかった。
そして、千代を落ち着かせるために二人で千代の部屋にいた。
もう母親は千代とアリナを受け入れていた。
「……記憶の方は、これからどうなるのでしょうか」
「どうにもならないわ。少なくともわたしには何も出来ないわ」
「そうですか……誰もわたくしのことを覚えていないとは、こういうことなのですね……」
千代はすぐに落ち着いたが、吹っ切れたようには到底見えない。
アリナがすぐそばにいたからこそ、今だけは落ち着けたのかもしれない。
「母に迷惑はかけられませんね」
「でも千代はまだ学生よ」
「ええ。ですから、卒業したらすぐにでもこの家を出ていこうと思います」
千代の判断は妥当なのだろう。
いくらアリナのお陰で母親が千代を受け入れてくれたとしても、それは母親の本心ではないのだ。
母親のためにも、千代のためにも、離れたほうがいいのかもしれなかった。
「そうそう、わたしも学院に行くからね」
「……アリナさんが、ですか?」
「そうよ。わたしも千代と同じ歳なんだから、学校に通ってもおかしくはないでしょう」
それは千代にとってもありがたい提案だった。
なにせ今まで通っていた学校で、いきなり孤立してしまうのだ。
アリナが一緒なら大丈夫。
千代は本心からそう思うのだった。
それからの学院生活はとても楽しいものだった。
千代はいつでもアリナと一緒で、それだけで楽しさは倍増するのだ。
一緒に授業を受けて、一緒にごはんを食べて。
それだけで千代は幸せだった。
間違いなく、今までで一番楽しい瞬間だった。
改めて友人との仲を取り戻すことはできなかったが、それでも卒業まで、ずっとアリナと仲良く過ごした。
学院を卒業してすぐに、千代はアリナと二人暮しを始めた。
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「千代には申し訳ないと思うわ」
「いいんですよ。周りの目を考えると、必要なことなのですから」
卒業してすぐのことだ。
千代は松代と結婚をすることになった。
式は挙げずに、ただ籍を入れただけだ。
その日からは松代も一緒に暮らすことになった。
アリナと松代も知らない仲ではなかったから、一緒に暮らすことに大きな問題は起きなかった。
ある日、アリナは料理を習いたいと言い出した。
「いつも千代に作ってもらってばかりというのも申し訳ないの。それに、作ったご飯を食べてもらう時の千代はとても嬉しそうだから……」
普段の食事はすべて千代が作っていた。
アリナも料理はできるのだが、千代と比べるとそれはただ食べられるものというものでしかなかったのだ。
「わかりました。わたくしもアリナさんの手料理がいただけるのを嬉しく思います」
その日からアリナは家事を覚えていく。
今まで間はいろんな場所を渡り歩いてきていたが、一箇所に腰を下ろすことはなかった。
料理はまだマシな方で、アリナは掃除が壊滅的に苦手だった。
千代は徹底的にアリナを教育する。
そうする理由があったから。
籍を入れてから十ヶ月。
千代は娘を出産した。
「アリナさん。この子の名前をつけてください」
「……恵子という名がいいかしら」
「いい名だと思います。何よりもこの子は恵まれていますからね」
「うん。なにせ千代が親なんだからね」
「いいえ。アリナさんがいるからですよ」
恥ずかしげもなく言い切る千代に、アリナは頬を染めて応える。
「そこまで言い切られると困るわ。恥ずかしい話、子育ては初めてなのよ」
「アリナさんが照れている姿を、初めて見た気がします」
普段のアリナといえば、いつでも落ち着いた姿しかない。
何度か真面目な表情も見ることができた。
しかし照れた表情は、アリナと数年付き合って初めて見たものだった。
「大丈夫ですよ。きっとこの子はいい子に育ちます。アリナさんも料理は覚えましたし、整理整頓もできるようになりました。きっとこの子の手本となりましょう」
「そうね。そうだといいわね」
恵子が産まれてすぐ、千代は松代と離婚した。
夫婦の中が良くなかったのか、それとも他に原因があるのか。
千代も松代も、周りの誰にもそのことを語らなかった。
「松代さんの記憶もあのままなのでしょうか」
「どうだろうね。わたしたちと深く関わっているし、もしかしたら思い出すかもしれないよ。でもそれは自分の記憶としてじゃなくて、そういう光景を思い浮かべられるということになると思うわ」
松代は約一年間、千代とアリナと一緒に暮らした。
しかし離婚したこの時には何も覚えていない。
少なくとも、この結婚生活についてはいつか思い出すことだろう。
それ以上のことを思い出すのかどうかは松代次第だった。
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「今日は何のお話をしてもらおうかな」
「そうですね……あの時の話を伺ってもいいでしょうか」
天使は今も教会に住んでいる。
事件の後、アリナはすぐに天使をこの教会に縛り付けた。
『天使といえば教会でしょう』
それだけの理由だ。
「あの時って、もうそれは謝ったじゃない。千代も案外根に持つよね」
「そうではありませんよ。あの時、倒れていた子の中にはわたくしの友人もいたのです。向き合うには今がちょうどいいと思ったのですよ」
「そっか……そうだね。私もあまり覚えてはいないのだけれど、できるかぎりは話してみようかな」
天使は過去を語り出す。
天使が目覚めた当時、周りには誰もいなかった。
目覚めた場所はもちろん教会で、今と変わらず寂れた様子だったそうだ。
天使はどうしてここにいるのか分からない、でもそれは困ったことではなかった。
ただ、産みの親のことは知りたかったそうだ。
だから天使は麓の人たちに暗示をかけた。
誰か天使の親を知っている人がいないか、調べようとしたのだそうだ。
でもそれは失敗した。
産まれたばかりの天使は制御ができず、麓の人たちは一部が死んでしまったのだそうだ。
(麓の人たちが山を避けてたのはそれが理由かしら……)
それがどれぐら昔の話かは分からないが、山の恐怖として語り継がれていたとしてもおかしくはない。
そこから天使は狂っていった。
天使という存在が人を殺したことが原因かもしれないし、そもそも天使という存在を知っている人がその時代にはいなかったからかもしれないし、もしかしたら親がいなかったからかもしれない。
天使は延命のために、天使という存在自体を街の噂に流した。
親の死に目を探るために、いつでも住人を暗示にかけた。
そして、いつも親に会いたいと思っていた。
その三つはいつしか一つになっていた。
街の噂はおまじないになり、天使の存在を仄めかすと同時に暗示にかかってしまう。
親がいないのなら親を作ろうと、暗示にかかった人々に天使は力を使っていった。
そうして件の事件となったのだった。
「……それってどれぐらい昔のことだったのでしょうね」
「どうだろうね。普段は眠っていたから私にもどれぐらい昔のことなのかは分からないんだよ」
ちなみに、民家の一件も天使の仕業だった。
おまじないをしたところで全員が暗示に掛かるとは限らず、また暗示にかかったとしてもうまく教会まで訪れるかどうかはわからない。
そうして失敗した結果が民家で見つかった遺体だそうだ。
もちろん、松代が記憶を失った日と同時に皆の記憶からは消えていた。
遺体がミイラになっていたのはなんでもない。
ただ天使がそういう存在だったというだけだった。
……。
…………。
「そういえば今日はアリナはどうしたんだい?」
「今日はこの子が通う養育所を探していますよ」
「あはは、すっかりお母さんなんだね」
千代は抱いていてた赤子を少しだけ天使に見えやすいようにした。
今日は産まれた千代の娘、恵子も一緒に連れて来ていた。
恵子が産まれてから、アリナは教育熱心になった。
まだ必要もないのに、文字を覚える勉強道具は一通り揃えてある。
今もいろんな養育所を周り、どこが一番恵子に相応しいかを探しているのだ。
「ほんとうに、人って変わるものだよね。そういう意味じゃ、アリナはまだ千代に近いほうだと思うよ。私じゃ赤ちゃんは作れないからね」
「あ……ごめんなさい、そうだったのですね」
「気にしなくていいよ。そもそも子供がほしいとも思っていないし、こうしてたまに姿を見せてくれるだけで十分に楽しいからね」
アリナに囚われ開放されて後、天使は毎日をこの教会で過ごしていた。
ここは天使の生まれた場所なので、そのこと自体はおかしなことではない。
天使が教会に縛りつけられてからしばらくして、千代はやっと教会を訪れた。
子供が産まれる直前になって、千代は天使と話してみたくなったのだ。
自分に多いな影響を与えた相手。
そして今後も考えずにはいられない相手だ。
『ごはん……』
その天使は、教会の中で倒れていた。
『あ��……忘れてたわ』
そんな天使の姿を見ても、アリナの態度は相変わらずだった。
『生きていくためには食事が必要なのよ。例えば以前だと、人の魂を食べていたのね。でも今は違うの。せっかくだから信仰だけで生きられるようにしてあげたのよ。でも誰も天使のことを知らないからね。あとで街の噂で流さなきゃいけないわ。……ちなみにわたしの食事はもうわかってるでしょ?』
その日から千代は暇を見ては教会まで足を運んでいる。
一番好きなのはもちろんアリナだが、天使の存在がなければアリナと知り合うこともなかった。
それに少なくとも容姿は麗しく、教会と天使だけあって話し相手にはちょうどよかった。
「そういえば、麓の方に大きな教会ができるみたいですね」
「うん……最悪だよ。せっかく千代が噂を流して少しずつ教会まで来てくれる人が増えてたのに、これじゃあまたお腹が空いてきちゃうよ」
「あら……わたくしの創作した噂話でしたが役には立っていたのですね」
「もちろんだよ。学院で流してくれたんだっけ? 勉強に恋愛と悩みの多い年頃だからね。千代が思っている以上に学院には浸透したみたいだよ」
悩みがあれば教会へいけ。
簡単に言うとそれだけの噂だ。
神頼みなら既に神社があったのだが、そこはまだ若い学生たち。
一度噂が流れるとそちらを無条件に信じる層も少なからずいるのだった。
千代の流した噂に追加して、運が良ければ天使が助けてくれるというのも静かに流行している原因なのだろう。
「でも麓の教会には天使はいませんから、ここを訪れる人は変わらないのではないでしょうか」
「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれなあじゃない。それに千代も学院を卒業しちゃったし、今が噂のピークだと思うんだよね」
怪談などの噂話にも流行り廃りはもちろんある。
千代が学院生だった時には定期的に教会の話をできたのだが、卒業した今となってはその噂を流す相手もいない。
なんとかできるのならばなんとかしたかった。
「その子が大きくなるのをゆっくり待つしかないかな。その子も学院に通うんだよね?」
「ええ。でもまだ十年以上も先のことですけれど……」
「まあ何とかなるよ。こうして千代が来てくれるだけでも助かってるし、いざとなったらアリナがいるしね。……キス限定っていうのがいただけないけれどね」
千代とアリナが教会を訪れて天使が倒れているのを見つけた時、アリナは天使の唇を奪った。
それは千代が倒れた時と同様の行為だった。
生命力を分け与えるのに口付けが必要ということは決してない。
ただ、公然と唇を奪えるチャンスだからそうしているだけだ。
千代のように同性が相手でも忌避感のない者ならばいいが、アリナの惚れた女性すべてがそういう趣味なわけではない。
それはこの天使が相手の時みたいに、ほんの少しでも口付けできる相手を増やそうとしたアリナが自らに課した制限だった。
……もちろん触れるだけでも生命力は移せるし、それは口付けした場合となんら遜色はないのだが。
「残念だけどそろそろ時間かな。その子もいるし、千代は早めに帰ったほうがいいだろうね」
「そうですね……。また来ますね、今度はアリナさんも連れて」
「千代だけでいいよ。私はアリナのことが苦手だよ」
「それは十分にわかっているのですけれども、アリナさんがあなたのことを好きですからね」
千代とアリナが一緒に学院に通っているうちに気付いたことだ。
アリナは相手の顔さえ良ければ性格は問わないところがあった。
……もちろん目の前の天使は悪い娘ではないのだが。
「……まったく、美人はお得なんじゃなかったのかな」
「あらあら。アリナさんに求められるだなんて、とっても素敵なことではないですか」
「これだよ……。千代ってさ、多分アリナと出会わなくても同姓と付き合っていたと思うよ」
「うふふ。もしかしたらそうかもしれませんね」
恐らくはそうなのだろう。
アリナと初めて会った時、その隣には当時の友人がいた。
その時の千代は嫉妬したものだ。
でもその嫉妬は友人に対してなのか、アリナに対してなのか、両方になのか。
きっと答えは出ないだろう。
「……そうだった、忘れてたよ。最後に私の名前をつけてくれないかな? このまま名前が無いのも不便だし、アリナは千代に考えてもらってって言ってたんだよ」
立ち上がり、赤子を抱えた状態で千代はほんの少しだけ考えた。
「……それでは、マリア、と」




