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2 恵子の成長

『大きくなったらアリナをお嫁さんにする!』


『うふふ、それでは恵子がわたしの旦那さんなの?』


『うう~……じゃあどっちもお嫁さん!』


 まだ恵子が十にも満たない時の会話だ。


「わたし、結婚なんて絶対に嫌だからね」


 大きな音を立てながら扉を閉め、恵子は自室へと篭ってしまった。

 これが今の恵子の言葉。

 わたしと千代に宣言した恵子の言葉だった。


「アリナさん、どういたしましょうか」


「どうしたらいいかしらね……」


 リビングに残されたわたしと千代は大いに頭を悩ませることになった。



 恵子はもうすぐ学院を卒業するという歳になっていた。

 わたしたちは複雑な家庭環境だったけれど、それでも恵子は立派に育ってくれた。


 そしてつい先ほど、恵子にわたしと千代の関係を伝えた。

 これから社会人になるという節目にはちょうどいいと思ったからだ。

 これまでも一緒に暮らしていただけあって、察するところがあったのか恵子はすんなりと受け入れてくれた。

 そう思っていたのに。


「遅れてやってきた反抗期かしらね……」


 恵子はいい娘に育ってくれた。

 でも実は無理をしていたのかもしれない。

 父親のいない、千代とわたしという親を持っていた恵子は今という関係を壊さないために抱いていた疑問を圧し殺していたのかもしれなかった。


 だとしたら、今の恵子の反応は甘えているようなものかもしれなかった。


 そう考えていたら、ガチャンと玄関の扉の閉まる音が聞こえてきた。


「……恵子はどこに行ったのかしら」


「教会でしょう。あそこにはちょうどいい話し相手がいますからね」


 そうかもしれない。

 ここは彼女に期待することにした。



------



「進学するから」


 翌朝、幾分かすっきりとした表情を見せた恵子はわたしと千代にそう宣言した。


「そう……わかったわ」


「……怒らないの?」


「怒りませんよ。あなたの人生ですし、勉強をしっかりとしているのは知っていましたからね」


 今の時期からでも、無理していい進学先を選ぶのでなければ恵子も十分に受かるだろうということはわたしと千代も分かっている。

 少なくとも蓄えは十分にあるのだし。


「あのあと考えてみたの。世間体が大事っていうのは分かるけど、やっぱり結婚は嫌なのよ。たから、一度この街を離れようと思うの」


 ……ええと、それはつまり。


「……わたしも一緒ということかしら?」


「そう。アリナも一緒にね」


 ……今のわたしたちの状況を考えてみる。


 千代に関しては順調といえる。

 まだ四十手前なのに、千代は白峰碧山女学院しらみねみどりやまじょがくいんの理事長となった。

 千代の人生は安泰と言っていいだろう。


 問題なのは恵子だ。

 千代の時と同じように、わたしは恵子と一緒に学院に通っている。

 学院を卒業したあとはどうするのか、恵子はまだ決めていなかったはずだ。

 昨日のやり取りからも、やりたいことの一つは分かっているのだけれど。


 そして本日、恵子は結論を出してくれたのだ。

 恵子は結婚したくない。

 だからこそこの街から一度離れようとしているのだ。


 それはいい。

 わたしが付いて行くのも別に構わない。

 学生を続けるということは恵子はまだ子供ということで、保護者が必要だから。

 子供を一人にしないぐらいにはわたしは過保護なのだ。


 心残りなのは、千代は一人でこの街に残るということだった。


「いいのではないでしょうか」


「千代?」


 本当に意外なことに、千代は悩まずに返事をした。


「一度この街を離れるということは、私たちに迷惑が掛からないようにと恵子が考えたことなのでしょう。ならば私は何も言いません。それに、すぐに戻ってくるのでしょう?」


「うん……卒業したら、すぐに」


「でしたら私は何も言いません。戻ってきてからの恵子の立場は辛いものになりますが、それは十分覚悟しているのでしょう?」


「うん。わたしは大丈夫だから」


 千代は恵子を送り出した。

 恵子はわたしと二人、たった二年間だけど違う街で暮らすことになった。



------



 恵子との同居生活は順調と言えた。

 恵子にとって不満だったのは、わたしが進学しなかったことだろうか。

 わたしは出来る限り自分の痕跡を残したくなかったから、しぶしぶ恵子に了承してもらった形だ。


 恵子と暮らしていた二年間、わたしはほとんど家を出ることはなかった。

 そもそものわたしは出不精なのだ。

 恵子を見送って、そして出迎える日々を続けた。

 千代とはこういう時間はほとんどなかったから、とても新鮮だった。


 そうして二年。

 卒業しようという時になって恵子は妊娠した。


「ねえアリナ。この子が産まれたからといって、わたしのことを(ないがし)ろにしたらダメだからね?」


「あら、わたしは信用がないの? 恵子が産まれてからも、千代とも仲良くしているじゃない」


 ほんの少しだけ膨らんだ恵子のお腹に手を触れると、少しだけ動いたような気がした。

 もちろん、まだまだそんな時期ではないのだけれど。


「分かってるけど……」


 恵子は少しだけ不安そうにしている。


「わたしが産まれる前までは、お母さんと二人っきりだったんでしょ? お母さんは何も言わないけど、わたしの世話をアリナさんがするようになって、お母さんは不満だったと思うの」


「そんなことはないわ。わたしも千代も恵子のことを愛しているのよ」


「分かってるけど……」


 きっと恵子は不安なのだ。

 恵子はいままでずっとわたしと一緒にいた。

 依存していたと言っていいかもしれない。

 わたしも初めての子育てだったから、恵子を溺愛した。


 今まで自分だけに向けられていた親愛が、これから産まれる娘に向けられるのだ。

 実の娘に嫉妬してしまわないか不安なのだろう。

 もしかしたら、ちょっとだけ不満も混じっているのかもしれない。


「大丈夫よ。恵子はわたしが育てたのだから、きっと産まれてくる娘とも仲良くやれるわ」



 恵子は千代の元へと戻ってきた。

 そしてそのまま出産した。

 恵子を妊娠させた相手は不明となっている。



------



 時代の変遷というのだろうか。

 まだまだ数は少なかったが、たしかに増えてはいたのだ。

 進学する女性も、未婚のままに出産する女性も。



「アリナ。この子に名前をつけてあげて」


「あら、わたしでいいの?」


「わたしの名前もアリナが考えてくれたんでしょう? お願いよ」


 差し出された、産まれたばかりの娘を受け取る。

 恵子の面影も千代の面影も見える娘だ。

 きっと可愛い娘に育つだろう。


 娘には琴乃と名付けた。



 恵子が小さかった時と違い、琴乃はよく泣いた。

 わたしも恵子も千代も、どうして琴乃がこんなにも泣くのか分からなかった。

 わたしは琴乃に付きっきりになった。


 夜はわたしの自室に琴乃を連れていく。

 夜泣きで千代を起こさないためだ。

 千代は働いているから、眠りを阻害させたくはなかった。

 千代も琴乃のお世話を焼きたがるのは困ったものだけれどね。


「恵子。あなたもそろそろ眠りなさい」


「ううん……もうちょっとだけ起きてる……」


 琴乃が眠っている夜の時間は、わたしと恵子が一緒にいられる貴重な時間だ。

 こうしてベッドの中でわたしに寄り添ってくる恵子は、とても一児の母には見えてこない。


 でも休めるときにはしっかりと休んでほしい。

 なにせわたしは母乳が出ないのだ。

 ミルクを作ってもいいのだけれど、まだまだ高価だしあまり売ってもいないのだ。


 恵子は体調を崩さないようにしないとね。



「ママぁ……」


 初めて琴乃が言葉を喋った。

 それ自体はとても喜ばしいことだったが、ママと呼ばれたのはわたしだった。

 恵子は特に気にしてない様子だった。



「ママ」


 少し遅れて、恵子もママと呼ばれるようになった。

 恵子は嬉しそうにしていて、わたしはこっそりと息を吐く。

 これでもう安心だと思えた。



 琴乃が立てるようになると、恵子はすぐに働きだした。

 わたしにも千代にも相談せずに、役所に勤務することになっていた。

 結婚せずに出産したということで少し嫌な気分を味わったらしいが、それでも働けたのはきっと進学したからなのだろう。


「アリナさんは琴乃が大きくなったら、私の時と同じように琴乃と一緒に学院に行くのでしょう? その時のために、出来ることはしておこうと思ったの」


「恵子……ありがとう」


 身分というのは大切だ。

 最近は何をするにしても身分が必要になってきていた。

 わたしの立場では、働くことすら簡単ではなかったのだ。


 恵子はわたしのことも、琴乃のこともきちんと考えてくれている。

 それがとても嬉しかった。



------



 琴乃はとても可愛い。

 立てるようになっても、一人でどこかに行くということはほとんどなかった。

 かわりにいつもわたしの後ろをよちよちと歩いてくるのだ。


 そんな琴乃のことが、わたしも恵子も千代も好きだった。



「この子が大きくなった時は、きっと私よりもわがままを言うと思うわ」


「恵子が進学したいって言った時のこと? あれはきちんと考えた末でのことでしょう」


 眠った琴乃の頭を撫でながら、わたしと恵子は休日の昼下がりを穏やかに過ごしていた。


「そうだけれど……。でも、一番なのはやっぱりお母さんと同じようにすることだったと思うのよ」


「でもね……千代の時とは違って、恵子には知り合いの男性はいなかったからね」


「うん。でもね、それよりも私はアリナさんと一緒にいたかったの。アリナさん以外とは一緒にいたくなかったの」


 恵子が形だけでも結婚を嫌がった理由。

 それはもしかしたら、わたしのことを考えたからかもしれない。

 わたしは意外と嫉妬深いから、たとえ自分で決めたことでも色々と考えてしまうから。


「琴乃が大きくなった時には、もしかしたら女性同士の婚姻が当たり前になっているかもしれないわ。そしたら琴乃は、絶対にアリナさんと結婚するた言い出すと思うの。その時、アリナさんはどうしますか?」


 恵子はわたしの顔をじっと見てくる。


 女性同士の婚姻……。

 そんな時代が本当に来るのだろうか。

 今のわたしには想像できない。

 これは人としてわたしを愛してくれた恵子だからこそ想像できることなのかもしれない。


 どうやら千代も気になるようで、気付けば私の反応を伺っていた。


「そうね。その時は……どうしようかな」


 答えは出ない。

 わたしにはとても想像できない。

 たぶん籍は入れられないけれど、式は上げてもいいかなと思う。

 その時はもちろん、千代も恵子も一緒にだ。


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