1 ヴラッド公の最後
始まる前から終わりは見えていた。
「アリナ、我らも出るがお前はどうする」
豪奢な正装へと身を包んだヴラッド公が尋ねてくる。
「わたしは大人しくしておくわ。ううん、わたし達は大人しくしておくべきだと思うの」
わたしはそう答えた。
「そうか……。だが我らは止まらん。我らが国が蹂躙されようというのに、それをただ受け入れるなんてことは我らには出来ないのだ」
「ええ。それも十分に理解してるわ」
身を翻して戦場へと向かうヴラッド公の背中を見送る。
「アリナはこれからどうするの?」
マーリアもわたしに尋ねてくる。
「まだ何も考えてないわ。とりあえずは、あなた達の最後を見守るつもりよ」
「……ありがとう、とても嬉しいわ」
これから死にゆくというのに、マーリアには笑顔が浮かんでいた。
「何も決まっていないのなら、東に行ってみてはどうかしら」
「東に?」
「ええ。以前に旅行で訪れたことがあるのだけれど、とても良い所だったわ。それに島国だから、こういう大きな戦もないの」
「それは、良いかもしれないわね」
「何よりも、身体の作りからこの国とは違うから、きっとアリナも気に入ると思うわ」
そう伝えて、マーリアも私の前を去っていく。
豪奢なドレスがとてもよく似合っていた。
後は彼らの最後を見守るだけだ。
ここトランシルヴァニアで、ルーマニアの大群に抗おうとする彼ら。
きっと誰も生き残れない。
そもそも生き残るつもりが彼らにはない。
わたしよりも遥かな時を生きてきたヴラッド公とその親族。
わたしは最後まで彼らを見つめていた。
------
わたしが長く腰を落ち着けているここトランシルヴァニア。
大昔に死んだとされるヴラッド公はまだまだご健在で、わたしは彼のところに身を寄せていた。
……別に、奥様の容姿が好みだったとか、そういうわけでは決してない。
この地は決して住みやすい場所ではない。
まず何よりも寒い。
それに周囲では国が興っては潰れてを繰り返してたし、その影響はこの街にまでおよんでいた。
周囲の国は淘汰を繰り返し少しずつ大きくなっていった。
大きくなると、さらなる領土を求めて大戦を起こすのだ。
そして、この街も大戦とは無関係ではいられなかった。
そもそも独立を保つのは不可能だったのだ。
ここトランシルヴァニアは南西から北東までをルーマニアと隣接しており、彼らが領土を広げることは予想できていた。
この地方の真の領主であるヴラッド公は大いに頭を悩ませていた。
独立を保つためには戦わざるを得ない。
しかし戦えば負けは必須。
勝つためには他国の協力がどうしても必要になってくる。
「アリナよ。我らはどうしたらいいと思う」
「わたしには分からないわ。奥方だけが大事なら一緒に逃げたらいい。生き残るのが大事なら戦わずに身を隠せばいい。でもあなたはどちらも選ばないのでしょう?」
「……そうだな。我にとってはこの街の住人も大事なのだ。彼らを見捨てるなんてことは、我には到底できないだろう」
ヴラッド公はもう数百年はこの街で暮らしているはずだ。
ならばこそ、街の住人に対しては愛着も持つのだろう。
街の住人はヴラッド公のことを知らなくとも、それでも愛する住人であることに変わりはなかった。
「わたしに聞いてもダメよ。あなたが自分で判断しないと、きっと後で後悔するわ」
それだけ伝えてヴラッド公の前を去る。
けれど、彼の心の中はもう決まっていたのだと思う。
彼はこの街を、そして住人を守りたい。
しかし勝つためには他国の協力が必要。
でも、それで勝ったところでどうなるだろうか。
協力を要請するとしたらドイツ帝国になることは間違いない。
かの国は強力で、ルーマニア程度は軽く蹴散らしてくれることだろう。
エーリッヒにアウグストの名はわたしでも聞いたことがある。
どちらもドイツ帝国が誇る指揮官で、ルーマニア程度では敵にもならないことだろう。
問題は勝ったあとだ。
すでにこの街の半分はドイツに支配されているといってもいい。
ジーベンビュルゲンなんて呼ばれ方のほうが浸透してるのがその証拠だ。
でもまだここはトランシルヴァニアだ。
しかしヴラッド公だけで独立が保てないとすると、ドイツ帝国は喜んでここを支配下に置くことだろう。
その時でも、果たしてトランシルヴァニアの名は残るのだろうか。
どちらに転んでも、ヴラッド公の負けは決まっているのだ。
「アリナ、何を考えているの?」
ヴラッド公の前を辞去して廊下を歩いていると、わたしに近付く人影があった。
「奥様……」
「あら嫌よ、そんな他人行儀な呼び方なんて」
「マーリア、ごめんなさいね。……少し考え事をしていたものだから」
「あら、それは我が愛しの旦那様のことかしら」
「……正解よ。さっきちょっとだけ話を聞かれたの」
わたしがここに暮らしている理由。
それはマーリアの存在が大きいだろう。
マーリアはとても美しく、しかしヴラッド公のみを深く愛していた。
そんな彼女にわたしは惹かれ、そして彼女と交友を持った。
同じ夜の住人だったから、仲良くなるのにさほどの時間はかからなかった。
「あの人もねえ……肝心なところで悩むのだから」
「さすがに簡単には決められないと思うわ」
歴史を学ぶとヴラッド公の残虐性ばかりが目立つ。
けれど実際の公は奥方思いの優しい方だ。
そもそも公の悪い噂を流したのが当時の公のご友人だというのだから、そこにはなにか理由があったのだと思う。
珍しく酔っていた公が口を漏らしたことがある。
『当時は内乱が絶えなかったからな。マーチャーシュは我に憎しみを集めることで、周囲を落ち着かせようとしたのだ』
ヴラッド公の友人、マーチャーシュは当時のハンガリー王だ。
公の奥方のマーリアはマーチャーシュ王の妹で、未だ夫婦仲が良いことからも、歴史上のヴラッド公の話は嘘だとわかる。
「あの人はねえ……私達のことなんか考えなくともいいのにねえ」
「あら。それだけあなたが愛されているということではないの」
「それは嬉しいんだけど……私達はあの人と一緒にいくって、もう決めているから」
「そう……そうよね」
マーリアにはもう、ヴラッド公がどのような判断を下すのか分かっているのだろう。
なにせ永い時を一緒に過ごしてきたのだ。
マーリアの心が私を向かなかったのは残念だったが、だからこそマーリアに惹かれたのだとも思う。
「今夜はずっと考えるのかしら……。ねえアリナ、一度ぐらいは私と寝てみる?」
「マ、マーリア!?」
そのマーリアから驚きの提案をされた。
長くこの城に留まっていたけれど、未だわたしはマーリアと一夜を共にしたことはなかったのだ。
だからとても魅力的な提案だった。
だけど……。
「もしかしたら今夜が最後かもしれないじゃない? 今まではアリナの視線に応えられなかったけれど、最後ぐらいはいいと思うのよ」
「……最後こそ、ヴラッド公と一緒にいたほうがいいのではないの?」
「あの人とは今まで永い時間を過ごしてきたし、今更話すことはもうないわ。私の心残りはまた一人になってしまうアリナのことなの。ねえアリナ、あなたこそどうなの? まだ私のことが気になっているの?」
「……もちろんよ。マーリアは今も美しいままで、とって魅力的よ」
これは本心だ。
マーリアの容姿は出会った頃から全く変わっておらず、私の気持ちもまた変わっていない。
私の返事は分かりきっていた。
------
「帝国と協力することとした」
翌朝、親族全員を集めた前でヴラッド公はそう宣言した。
全員といってもこの城に住んでいる人数は十にも満たない数だし、そもそも血のつながりはない。
けれども公にとっては全員が家族だ。
「おそらく我は戻らないだろう。だがお前たちが我と共に来ることはない。お前たちはまだまだ子供なのだからな」
ヴラッド公は多くは語らなかった。
恐らく、彼らの判断はすでに分かっていたのだろう。
「ほっほ。そう言われましても、公を一人にするわけにはいきませんからな」
「そうだぜ。親父がダメだと言っても俺はついていくぜ」
「当然だ!」
「ルーマニア野郎を串刺しにしてやる!」
ここに集まった誰もが、公についていくことを宣言した。
そもそも子供がどこにいるというのだろうか。
一人に至ってはいつ死んでもおかしくないような有様なのだ。
……それでも死なないのがわたしたちなのだけれど。
戦場に赴くのにもう戻らないとは、引っ越すという意味では決してない。
命が尽きるまで戦うという意味だ。
それなのに、誰もが公に同意した。
「あなた……もちろん私も最後までお傍にいますからね」
マーリアの言葉にだけは公も少し顔を歪めた。
しかしそれもほんの一瞬だ。
すぐにマーリアの意思を尊重する表情をうがべ、それきり何も語らなかった。
その光景を、わたしは部屋の隅っこで見ていることしかできなかった。
------
ドイツ帝国の人物はすぐに訪れてきた。
驚いたことに、やってきたのはエーリッヒにアウグストだった。
「公と我らの力を合わせたら、ルーマニアなぞひとたまりもないことでしょう」
噂に違いない力強さを備えている人物に見えた。
それに何よりも誠実そうだった。
少しだけ歓待をした後に、公はエーリッヒとアウグストを連れてすぐに部屋へと篭ってしまう。
その後の会話は知らない。
けれど公のことだ、きっと自らの地位よりも命よりも、街の住人のこれからについて話をしたに違いなかった。
------
ヴラッド公の城の前を、豪奢な集団が悠然と歩いていく。
とてもこれから戦場に赴くとは思えない集団だ。
彼らはこれから侵略者と戦う。
武器なんてひとつも持っていない。
近代兵器の跋扈する中を、彼らは身一つで乗り込むのだった。
そんな様子をわたしは一人離れた地点で眺めていた。
彼らの最後を見届けると誓ったのだ。
彼らの先には戦場がある。
小隊がもう街のすぐそこまで来ていたのだ。
そんな中、ヴラッド公はおもむろに一歩前へと出るのだった。
『我が血を汚すのは一体誰だ
我が名を貶すのは一体誰だ
我は闇夜の王である
誰も我が前に立ってはならぬ
誰も我が道を塞いではならぬ
それでも立ちはだかるというのなら
その身で持って罪を償え
死者の行進』
地面から無数の槍が生え、ルーマニア兵を串刺しにする。
集まっていた小隊の一人も逃れることはできなかった。
その槍をヴラッド公のまわりにいた人たち一人一人が持ち上げ、天へと掲げる。
もちろん死体は刺さったままだ。
それは、歴史から学ぶヴラッド公そのものの姿だった。




