01:全ての始まり
――暗闇の中で、誰かの泣き声が聞こえる。
誰の声だろう。
聞いたことがあるような……ないような。
――優夜くん?
ふと思い浮かんだのは、一つ年下の男の子。
優夜くんとわたしは同じマンションに住んでいる。
わたしが301号室で、優夜くんが302号室。
つまり、お隣さんなんだ。
だんだん視界が明るくなっていく。
四隅が白くぼやけた視界に映し出されたのは、見覚えのある風景。
わたしたちが住んでいるマンションのエントランスだった。
曇り空の下、マンションを出てすぐのところにある花壇の縁に座って、小さな男の子が泣いている。
――えっ、千聖くん?
泣いているのは優夜くんではなく、優夜くんのお兄ちゃん。
わたしと同い年の千聖くんだった。
すごくびっくりした。
だって、千聖くんが泣いているところなんて初めて見た。
友達と取っ組み合いの喧嘩をしたときだって、公園のジャングルジムのてっぺんから落ちたときだって、彼は泣かなかった。
いや、ジャングルジムから落ちたときは、ちょっぴり涙目になってたけど。
「どうしたの、千聖くん」
わたしの言葉に反応して、千聖くんは顔を上げた。
涙で濡れた大きな茶色の目が、困惑顔のわたしを映し出す。
「優夜が……優夜がお父さんに連れて行かれたぁ」
そう言って、千聖くんはまた泣き出した。
わたしは頭を殴られたような衝撃を受けた。
千聖くんの両親の仲が悪いのは知っていた。
わたしたちが幼稚園に通っていた頃、千聖くんのお母さん――麻弥さんは、顔にガーゼを貼っていたことがある。
「転んでテーブルにぶつけたんです」
麻弥さんは幼稚園の先生にそう説明して笑ってたけど、本当は違う。
「転んでなんかない。あれはお父さんにコップをぶつけられて出来た怪我なんだ」
千聖くんは園庭で作った砂のお城を壊しながら、口をへの字に曲げて、わたしだけにこっそり教えてくれた。
「おれのお父さんとお母さん、離婚するんだ」
時が経ち、小学二年生になった千聖くんがそう言ったのは、この前の水曜日。
雨が降り続く6月のことだった。
「日曜日に、お父さんだけいなくなる」
千聖くんはそう言っていたのに、千聖くんのお父さんはマンションを出るときに優夜くんを連れて行ったらしい。
大切な弟と引き離され、千聖くんは泣いている。
どうしたらいいのかわからなかった。
どうしたら千聖くんの涙を止めることができるんだろう。
おずおずと手を伸ばすと、千聖くんはわたしに抱きついた。
わたしの肩に顔を押しつけて、さっきよりも激しく泣き喚く。
泣いている千聖くんの身体は温かい。
わたしの肩に押しつけられた彼の眦は、もっと熱かった。
わたしは無言で千聖くんを抱きしめ返した。
掛ける言葉なんて見つからなくて、ただそうすることしかできなかった。
――これは夢だ。現実じゃない。
冷静なもう一人のわたしが心の中で囁いた。
だって、今日は土曜日だ。
千聖くんのお父さんが出て行くのは明日の日曜日のはずだもん。
………じゃあ、これは明日の出来事?
わたしは未来の夢を見てるの?
それともただの夢なの?
わからない。
わからない、けど。
まるで縋りつくようにわたしを抱きしめ、泣きじゃくる千聖くんを見て、わたしは強く、強く思った。
――千聖くんの涙を止めてあげたい。
そう思ったのが、多分、全ての始まりだったんだ。
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