第五十一走 ガバ勢とある酒場でのできごと
ラインコワは雇われ店長兼バーテンダーだった。
場末の酒場を押し付けられてはや二十年。十九年と三百六十四日前には「三日で辞めてやる」と心に誓ったはずだが、カビの生えた穴倉のような薄暗さと、うさん臭い客たちの擦り減った隠微な顔が、結局は自分に合ってしまったのだろう。
彼らを見ていると自分が上等に見えてくる――というすれた慰めではなく、所詮同類という気安さから、自分の過去の一切合切を呪わずに済む思考の弛緩。アルコールよりもまずその空気に毒されたことで、二十年前から今日まで、カウンター奥で注文通りの安酒を愛想よく振る舞うことになった。
誰かにこの責任を覆いかぶせたい時は、苦笑するしかない。
客の入りはいつも通りだ。
どこからか引っ張り込んだ女たちを、腹巻みたいに体にまとわりつかせて高笑いしている巨漢。
グラス内の琥珀に、濁った自分の顔を映し続けてわざわざ不味くしている痩せぎすの男。
小さなテーブルを四方から脅しているかのように囲んで座り、ぼそぼそと密談している不審者たち。
この店と空気と酒とそしてかりそめの主である自分に相応しいロクデナシども。漂白された街を漂う二本足のゴミが行き着く先はだいたいここだ。
だが、これでも、ここ数年で常連の顔はだいぶ入れ替わった。代わりに現れたのは――というより、彼らが原因で前の常連が出ていったのだが――AB乗りの傭兵、つまりコルボの集団だった。
基本的にホンモノの兵隊である彼らは、街の清掃で掃き捨てられたチンピラとは纏っている空気が違う。破綻した性格の上に非人道的な人殺しの経験を積み上げており、腹を開いてみたら人間とは異なる内臓が詰まっていても驚くに値しない。
今ここに来ているのは、さる企業と専属契約しているコルボの集団だ。
金払いはいいし、ABの腕も立つ。それは新たな金づるということだ。ただすこぶる品がなく、ついでに見境のないのが大いなる欠点だが。
彼らとの悶着の後で二度と見なくなった顔は、今どうしているだろう。
清掃マシンからリサイクル物資をかっぱらって稼いだ金を、一夜で小便に変えるのが趣味のマッコイ爺さん。
買ってきたミントアイスにウイスキーをかけろとせがんでくる無法のモーラ。
それから……。
あの子。
あの子が来なくなってどれくらいたつ? 五年か、十年か。もうかぞえるのも億劫になってしまった。
それだけ自分の年齢にこだわりがなくなったのだと自覚し、磨いていたグラスをそっと棚に戻す。
考えるだけ、徒労。ここでは黙って酒を注ぐ者だけが求められている。それに徹すれば給料は出るし、悩みもなくなる。今日もまた、それでいい。いつも通りで――。
また一人、客が入ってきた。
「…………」
ぼんやりと開いた目と口が、戸惑いに押し流されて彷徨った。
白い頭だ。
頭から白ペンキをかぶせられたバカも、時折そのまま店に来る。
乾いていればいいが、まだしずくが滴っていて床が汚されたら面倒なことになる。この薄闇に白は目立つのだ。そういうヤツはいっそのことバケツに飛び込んだ直後に来てくれれば、モップにして床の模様替えに使ってやるのに――。
しかしその客は、バカでも白ペンキでもモップでもなかった。
「レ……レイ親父……!?」
「おう」
バーでは他人の時間を侵さないことがルール。咄嗟に絞ったラインコワの驚愕の声は、カウンター席の端で突っ伏している酔っぱらいの肩をわずかに揺すっただけだった。
ラインコワはカウンターを飛び越えるほどに身を乗り出して、席についた彼を迎える。久々に感じた自分の心音に、手が震えた。
「まさか、レイ親父がこっちに来るとは……新しいチャートでも開発したんですか?」
「…………そうだよ」
「うそつけ! どうせ選ぶ依頼を間違えたかガバコンだったんでしょ?」
「見てきたようなことを言うじゃねえか」
「わかりますよ。あんたのすることくらい」
ラインコワは微笑して姿勢を戻した。
自分の立場を思い出す。ここはバーで、おれはバーテン。そして目の前の相手は酒を飲みたがっているお客だ。努めて穏やかに話しかける。
「久々だ。一杯目くらいおごりますよ。何にします?」
「んあ? じゃ、インドラの光」
「またそんなキツいのを……。一門が真似したら死人が出ますよ」
笑いながら色のない液体をグラスに注ぎ、珍客へそっと出す。
希酒インドラの光には、四回に分けて飲む奇妙な風習がある。なぜか一章、二章、という呼び名がついているが、その理由はラインコワも知らなかった。ただ、グラスに半分も注がれないこの酒を最低でも四回に分けて飲まないと、酒豪であっても危険なことだけは重々承知している。
それをレイ親父はパカーン! と一気にあおった。
「ク~ッ! こいつはキクぜ……。四章一気完走、生きた人間がやっていいことじゃねえ」
「じゃあ何で死なないんですかね……」
着流しの衿元をはだけて、赤くなった顔とのど元を冷まそうとする彼に、ラインコワは自嘲めいた苦笑を浮かべる。
なんとまあ、いつまでたっても艶めかしい人か。
この生白さと華奢な首筋に何度目を奪われたことだろう。
もはや孫に見えても不思議はないほど外見の年齢差を隔てても、寝静まって久しい心臓がダンスするのを抑えられない。
今でも彼は一門最大の悩みの種だろう。
ああ、こんな時あの子がいてくれれば。そうすれば、ほよであるよりはいくらか健全な自分を自覚できるのに。
と。
「ああ? 何でガキがこんなところにいるんだあ?」
無粋な声が割り込んできた。
レイ親父が振り返ると、どうやって店の入り口をくぐったかわからないほどの巨漢が、彼を見下ろしていた。
「何だ、このでけえのは?」
レイ親父は据わった目で言う。あんな自殺めいた飲み方をしたのだから、当然酔いは回っているだろうが、今はただ不機嫌なだけだ。
ラインコアは状況を早口で説明しようとした。この巨漢は厄介な相手だった。客の中でも一、二を争うほどの無頼。気になった相手にすぐにケンカを売る悪癖があり、こいつとのもめ事でケガをしたり店を去った常連は数知れない。
「コルボのギヒムです。大企業のシノノメが率いるAB部隊の斬り込み隊長……」
しかし彼の説明はゴールにたどり着けず、途中で息を呑む音に変わった。
ギヒムがいきなり、レイ親父の頭上で、いつの間にか手にしていた真新しい酒瓶を逆さにしたからだ。入っていたビールがドバーッと流れ落ちて、下にあるものを水浸しにした。
無人の椅子と、床を。
「あ?」
ギヒムの弛緩した声は、そこで途切れた。
拳が横から顎を打ち抜いた、というのは控えめな表現になる。
印象をそのまま言わせてもらえるのなら、レイ親父が殴りつけたギヒムの顎は、時計の針のようにヤツの頭を一周して元の位置に戻ってきた。それくらいの勢いだった。
「おいゴラァ! 人の頭に酒を注ぐたあどういう了見だ! ビール泡職人の免許持ってんのか!」
怒鳴りつけながら、卒倒したギヒムの手から転がった酒瓶を足の甲でついと拾い上げ、レイ親父は残りをラッパ飲みにした。
この人の頭に酒をぶっかけるなんて、武術の達人でも不可能だ。ラインコワは、酒瓶から中身がこぼれ出るまで確かに彼が椅子にいたことを確認していたが、そこから先は今の結末まで一足飛びだった。
しかし、これで終わったわけではない。むしろ始まりなのだ。
「おい、何の騒ぎだ」
カウンター席で発されたこの騒動の波紋は瞬く間に店中に広まり、壁際のソファに到達すると、そこにいた一人の男に唸り声を上げさせた。
「ああん?」
レイ親父が目をすがめるのと同時に、ラインコワは再度慌てて説明する。
「あれはシノノメAB部隊の実質的なリーダー、ニックです。シノノメが今の勢いを手に入れたのは、ヤツが率いる〈ブラックドッグ〉と契約した直後からだ。近々、街の趨勢を決める重要なミッションがあるはず。親父、ヤツは一応味方です。争っちゃあ……」
しかし、彼はまたも最後まで言い切れない。ニックの決して無視できない重厚な声が、割り込んできてしまったのだ。
「おっ? 何だよ、よく見ると可愛いガキじゃねえか。親父の使いか? こんなしみったれた店に酒を買わせに来るなんざ、ろくな親じゃねえぜ。おい、ちょっとこっちに来い。お兄さんが可愛がってやるよ」
ニックが下品な笑い声を上げると、取り巻きの男たちも揃って爆笑する。
ラインコアは舌打ちしたくなった。
あのテーブルにいるのは、いずれもニックの直属の手下たち。ABを操る腕も一流だが、品の悪さも一級品。
周囲のテーブルも、〈ブラックドッグ〉のメンバーで埋まっている。同じ種類の動物に一斉に伝染病が広がるのと同じように、小さな火種があっという間に延焼するのが、今のこの店の状況なのだ。
レイ親父にそれを伝えるべきだったと後悔した時には、彼の背中はもうニックたちの席の真ん前に立っていた。
ニックは赤ら顔をにやつかせ、
「あん……? あれ……こいつ、男か女かわかんねえな……。ま、いいや。とりあえずしゃぶれや。その顔ならもう客の一人や二人取ってるんだろ?」
低俗な冗談に仲間たちが苦笑いする。連れ込んだ女たちは露骨にいやな顔だ。このクッソ激烈に品のない冗談がニックの癖。そう、これは悪ふざけなのだ。本人としては。
白い髪のウブな美少年――だか美少女は、タチの悪い大人の冗談にショックを受けて、涙ながらに店から逃げ出す。彼らは、この退屈な酒場にそんな余興を期待していたのかもしれない。
ダメみたいですね……。ラインコワがそううめいた時には、もう始まっていた。
「しゃぶれだあ……? おまえがしゃぶれよ!」
一瞬だった。ニックの膝の上に足をかけたレイ親父が、そこから伸びあがるように逆の足で彼の顎を蹴り上げたのは。
跳ね上がったのは顎だけではなかった。体ごと――まるでハムスターが回す車輪のように、ニックの体はソファーの上でぐるりと一回転して、元の位置に戻った。
わけのわからん光景に彼の仲間たちが唖然とする目の前で、レイ親父は酒瓶を振り上げた。ギヒムから奪ったビールではない。さっき提供したインドラの光だ。
いつの間に棚から持ち出した、とラインコワが訝る間もなく、レイ親父は仰向いて気絶しているニックの口に酒瓶を突っ込んだ。宣言通り、しゃぶらせた。
「ガボォア!?」
死人でさえまた殺すと言われる強烈な酒だ。気絶から一瞬で目覚めたニックは、口から噴水のようにインドラの光を噴き出したが、レイ親父が彼に突っ込んだ酒瓶から手を離さなかったため、すぐにおかわりを流し込まれて、また気絶することになった。
「待てコラガキ!? 何してやが――」
席を立とうとしたハゲの頭がドッジボールのボールみたいに水平に飛んでいく。レイ親父が蹴り飛ばしたためだ。
「なんでそうてめえらは、ケンカの前にべらべらしゃべりたがるんだ? さっき俺にぶっかけようとした時からもう始まってんだ。さっさと来いやコラァ!」
ラインコワは、暴力はいけないとか、短気は損気とか、そういった人生訓を彼の口から聞いたことが一度もない。
基本的に大らかな人ではあるが、こと一方的かつ直接的な悪意を向けてくる相手に対しては、問答無用で殴り飛ばすのが常だ。
彼が売られたケンカを盛大に買うのは、わかりやすい理由がある。……と、聞いたことがある。
走者というのは、体を張って街や開拓地の安全を守る存在だ。レイ親父の周囲の平穏も、彼自身の手によって獲得したものと言える。
だから、苦労して完走して手に入れた平穏な一時を、何の考えもないアホどもに乱されるのが我慢ならないのだそうだ。
もちろん手加減はしてくれる。力のステータスは人間のほぼ上限。しなきゃ、相手が確実に死ぬ。もっとも、手加減したからと言って相手が無事で済むわけでもないが。
彼に手を出すということは、そういうことなのだ。ライオンにビンタをした後で楽しくトークできるはずがない。事前にそう悟れない愚か者が、すべての行いの責任を負うことになるのだ。
「変わってないですねえ、親父殿……」
いつだって、あの人は、ああだった。
強くて、優しくて、そのくせ、厳しくて、子供っぽい。
こうしてまたあの人のケンカが見られるなら、店の一軒くらいは許容範囲と割り切ろう。
迫真の響きを帯び始めた悲鳴と破壊音を聞きながら、ラインコワはひとつ嘆息し、値の張るいくつかの高級酒を棚から床下に隠した。
そこから一本だけしまうのをやめ、カウンターの客側に回って、座り心地の悪い椅子に腰かける。
グラスに酒を注ぎ、虚空と乾杯した。
さあ、今日はもう店じまいだ。今日から、の間違いかもしれないが。
こんな時のためにとっておいた極上の一本を開けて、昔の思い出に浸ろうじゃないか。
※
バナジン第三支社、AB格納庫にて。
特別寮に囲っているコルボ――レイ一門を前に、AB実戦部隊隊長イオギラ・ヘイルマンは十二時間後に迫った作戦について、自信たっぷりにブリーフィングを行っていた。
「まず先に言っておかなければならないことがある。シノノメの実戦部隊がAプラントを襲撃するという情報が入っているが、これは偽装、つまり陽動だ。ヤツらの本当の狙いはBプラントである」
シノノメはここ数年で急激に力をつけてきた企業だ。しかし、バナジン上層部はすでに内通者を押さえており、あちらの情報は筒抜けだった。
イオギラはバナジンの実戦部隊で三年間、隊長をやっているが、諜報戦にかけて自社が先んじられた場面を見たことがなかった。
どこの企業にも秘密の人脈を持ち、どんな些細な情報も見逃さない。聞いたことのない企業がぽっと出てきても、次の日には必要な戦略資料が集められているのだから、上層部はよほどの小心者か、狂っているのだろう。
諜報を司るセクションも徹底的な秘密主義で、その気密性は、同等の血生臭さを持つはずの実戦部隊よりはるかに高く、連絡は常に機械を通じてか、あるいは一定以上の立場ある人間を介してのみ行われる。
ある種の都市伝説めいた不気味さはあるものの、おかげで戦況は常に安定し連戦連勝。甘い汁がすすれているからもんくなどない。もっとも、いくら腹いっぱいに蜜を溜め込んでも、家に帰れば妻と娘に吐き出さなければならないことは変わらないが。
「よっておまえたちには、主戦場となるBプラントの防衛にあたってもらう。と言っても、無人機の群れに遠くから砲弾を撃ち込むだけの簡単な仕事だ。ヤツらの本命である〈ブラックドッグ〉は、こちらの実戦部隊で対応する」
「〈ブラックドッグ〉?」
隻眼赤髪の男が聞いてくる。イオギラは思い出す。確か、サグルマというまとめ役だったはずだ。
「シノノメ躍進のきっかけとなったコルボのチームだ。特に斬り込み隊長のギヒム、リーダーであるニックが操るABの戦闘力は高く、シノノメと同程度だった企業の実戦部隊を軒並み壊滅させている。晴れて、王者である我々に挑戦状を叩きつけてきたというわけだ」
一門が含みのある目線を向け合ったのが気になったが、まあ、“田舎”の住人である彼らに、未知の戦闘への不安があるのもわからなくはない。初めてこの開拓地に来た時、自分もそんな心境だった。
「心配はいらない。我々は必ず勝つ。ちなみに、無人機相手でも一番多く撃破した者にはボーナスが出る。励めよ」
ここ最近は小物相手の戦闘が多すぎた。再契約の時期までに名のあるコルボを撃墜して、上層部に有能さを再確認させておかなければ、新しい隊長にケツの置き場所を譲ることになる。〈ブラックドック〉はそのアピールにはうってつけの相手だ。
勝利に必要な情報はすべて揃っている。
作戦開始が待ち遠しかった。
今エピソードは前までとはちょっと違う作りになります。




