第416話・欠落
思い出せない。
それは確かに自分が知っていたはずの人で、誰よりも親しい関係を持っていたはずだ。
なのに、顔が全く思い出せなかった。
不安は巨大な恐怖となり、激しい動揺と困惑を生んだ。
「アリサ、あなたの強さの源は……目標へ向かう真っ直ぐな想い。灯台があるからこそ、今まで迷わず突き進めた」
「えっ、ぁっ」
呆然とするアリサに、ゆっくりと滲み寄る。
蛇のように、舌を舐めずった。
「だから今のあなたは、強さの土台を失った骨抜きの竜に過ぎない」
土が弾ける。
助走をたっぷりつけた飛び蹴りが、アリサのみぞおちへ直撃した。
「グハッ……!?」
なんとかその場で踏ん張ったが、口からは胃液混じりの唾液が溢れ落ちる。
変身した今の状態なら、通常の打撃すら殆ど受け付けない防御力を誇っているはずが、アリサの膝は地面につく。
「私が血界魔装について調べてないはず無いでしょ? その変身はね、血を原動力とし……“愛する人への想い”で無限に強化されるのよ」
アーシャの攻撃をなんとか避けようとするが、大切な人の記憶を失ったショックは、機敏な動きをこれでもかと邪魔する。
「くぅっ……!」
しかも、精神的動揺で魔力の波が非常に不安定となり、彼女の体は攻撃に対し殆ど無防備だった。
つまり、今のアリサは魔導士ではない通常の人間と大差ない防御力にまで落ちていた。
「がっ!!」
そんな状態で攻撃を受ければ、どうなるかなど言うまでも無い。
さっき自分がアーシャへしたのと同じように、空中へ蹴り上げられ、高速で森の上空へ飛ばされる。
雲の下では先回りしたアーシャが待ち伏せていた。
「はぁッ!!」
突っ込んで来たアリサの背中へ、思い切り肘打ちを落とす。
骨の軋む音と感触が伝わった瞬間、妹の体は地面に激突していた。
舞い上がった瓦礫が、ドサドサと無機質に落ちる。
「何を……、したっ。わたしから誰を奪った……ッ!」
ヒビの中心で、必死に身を起こしながら叫ぶアリサ。
今のダメージで、身体を守る魔力はさらに四散していた。
本来ならこんな現象あり得ない。
だが、目標であり唯一の想い人であったアルスの記憶を封印され、魔力の制御が全くままならなかった。
「フフッ」
地上に降りたアーシャは、ゾクゾクと興奮に身を振るわせる。
なぜ魔法の通じないアリサの記憶を操作できたか、答えは簡単だ。
「保険は大事ね、こういう時に役立つもの」
まだ幼少期だった彼女へ、将来自分より大切な人間が出来た時の対策として、記憶操作の種を植え付けていたからだ。
魔壊の力を満足に使えなかった当時のアリサでは、到底仕込まれたことに気づけなかった。
保険の十分な起動を確認して、勇者はさらに追い討ちを掛ける。
「奪ったんじゃない、元々そんな人いなかったのよ? アリサ」
妖艶に呟くアーシャ。
そんなはずは無いと否定するが、自分の中から明確に大切な誰かが欠落していた。
忘れちゃいけない。
忘れちゃダメな人。
この世で唯一自分が“嘘つきでも良い”と言ってくれた人。
「いなかった……? 私を認めてくれた人が、最初からいなかった……?」
今この瞬間も、アリサの中で輝いていたアルスとの思い出を次々に封印していく。
そこから発生する深刻な精神的ダメージにより、彼女を防護する魔力はもう殆ど作用していなかった。
半泣き状態の妹に近寄り、勇者はいよいよトドメを刺しにいく。
「当たり前じゃない、嘘つきのあなたを愛してくれるなんて……そんな都合の良いおとぎ話の王子様みたいなヤツ。現実にはいないわよ」
涙目で狼狽え続けるアリサへ、アーシャは手のひらを柔らかいお腹へスッと添えた。
そして––––たっぷり時間を掛けて込めた神力を、ゼロ距離から衝撃砲として撃ち放った。
「ガハッ……!!」
岩壁が大きく揺れた。
弾け飛んだ大量の瓦礫が、離れたアーシャの周囲まで飛んで来る。
「儚い物ね、私以外の人間と作った思い出なんて……こんな簡単に消えちゃうのに」
崩落寸前の岩山に現れたのは、歪なクレーター。
そこの中心へ、アリサは全身を硬い岩肌へめり込ませていた。
––––フッ––––……。
彼女の首が重力に引かれて下へ落ちると同時、眩く輝いていた髪が錆びた銀色へ戻る。
元々不安定だった血界魔装が、今の一撃で完全に解除されたのだ。
「さて、あなたの今の姿を写真に撮りたいところだけど……。神命は真っ当しなくちゃね」
アーシャが取り出したのは、石ころにも似た見た目の人工宝具。
名を『フェイカー』だった。
「これであなたは戦いの運命から逃れられる、もう竜王級なんかと戦わなくて良い。正真正銘わたしだけの……可愛くてか弱いアリサでいられるのよ」
フェイカーが、磔の状態のアリサへ向けられる。
人工宝具が禍々しく光り、無抵抗となったアリサから能力を奪う。
「なっ?」
筈だった。
アーシャの持っていたフェイカーは、突然豪雨を裂いて飛んできた光の矢によって砕かれたのだ。
彼女の目論見を崩壊させた者の声が、森に響き渡った。
「はいはいそこまで。困るんだよねぇ、ウチの大事な店員にそういうことされちゃ」
見上げた先に浮いていたのは、アーシャにとって信じ難く……言うならば畏怖を示す存在。
ウェーブ掛かったピンク色の髪を濡らし、背中からは上位存在の印である白色の翼が広がる。
何より、射抜く瞳が“金色”なのは疑いようもなかった。
「あっ、貴方様……は?」
「ピンポーン、アーシャさんだっけ、確かミニットマンのパシリでしょ? もっと早く言っとくべきだったよ……僕はね」
溢れ出る神力が、雨粒を跳ね除けて太陽のごとく輝いた。
「店の部下が危機に瀕したら、命懸けで守るのが義務なんだ。こう見えて店長だからね」
澄ました笑顔に狂気を宿したアリサの上司。
“大天使東風”は、純白の翼を翻した。




