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07 緊急事態

「は……いや、えっ……ま……あ、うわぁぁ」


 顔からは苛立ちが抜け落ち、訝しんだかと思えば驚きに変わり、喜色を浮かべた直後、真っ青になってスヴァインはひざから崩れ落ちた。黄昏の杖(スクムリング)へすがるようにうずくまり、なにやら呻いている。その声が不意に止み、黒い瞳が恐るおそるマリットを見上げてきた。


「……本当に、記憶が?」


 まるで叱られる前の犬のようだ。最終確認にマリットが頷こうとしたそのとき、なにも無いところから声が上がった。


≪こちら征伐完了しました。支援が必要ですか?≫


「いりません、すぐに終わります」


 先ほどまでのふるふる具合は夜陰がみせた幻だったのだろうか。即座に言い切ったスヴァインは通信の魔術を切り、スッと立ち上がった。一人でも毅然と任にあたる姿は昔から変わっていない、と眺めている間にマリットの手からは杖が抜きとられていた。気がついた時には魔術師のローブのなかに消えている。


「もう二度と、あなたが壊れるところは見たくない」

「補強くらいで壊れないわ。だいたいあれは冥鬼が、――っ、もう!」


 マリットの抗議など意にも介さずスヴァインは黄昏の杖(スクムリング)で転圧の術式を編み始めた。


 それならこちらにも考えがある。マリットは前世の自分を掴み、横から魔力を流し込んだ。見開かれた黒い目がマリットに向いたけれど、同僚に言い切った手前かスヴァインは集中を切らさない。


 長い杖のなかで矢継ぎ早に編まれていく術式をなでるように、マリットはうっすらと魔力を付与していく。混沌の森を覆う魔障壁を完全なものとするためにはきっと、瘴気と最悪の相性である聖樹の力が必要なのだ。


「ここ、始末がまだよ」

「っ」


 閉じられていない術式を魔力でなぞれば、眉根をよせ目元を赤くしたスヴァインに睨まれた。無理やり参加したから怒っているのだろう。でも、マリットだって怒っているのだ。育て方を間違えたのだと心配した日々を返してほしい。たったの三日間だけれど。


 ――あれは目くらましだったのね。


 せっかく訪れた心の平安に、影を落としたくなかったのだろう。だから国は魔障壁が不完全である事実を民に隠し、スヴァインは再生の魔術を研究していたのだ。マリットには前世の記憶があったため黄昏の杖(スクムリング)を蘇らせたいのだと考えたけれど、折れていることを知らなければ、英雄はただの変わり者にしか見えない。


 魔障壁が完全となった今、その演技(めくらまし)もこれで終わりだ。


「よく頑張ったわね、スヴァイン」


 前世ではできなかったこと。マリットがスヴァインの頭をなでたのと、魔術が完成したのは同時だった。


 転圧の魔術が発動し、魔障壁の天辺に三本の白光がはしった。暗い空にのぼった光は最上部から最下部へと噴水のように幕を張り、弾けた。夜に散らばった光はたくさんの流れ星のようで、今ならどんな願い事でも叶いそうな気がしてくる。


「いいお婿さんがみつかりますように。オルセン様も頑張りましょうね!」


 マリットが笑顔で振り返れば、そこには誰もいなかった。否、スヴァインはまた座り込んでいた。上がったり下がったりと忙しない。正座して黄昏の杖(スクムリング)を握り締め、ズサッという音が聞こえそうな勢いで頭が下がった。


「ごめんなさい!!」

「気にしないで。私もまさか、人間に転生するなんて考えもしなかったもの」

「ひどいことをした事実は変わりません」

「まあ、少し、痛かったわね」


 縄で縛られていたところを冗談めかしてさすってみれば、青かったスヴァインの顔から色が無くなった。マリットに手を伸ばそうとして止まり、引っ込み、また伸ばしたりと明らかにうろたえている。痛かったのは本当だけれど、少し意地悪だっただろうか。


「今はもう大丈夫よ」

「ごめん。世界中のなによりも、あなただけを大切に思っていたのに」


 演技にしては少し、依存度が高い気がする。それでも頭を垂らし、すっかりしょげ返った大の大人を前にしても可愛いとしか思えないのだから、黄昏の杖(スクムリング)の孫贔屓も大概だ。


 しかしそれは前世の話で、生まれ変わった今、二人ともその関係に縛られる必要はない。


「私の名前は、マリット・ミストルティンです。どうぞマリットとお呼びください」


 朝と同じように淑女の礼をしてみせれば、なにかを思い出したように黒い目は丸くなり、スヴァインの唇はあわあわと動き出した。


「マ、マリット、あれは違うんです……!」

「あれ?」

「妻にすることはないと」

「ああ、それは当然の主張です。オルセン様はこれまでずっと、混沌の森を見張ってこられたのだもの。王家の森までお願いしては過労で倒れてしまいます」

「そんなことはありません! あなたのためになら俺は――」


≪先ほどの光幕について訊きたいと、師団長から通信が入っています≫


「今はそれどころじゃない」


≪緊急事態ですか!? ただちに参ります!≫


 来なくていい、というスヴァインの言葉が通信相手に届くことはなかった。魔術師たちは即座に英雄の一大事に駆けつけ、それを聴いていた師団長までもが空間移動してきたため、テュール砦は一時騒然となった。そのままスヴァインは査察をおこなうことになり、マリットは居合わせただけと説明され自室へ戻るよう促された。


 ――どう考えても当事者なのだけれど。


 大丈夫なのかと思いつつ、魔術師ではない自分がいても邪魔になるだけなのだろうとその場を辞去した。

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