05 スベイ・オルセン
――それは、誰のですか。
なぜあんな言葉が出てきたのか。天覧席のソファに身を沈め、片肘をついたスヴァインは考えていた。
隣の席では新しい秘書であるミストルティン伯爵令嬢が、身を乗り出さんばかりに劇を凝視している。舞台上でなにか起こるたびに反応するのはどうかと思うが、ほかの観客からは離れているため邪魔にはならないだろう。それに、ここまで没入し楽しんでいる姿をみると、あのときの我慢が報われた気もする。
仮装の件について思うことは何もない。しかし、女性が無遠慮に黄昏の杖へ手をのばした時は、凍結の魔術を放つところだった。そんなことをすれば一帯が大騒ぎになる。
女性が触れるまえにローブを割り込ませ、黄昏の杖を抱え込むように持ち直したことで気がついたのだろう。模造品とはいえ、想い入れのある作品に断りもなく触ろうとして申し訳ないと詫びてきた。それからも女性は父親が劇場の支援者だとか、一人でここに来たのかなどと一方的に会話をすすめ、二枚のチケットを渡し去っていった。
英雄スベイ・オルセンの黄昏の杖への接しかたを見た者の反応は、大体二つに分かれた。
『師団長より予算案が届いています』
『枯れた枝なんかより、瑞々しいほうがよろしいでしょう』
腫れ物のように扱い己の仕事に専念する者と、杖より自分のほうが魅力的だと迫る者。
前者は高い給金を目当てにテュール砦まで来ているため、契約期間を満了して退職する。後者は女性が多く、英雄がなびかないと分かった途端に来なくなった。真面目に勤めてくれた女性もいたのだが、それは孫をもつような年配者ばかりだった。
だから新しい秘書は若い女性だと聞いたとき、スヴァインはすぐに辞めるだろうと思っていた。
『それは、寂しいことなのではありませんか?』
黄昏の杖を人格あるものとして扱った人間は、ミストルティン伯爵令嬢が初めてだった。
健康のために偏食はするな、徹夜は効率が悪いから寝ろなどと気遣うふりをして懐柔を狙っているのかと考えたが、それから先の行動におよぶ気配はない。仕事もそつなくこなし、術式の清書はこれまでの誰よりも早く仕上げていた。
珍しくも、ミストルティン伯爵令嬢は前者だったのかと考えを改めていたところに、今日の誘いである。
――狙いはなんだ?
婚活とは、おそらく伴侶をみつける活動のことだろう。そんな活動に護衛でもない異性を連れてどうする。だいたい貴族は見合いや社交場をつうじて結婚するものではないのか。やはりこれまでの行動はすべて計算で、対象外だなどと言って警戒を解かせたところで既成事実をつくり、英雄の妻という立場におさまるつもりなのか。
もしそうならば無駄な努力だ。
黄昏の杖以上に、愛情深いものはいない。
黄昏の杖以外に、思慕を抱くことはない。
人と杖は会話ができない。それでもスヴァインは、黄昏の杖に魂のような存在を感じていた。
魔力を流す量や速度を誘導し、術式のかけ違いや綻びを教えてくれる杖などほかに知らない。褒められたら一緒に喜んでくれて、悩んでいたら一緒に考えてくれた。
どこにいても厄介者あつかいされていた自分に、居場所をくれた大切な存在。
それは頼もしい教師であり、ともに遊ぶ友人であり、格好つけたくなる初恋相手だった。その座には、黄昏の杖しかおさまれない。すべて、黄昏の杖の関心を引きたいがためにやっていたのだ。スヴァインはほかの何にも、魔術にさえも興味がなかった。
しかし興味がないであしらうには、ミストルティン伯爵令嬢には気になる点が重なり過ぎている。
「かわいい……かわいぃ……はあ、かわいい」
その件の伯爵令嬢は開幕から、壊れた鳩時計になっていた。
舞台上では英雄役の少年と王女役の少女が、夜の庭園と思われる場所で楽しそうに語らっている。身分差のある二人は密かに親交を重ね、惹かれてゆき、宮廷の権力闘争と冥鬼によって引き裂かれる。少女は涙ながらに少年を送り出し、少年は少女のためにと満身創痍ながらも見事に冥鬼を封じ込め、英雄となる。凱旋した少年は褒美にと王女をのぞみ、晴れて恋人になるという筋書きだ。
「なんて健気なのかしら……ああ、キュンキュンする」
冥鬼侵攻当時のスヴァインは十五歳、王女は四歳だった。親交など一度も重ねていない。
この劇を作成するにあたって脚本家は、戦闘だけでは物語性に欠けるため恋愛を盛り込みたいと、王家とスヴァインに許可を求めてきた。王家は検閲と王女の名と年齢を変えることで承認し、スヴァインは干渉はしないが承認もしないと答えた。
恋愛はすべて架空だが、戦闘は国が公開した記録を基に構成されている。軍事情報は国防に関わるため意図的に秘された事柄も多く、その最たるものが――。
「……接合、接合、転圧っ、よく頑張ったわ、スヴァイン!」
その言葉が鼓膜をふるわせた瞬間、あの日、テュール砦の監視塔で後頭部に受けたのと同じ衝撃に襲われた。
舞台上では英雄となる少年が迫りくる冥鬼を業火で滅し、残りの魔力をふりしぼって魔障壁を完成させていた。手にはしっかりと、長い長い杖が握られている。
「あら、劇では折れない――っ!」
「目的は」
スヴァインは伯爵令嬢の肩を押さえ、あの日折れた長い長い杖を眼前に突きつけた。
意図的に秘された事柄の一つは、国宝である黄昏の杖の損壊。守護神である古代の聖樹を軸とした杖が折れたとあっては威信にかかわる。関係者にはかん口令が敷かれ、国宝は速やかに修復された。
だから戦場とは無縁の貴族令嬢が、〝黄昏の杖がその身を挺して国を護った〟という事実を知るはずがないのだ。しかし、古代の聖樹を守護するミストルティン伯爵家の嫡子ならば、伝え聴いている可能性はある、とスヴァインは黙していた。
だが、名前は違う。
スヴァインの名は、名付けた親と自身をのぞけば、黄昏の杖しか知らない。籍の管理などあってないような孤児であったため、国王すらも英雄の名はスベイ・オルセンだと思っている。
本当の名前は、自分と黄昏の杖だけの秘密であったはずなのに。
「なぜ、名を知っている」
大切に隠していた黄金の林檎まで砕かれた気がした。
スヴァインが本名を話したのは子供時分の一度きり、ミストルティン伯爵令嬢はまだ生まれていない。
ジェラートをだす店にしても、舟遊びのできるヴィーグラン湖にしても、スヴァインがまだ研究棟で寝起きしていたころに黄昏の杖と一緒に出かけた場所だ。研究している魔術のことだけでなく、私生活まで調べ上げているのは英雄の弱みを探るためだろうか。
――すべては油断させるための演技。
とんだ名役者だ。健康や効率がどうのと言ってきたのも、黄昏の杖を人格あるものとして扱ったのも、楽しそうに夏の予定を話していたのも、すべて嘘だったのだ。
「答えろ」
令嬢の名を騙る者の正体は他国の間者か、未知の冥鬼か。いずれにせよ事を構えるのに劇場は向いていない。場所を移そうと術式を編み始めたとき、緑色の目を見開くばかりだった何者かが観念したような声をもらした。
「保護者同伴なんて、ありえないじゃないですか」
意味不明な言葉を最後に、二人は王立劇場からテュール砦へ空間移動した。




