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10 七歳のマリット

 マリットの発言を聞いたとたん、黄昏の杖(スクムリング)を手に扉へ向かっていたスヴァインの歩みが止まった。まるで凍結の魔術をかけられたように足はピシリと固まっており、上半身だけがゆっくりとマリットの方に向いてくる。


 こちらを見たスヴァインは、この世の終わりを体現したような顔をしていた。先の発言を否定するように、黒い前髪はふるふると左右にゆれている。これは少々、可哀想なことをしてしまった。


「ごめんなさい。私が悪かったわ」


 あの言いかたしか思い浮かばなかったとはいえ、自分でも紛らわしい表現だったと思っていたマリットは、スヴァインがなにかを言うよりも先に謝っていた。


「ちゃんと説明するので、席に戻ってください」


 スヴァインの背中をマリットが押すと、凍りついていた足は簡単にとけた。よろよろとした足どりで椅子に座ったスヴァインは、まだ衝撃から立ち直れていないのだろう。


「た、たとえ、すでに他人のものだったとしても、あなたへの愛は変わりません」


 ――もしそうなったら、そこはあきらめてほしいのだけれど。


 杖であった前世から人となった今世をふくめても悲しいかな、マリットは独り身だ。スヴァインの覚悟はまったく必要ないものだが、混乱のさなかにでた言葉にしても、どうしてこんなに頑ななのか。マリットがまだ黄昏の杖(スクムリング)だった頃は、子供がお気に入りのぬいぐるみを離さない程度の執着だったのに。


 ――やっぱり、折れたのが原因なのかしら。


 そうなると王女の言っていたことがますます分からない。別人の話と混同しているのだろうか。


「ス、スクムリング……?」

「ああ、ごめんなさい。一人の身体じゃないって話だったわね」


 不安いっぱいに見上げてくるスヴァインの手から、マリットは黄昏の杖(スクムリング)を取りあげた。


「マリットの年齢が十九ってことは覚えてる?」

「指摘された術式の間違いから木目、節の数、つむじの位置に指紋のかたちまで、あなたのことはすべて記憶しています」

「そ、そう」


 そこまでいくと偏人ではなく変態では。英雄に対してそんな疑惑が生まれたけれど、話が進まなくなるためマリットは聞き流した。


「冥鬼侵攻があったのは十二年前。どうして訊かないの?」

「他国の間者でも未知の冥鬼でも、あなたは俺のスクムリングです」


 スヴァインが七年間の矛盾に気がつかないはずがない。そのうえで目をつむっていたようだ。


 黒い翼をもった冥鬼に砕かれたのは、このあたりだっただろうか。マリットは綺麗に修復された黄昏の杖(スクムリング)をなでたあと、自身の胸元に手をあてた。


「でも私は、マリットなのよ」


 ◇


 十二年前、黄昏の杖(スクムリング)は古代の聖樹に還るはずだった。


 実際、杖に留まれなくなった魂はテュール砦から王家の森へと流されていた。その道中に、七歳のマリット・ミストルティンと出会ったのだ。


 黄昏の杖(スクムリング)が折れた日、マリットは流行り病で死にかけていた。


 その十日前、不遜にも王家の森を狙った賊がいた。襲ってきた賊のなかに病にり患したものがいたらしく、警備にあたっていた兵士に伝染しそこから使用人、屋敷へと広がっていった。体力のある大人はほどなくして回復したが、マリットの症状は悪化する一方で呼吸困難に陥っていた。


 マリットは幼いながらもミストルティン家の責務を理解しており、死の淵にあっても周りのことばかりを心配していた。


『お母さま、お父さま、お家をつげなくて、ごめんなさい』

『聖樹さま、お守りできなくて、ごめんなさい』

侍医(せんせい)やみんなを、しからないで』


 出せない声で必死に話す幼い心が聞こえた瞬間、ダメだった。黄昏の杖(スクムリング)の魂は流れに逆らい、屋敷の上空から動けなくなってしまった。


 どうにも自分は子供に弱いらしい。どうにかしてこの子を助けられないだろうか。鼓動は力なく今にも止まってしまいそうだ。古代の聖樹に助けを求めてみようか。でも伝える間もなく吸収されたら、とためらっていると、まさに天の声が降ってきた。


『娘のなかに入ればよい』


 ずいぶんと昔に聴いた、懐かしい声だった。なにかと王家の森にやってくる未来の当主を、古代の聖樹も好ましく感じていたのだろう。病に苦しむマリットを心配していたのだ。


『我の子たる其方がとけ込めば、異物などすぐに消し飛ぶ』

『とけ込む? そんなことできるんですか?』

『我ぞ?』


 できないわけがないと言わんばかりのドヤ声だった。


『だが、望んだ通りになるとは限らぬぞ』

『大丈夫です!』

『あ、おい、ちょっと待――』


 古代の聖樹がなにかを言っていたが、黄昏の杖(スクムリング)の魂はもう屋根をつき抜けていた。


 ◇


「か、軽いですね」

「だって、一刻の猶予もなかったのよ。すぐに飛び込んだわ」

「そうなんですか」


 十二年間、再生の魔術を研究していたスヴァインの声は沈んでいた。黄昏の杖(スクムリング)も再生を望んでいると考えていたのに、そうではなかったと判明したのだ。また可哀想なことをしてしまったけれど、大切な部分であるため隠したくなかった。


「でもそれなら……病気が治ったあとどうしてすぐに、俺に会いに来てくれなかったんですか」


 沈んでいたスヴァインはそのまま机に頭をのせ、いじいじし始めた。


「城に来ることもあったんですよね。伝言とか手紙とか、くれてもいいのに」


 もうすっかり体は大きいのに、いじけたその姿は杖として一緒に過ごしていた時代に戻ったようだ。マリットはすねた子供をなだめるようにスヴァインの背をさすった。


「前世の記憶が戻ったのは、あなたの魔術に触れてからなの」

「俺の?」

「詳しくは分からないけれど、聖樹様は七歳の小さな身体に、八十七年分の記憶は負担が大きいと考えたんじゃないかしら」


 もしかしたら古代の聖樹はそのことを伝えようとしたのかもしれない。


 主体はあくまでもマリットで、黄昏の杖(スクムリング)の魂は生命維持装置にすぎないのだ。七歳のときに融合したのだから前世という表現はずれている気もするが、どちらの記憶も一貫して持っているため差支えはないだろう。


 マリットの仮説を聞き、机につっぷしていたスヴァインの体がそろりと起き上がった。


「では、俺の魔術に触れる機会がなかったら……」

「思い出さなかったんじゃないかしら」


 けろりと言ってのけたマリットに対して、黒い瞳は信じられないものを見たとばかりに揺れ動いた。


「俺はあなたに会いたくて、ずっと、だから……スクムリングは、スクムリングはそれで構わなかったんですか!?」

「聖樹様に還れば、どのみち消滅してたでしょうし。でも――」


 マリットは持っていた黄昏の杖(スクムリング)をスヴァインへと差し出した。


「再生の魔術を研究しつづけたから、私は英雄の秘書という職をみつけたの。スクムリングを呼び覚さましたのは間違いなくあなたよ、スヴァイン」

「っ、スクムリン――ぐ?」


 感極まったように両目を潤ませたスヴァインは黄昏の杖(スクムリング)ごとマリットを抱きしめようと、両腕をひろげて身を乗りだしてきた。そこへマリットはすかさず手をかざし、ぺちん、とスヴァインの額をたたく。


「で・す・が、私はマリットです。スクムリングしか好きじゃないかたの恋人にはなれません」

「あれは、だって……」


 黒い瞳をおおっていた水分が別の理由で増えた。当初の不愛想などみる影もなく、表情をころころと変えるスヴァインは見ていてちょっと面白い。

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