72話 これは、雨なのだと
リズリーの体調を考慮してか、ルカは彼女を乗せた馬を皆よりも少しゆっくり走らせている。
時折休憩を挟みつつ、アウグスト公爵邸まであともう少しというところまで来ると、黒い曇天からポツポツと雨が振り始めた。
「ルカ様、雨が……」
「ああ、分かってる。この感じだと暫くしたら雨脚が強くなりそうだな。その前にさっさと屋敷に戻ろう」
「はい」
空を観察して方針を決めるルカに頷くと、彼は馬を器用に片手で操りながら上着を脱いだ。
そして、自分の前に座るリズリーの頭にそれをかけた。
「着てろ。これで少しくらい雨除けになるはずだ」
「いけません! これではルカ様が濡れてしまいます……!」
「俺は鍛えているから平気だ。リズリーはこの前体調を崩したばかりだろ。大人しく羽織っておけ」
無愛想な言葉とは裏腹に、声色も表情も優しい。
以前、体調を崩した際にルカに迷惑をかけてしまったこともあって、リズリーはコクリと頷くほかなかった。
「ありがとうございます、ルカ様」
「これくらい何ともない」
「いえ、羽織のことだけではなく、助けに来てくださったことや、ネックレスの件、それに解呪のこと……ユランがこれ以上罪を犯さないよう説得してくださったことも、全てです」
「…………」
ルカの説得がなければ、今頃どうなっていただろう。
もしかしたら、ユランはどんな手を使ってでもルカを殺そうとしていたかもしれないし、リズリーを本気で道連れにしようとしていたかもしれない。
少なくとも、彼の謝罪の言葉を聞くことはなかっただろう。
(ユラン……)
呪いから解放されたことは、心の底から嬉しい。
ルカや第二魔術師団の人たちに、これ以上迷惑をかけなくて済むし解呪ができたとなれば、クリスティアの罪悪感も多少は薄まるだろう。愛する姉と、二人で旅行なんていうのもいいのかもしれない。
家族や職場の人たち、友人たちとも昔みたいに仲良くできるだろう。
家に戻れば家族は笑顔で迎えてくれるだろうし、職場に行けばやり甲斐のある仕事が待っているだろう。友人たちとお茶に行くのも、良いかもしれない。
──もう、理不尽に嫌われることも、恨まれることもないのだ。
それに、ユランの口から呪った理由も、謝罪の言葉も聞けた。
もう、あんな辛かった日々とはおさらばだ。
安堵で、幸せで、明るい未来に笑顔があふれるはずだというのに──……。
「っ、うっ……」
雨脚が強くなり、ルカの羽織にも雨が滲む。羽織から伝った雨がリズリーの頬に、ポタポタと溢れた。
雨に打たれて、手が冷たい。服がぐしょぐしょで、少し気持ちが悪い。
「ユ、ラン……」
肩を小さく震わせ、頬に張り付いた濡れた髪を直さないリズリーへと、ルカはそっと手を伸ばす。
リズリーの髪の毛を優しく直し、そして、少しばかり羽織りをずらした。自分の位置からリズリーの顔が見えないようにすれば、ルカは再度前を向いた。
「リズリー、今日は全て雨が隠してくれる」
「……っ」
「大丈夫……大丈夫だから」
「うっ……っ……」
頭上から聞こえる、子をあやすような優しい優しいルカの声。
リズリーは縋るようにしてルカに抱き着きながら、嗚咽を漏らす。
(ユラン……っ、ユラン……!)
頬から伝い、唇に落ちる雫がしょっぱい。
……そう、これは全て雨だ。
雨の、せいだ。
◇◇◇
雨粒とともに自分の中のどうしようもない悲しみも少しは流れていったのか、アウグスト公爵邸に着く頃には気持ちが軽くなっていた。
「リズリー!」
「クリスティアお姉様……!」
ルカに馬から下ろしてもらい、屋敷の入り口で待機していたクリスティアにリズリーは勢いよく駆け寄った。
雨に濡れてしまっているため少し躊躇するリズリーに構わず、クリスティアは彼女を抱き寄せた。
「良かった……! 良かったわね、リズリー」
先に到着していたジグルドたちが一連の説明はしておいてくれたのだろう。
クリスティアは涙を流しながら、解呪を喜んでくれた。
「ありがとう、お姉様」
「もうこれで、リズリーが傷付くことはないのね。本当に、良かった……!」
「……うん。それでね、お姉様に少し話があるの」
「話?」
クリスティアはリズリーの背中に回していた腕を解き、きょとんとした表情を見せた。
「ユランから、お姉様に伝言があって……」
「……!」
「ごめんって、言ってた」
「…………」
クリスティアは、何と答えたらいいのか分からないと言いたげな迷った顔をしていた。
怒り、憎しみ、悲しみ、動揺。色んな感情で、頭がめちゃくちゃになっているのだろう。
「正直、そんな謝罪の一つじゃ許せないよね。現に、私だって完全に許せたわけじゃないもの」
「リズリー……」
「……でもね、あのユランの言葉に嘘はないと思う。だから私は、今すぐには許せなくても、憎しみに囚われずに前を向くつもり」
「……強いわね、リズリーは。……でも、そうね」
懐かしむようにして、クリスティアは小さく微笑んだ。
もしかしたら、幼い頃、まだ純粋に仲が良かった頃のユランの姿を思い出しているのかもしれない。
「少し時間はかかるかもしれないけれど、ユランへの憎しみばかりに囚われていないで、私も前を向くわ」
「お姉様……」
その時クリスティアが見せてくれたのは、これまで幾度となく見た晴やかな笑顔だった。
リズリーもつられるように微笑めば、クリスティアはリズリーの頬を優しく撫で、そしてさあっと顔を青ざめさせた。
「……って、貴女とっても冷えてるじゃない! 早く着替えないと……!」
「あっ、そういえばそうね」
あはは、リズリーが笑う。
すると、シルビアがタオルを持って勢いよく駆け寄ってきた。
「リズリー様! 笑っている場合ではこざいません! 早く湯浴みをなさって体を温めないと!」
「わ、分かったわ……!」
「ああ、でも、これだけ言わせてください! 呪いが解けたこと、おめでとうございます! それと、無事このお屋敷に戻ってきてくださったことも、嬉しいです!」
「シルビア……」
シルビアのその言葉をかわきりに、リズリーとクリスティアを見守っていたバートンや使用人たち、先に屋敷についていた第二魔術師団の皆が集まってくる。
皆が一様に我が事のように喜んでくれる姿に、リズリーはまた涙ぐみそうになりながらも、精一杯微笑んだ。
「シルビアも、皆さんも……本当に、ありがとうございます!」
それから少しして、クリスティアの「ほら、早く温まってきなさい」という声がけによって、皆は自分の部屋や持ち場へと戻っていった。
「それではリズリー様、さっそくお部屋へ──」
「ごめんね、シルビア! 少しだけ待ってほしいの」
その場に残ったシルビアにリズリーは待ったをかけると、屋敷に戻ってからずっと少し離れたところから見守ってくれていたルカのもとに走った。
疑問からか、目をパチパチと瞬かせているルカの姿を見るのは、かなりレアだ。
「どうかしたのか? 風邪を引く前に早く温まってこい」
「は、はい! けれど、その前に一つお伝えしたいことがあって」
「? 礼ならもう何度も言われたから必要ないが?」
「そうではなく……! いえ、その、お礼も確かにそうなんですが……実は、呪いが解けたら、ルカ様にどうしても伝えたいと思っていたことがあるんです」
まだ気持ちを伝えてはいないのに、もう胸がドキドキする。
必死に告げるリズリーに、ルカは少し考える素振りを見せたあと、彼女に一歩近付いた。
「分かった。俺もリズリーの呪いが解けたら伝えたいことがあるから、話をしよう」
「えっ」
「だが、その前にまずは湯浴みをしてこい。俺もそうするから。頃合いを見てリズリーの部屋に行くから、話はその時で良いか?」
「は、はいっ、それはもちろんなのですが……」
「じゃあ、また後でな」
リズリーの頭をするりと撫で、軽く微笑んだあと、ルカは自室へと歩いていく。
(ルカ様の伝えたいことって……?)
早く温まらなければと頭では分かっているのに、リズリーはルカの伝えたいことが気になって、少しの間その場から動けなかった。




