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第四話 名前を呼んで

「はあ~っ」


 久し振りの風呂に浸かって一息吐く。

 かなり大きい風呂に一人だけとあって思う存分のびのびと(くつろ)ぐことが出来る。魔道具でこのお湯を作り出しているのだろうが、見た目は完全に温泉そのものだな。岩風呂にしているなんて造った奴は分かってるじゃないか。

 今日はさほど大した事はしていないのに風呂に浸かった途端にどっと疲れが押し寄せてくる。おそらく最近はゆっくりしている時間が少なかったからだと思うが、まあそれでもさっきの出来事が大きく関わっているのは間違いないだろう。まさか俺の勘が見事に外れてしまうとは思いもしなかったぞ。

 それに──。


「よりにもよって王女様とは」


 そう、そこだ。二つに一つの選択肢で不運にも女湯に入ってしまったのはこの際どうでもいい。いや全然どうでもよくないんだが、その時に鉢合わせたのが王女様って……流石に冗談だとしても笑えないぞ。しかもちょうど風呂上がりで服を着ている最中だったなんて尚更だ。

 もしこの事を誰かに言い触らされたら絶対に王様の耳にも届くだろうし……あれっ、これって俺もしかしたら死ぬんじゃね? ……その時は土下座をして許しを()おう。


「これが夢だったら良かったのにな……」


 思わず叶いもしない願望がほぼ無意識の内に口から溢れる。これが俺の記憶にしか残らない唯の夢だったならどれだけ気持ちが楽になるだろうか。もし夢ならば少しは罪悪感も薄れるだろうし、この後どういう展開が待ち受けているのかといった事を頭を抱えずに考えることもなく済むだろうに。──と、ありもしない事を色々と考えてしまう。

 しかしそれと同時に先程の光景をふと思い出してしまい、俺の脳内にフラッシュバックされる。


「……っ!」


 何を考えてるんだ俺はっ、本当に最低な男だ!

 バシャンとお湯の中に自身の顔を勢い良く突っ込み、暫くその状態のままでいる。十秒ほど経った後で湯から顔を出し、無心を心掛けて変哲(へんてつ)の無い風呂場を眺めるが、やはりそう簡単には忘れ去ることなど出来る筈もない。

 全く……。このままだとまた思い出してしまいそうだし、残念ではあるがもう上がるか。


 少し物足りないのを我慢して風呂から上がり、てきぱきとあらかじめ用意されていた服に着替えて足早に風呂場から立ち去る。因みに着ていた服は亜空間の中に入れてある。

 何も考えることなくぼーっとしながら来た道をそのまま引き返していくと、あっという間に自室の前まで来てしまった。ドアの前で立ち止まるが、直ぐにドアノブに手を掛けて部屋の中へと足を踏み入れる。

 しかし、俺はまたしても一歩だけ足を踏み出しただけで動きを止めてしまった。

 何故なのか、それは──。


「さっきぶり、ですね。オルフェウスさん」


──風呂場で偶然にも遭遇してしまった王女様がそこに居たからだ。


 可愛らしく微笑んでくる王女様に何時もの俺ならばドキッとしていた所だが、今の俺にとってそれは恐怖にしか感じられない。一瞬の内に全身に緊張が走り、風呂上がりというのにも拘わらず冷や汗をかき始める。

 なあ、どうして此処に王女様が居るんだよ。いやまあ大体の理由は察しがつくんだけどさっ、俺が着替えを覗いてしまったからなんだろうけどさっ!

 俺はこの現状を打破するために脳をフル回転させた。そしてものの数秒で突破口を見いだすことに成功し、それを迷わず実行に移した。


「……すみません部屋まちが」

「間違えてませんよ? 此処がオルフェウスさんの部屋です。入らないんですか?」

「…………」


 言いながらドアをゆっくりと閉めようと試みたのだが、言い終わる前に王女様に先を越されてしまい俺は笑顔のまま固まってしまった。そして向こうも良い笑顔だ。

 ぐっ……。これはなかなか良い手だと思ったのだが、予想以上に王女様の対応が速すぎた事が要因で失敗に終わってしまった。思ったよりも手強いな……。

 こうなったら──と、俺は諦め……覚悟を決めなるべく平常を装って部屋の中へと踏み入る。そしてしっかりとドアも閉め、数歩だけ前進して王女様との距離を詰める。その間もソファーにきちんと座っている王女様はニコニコと笑顔を絶やさない。

 そして俺は──土下座をした。


「本当に申し訳ありませんでした!!」


 もう俺に取れる手段はこれしか残されていない。こうなったらいっその事とことん引かれるくらいに土下座して許してもらうしか考えが思い付かない。他に何か方法があるというのならば是非とも教えて頂きたいですマジで。

 すると前方から何やら王女様がソファーから立ち上がるような音が聞こえた。そしてゆっくりとだが確かに此方の方へと近付いてくる足音も聞こえてくる。俺は現在進行形で地面と至近距離で見詰め合っている状態なので音と気配で様子を探る程度しか出来ないが、相当怒っているのは間違いないだろう。

 遂に俺の目の前までやって来た所で漸く立ち止まり、しゃがみ込んできた。


「ちゃんと反省しているようなので、許してあげます」

「えっ、本当ですか!? ……っ!」


 王女様が口にした〝許してあげます〟という言葉の意味を理解するに至った瞬間、驚きと喜びのあまり思わず頭を上に上げてしまう。すると必然的にしゃがんでいた王女様の顔がとても近くにきてしまい、それに今度は驚きと羞恥(しゅうち)で弾かれたように後ろへ倒れ込んでしまった。至近距離で目が合ってしまった事に心臓が高鳴り、鼓動が早くなっていく。

 俺は慌てて何かを言おうと口を動かすが自分の予想よりも落ち着いていない所為か、上手く言葉に出来ていない声しか出せない。

 そんな俺を可笑しく思ったのか、王女様はくすりと笑った。


「でも、その代わりに一つお願いがあります」


 先程までのからかっているようないたずらめいた笑みは薄れ、反対に少し恥ずかしそうにフイとそっぽを向くもチラチラと此方の様子を窺いながらそんな事を言ってきた。

 ずっと動揺しっぱなしの俺の心はそんな仕草の一つ一つにすらいとも簡単にぐらっと音を立てて揺らいでしまう。そしてそれが堪らなく恥ずかしいと自分でもよく分からないがそう思ってしまう。

 しかしお願いとは一体どういったものなのだろうか。


「お願いって……?」


 訊くと、更に王女様の頬が朱に染まる。

 それを隠すように立ち上がるとくるっと此方に背を向けて数歩だけ距離をとり、やがて立ち止まる。王女様が俺から離れた事で僅かに落ち着きを取り戻すことができた俺は、その僅かに生まれた余裕で事の行く末を静かに見守る。


「……と、呼んでください」

「え?」


 此方に背を向けている所為か、それとも単純に声が小さかったからか言葉を上手く聞き取ることが出来ず、ついつい聞き返してしまう。〝呼んでください〟という所は何とか聞き取れたのだが、肝心の何を何と呼べば良いのかという所を聞き取ることが出来なかった。

 するとくるっと再び此方に振り返った王女様は、顔を俯かせた状態で目を合わせようとはせずにもじもじとしながら言った。


「私の事は、……フィリア……と、呼んでください」


 〝フィリア〟という部分だけとても小さな声だったが、今回は何とか聞き取ることが出来た。

 ……って、え、は、えっ? 何これ、えっ本当に何これ、俺って今どういう状況なんだ!? えっえっ、もしかして風呂場での事件を許してもらうためには、その……王女様の事をちゃんとした名前で呼ばなくちゃいけないって事……なのか……?

 そういう事で良いんだよな? 俺はもっとこう、無茶な要求をしてくると思ったのだが、意外と大したこと無い普通のお願いだった事に面食らってしまう。


「そんな事で、良いんですか?」

「そんな事って、何ですか」

「なっ、何でもないです……。分かりました。今度からそう呼びます!」


 何故か怒ったようにムッとした表情になった王女様を見て慌てて言葉を繕う。

 すると今度は満足そうに頷き……。


「じゃ、じゃあ、試しに一度呼んでみてください」


 ……と、そんな事を言ってきた。


「は?」


 いや何で呼んでみないといけないんだよ。

 だが、聞き返した途端に王女様が不機嫌そうに此方を睨んでくる。


「あー、……と、フィリア様……で良いのか?」


 まあこの程度で許してくれると言っているのだからそれに甘えない手はないのだが、今それをお試しとしてやる意味はあるのだろうか。


「……っ! ま、まあ、今はそれで勘弁してあげます」


 すると王女様は一瞬だけ頬を赤らめ、直ぐ様すましたようにそう言った。

 名前を呼んだだけだというのに少し王女様の反応が不自然ではあったが、まあ墓穴は掘りたくないので黙っていることにする。


「では私はもう戻ります」


 何処か満足そうに言う王女様に、俺は慌てながら立ち上がり道を開ける。


「では、お休みなさい」


 そして、王女様は俺の部屋から出ていった。

 一人残された俺はというと、暫くの間ぼーっとそのドアを眺めていた。

 結局、何だったのだろうが……?

今年の内にあと一回は更新するつもりです。

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