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第十四話 明晰夢

 ふと気付いた時には、何もない暗闇に包まれた空間にひとり、俺は立っていた。


「此処は」


 いや、立っているのとはまた少し違う感覚だ。まるで水の中に漂っているような、そんな浮遊感すら覚える。

 けれど、水中とは違って体に水が纏わり付くような感覚は覚えない。手足を軽く動かしてみても動作が重たいと感じることはない。暗闇の中だというのに、見下ろせば自分の体をはっきりと捉えることが出来る。

 足を踏み出せば自由に歩くことも出来て、もちろん息も出来る。


「どうしたんだっけ、俺」


 呟きつつ、一向に纏まらない思考を引き摺りながら、暗闇の先へと足を踏み出した。

 移動しながら現状の把握をしたいところだったのだが、残念ながら、歩けど歩けど目に映る光景はどうしようもないほどつまらないもので、僅かたりとも変わることはなかった。

 それにこの空間に前や後、右や左が存在しているかどうかも判らない。進んでいるのか戻っているのか分からない。


 兎にも角にも、不思議な場所だった。

 現状を理解しようとしても何も判らないということだけが分かって、どうしたものかと途方に暮れていた──そんな時。


「────やっと、逢えたか」


 不意に聞こえてきたその声に、挙動も思考も、悉く凍り付いた。

 思わず飲み込んだ息を吐き出す余裕もなく、その場に立ち尽くしてしまう。


 有り得ない。


 まともに機能しない脳が、暫くの思考の下たった五文字の短い結論を導き出した。

 現状は理解できない。けれど、これだけは理解できる。


 ──その声がいま、絶対に聞こえる筈の無いものだと。


 けれど導き出した結論を自ら裏切って、続いて、いまの声が聞き間違いではないと新たな結論が出される。その解を否定など出来る筈もなく、理解できてしまった。

 何も聞こえないこの場所で唯一届いたその声を、どうして誤ることがあるだろう。


 ──有り得ない。


 再度、そうであってほしいという願望を込めて思いつつ、俺は口許を引き締めた。

 乱れた呼吸を整えて、僅かに震える己に鞭打ってゆっくりと背後へ、声が聞こえた方へと体を向ける。

 そうして振り向いた先の光景を瞳が捉えて、終に認めざるを得なかった。




 そこに居たのは紛れもなく、俺自身だった。




 何者かに魔法で幻影を見せられているのかとも思ったが、周囲に人の気配は感じられない。

 それどころか、目の前にいるその者からも、人の気配は感じられなかった。

 例えるならばただそこに存在するだけの置物。

 けれどそれなら言葉を介することなど有り得ないことだ。それ以前に、この距離で俺が存在に気付けなかったことにも驚きだ。


「まさか、逢える日が来るとは思ってもみなかった。どうやら、相当厄介なモノに捕まったらしいな」


 尚も言葉を続ける存在は、見透かしたように此方を見てくる。

 厄介なモノに捕まった? こいつはいったい何を言っているんだ?

 ⋯⋯いや、そう言えば、何やら変な十字架に張り付けにされたんだったか⋯⋯?

 あの後、直ぐに意識を手放してしまったため事の顛末は分からないが、ペルセウスは無事だろうか。俺の身勝手な行動に巻き込んでしまったのだから、俺が言うのもあれだが、心配だ。それと出来れば大規模転移の魔道具も無事であってほしい。

 ペルセウスは世界にふたりしかいないSSランク冒険者だ。騎士達の反応から相当高い地位を持っているようだし、きっと悪いようにはされないだろう。万が一危険が及ぶことがあっても、彼の実力ならば心配は要らないか。


 だから今は、目の前の事態に向き合うことが先だろう。

 此方の出方を待っているのか静かに佇んでいる。

 取り敢えず何か言葉を返そうと口を開く。


「お前は誰だ?」

「見て分かる通り、と言っても、伝わらないだろうな」


 当然だ。

 これで「俺はお前だ」等と言われても到底納得できる訳がない。

 この空間事態も訳の分からない代物だし、本当に何なんだこれは? いっそ夢であればどれ程よかったことだろうか。


「簡潔に言えば、お前の時間と記憶を喰らって生まれた精霊といったところか」

「精霊?」

「お前の記憶を受けて魔力が自我を手に入れたのだから、そう呼ぶのが妥当だろう」


 精霊は想いから生まれる、よく聞く話だ。故に俺の記憶にある想いを元に生まれたのだとしたら、確かにそれは精霊と呼べるのかもしれない。

 だが、理解はできない。そもそもこいつの言っていることが全て本当のことなのだとしたら、根底から間違っている。


「俺は記憶喪失になったことはないぞ?」


 記憶を喰らってということは、その部分の記憶が俺から失われているということ。

 だが生憎、記憶がなくなるという経験はしたことがない。

 それに人ひとりの想い程度で精霊が生まれるとも思えない。そうだったなら人類と同じだけの精霊が世界に存在することになってしまう。人類以外の知性ある存在からも生まれるのだとしたら、それこそその限りではなくなってしまう。

 故に俺は目の前の存在を精霊だとは思えない。


「20年」

「は?」

「俺を創っているのは、20年分のお前の記憶と時間だ」


 ⋯⋯こいつは一体、何を言っているのだろう。

 もしも本当に20年分の記憶なのだとすれば、確かに精霊が生まれても可笑しくないのかもしれない。

 しかし、しかしだ。それだけの時間と記憶を喰らったと言うならば、それは俺の送ってきた人生の半分以上ということになる。それだけの記憶が無くなっているとなれば、流石に気付かない方が可笑しい。

 そんな俺の考えを察してか、そいつは補足するように言葉を紡いだ。


「当然、一度にという訳ではない。半年ほど前までは、12年前から毎日少しずつ貰っていた。お前の【魔界】にいた時の記憶と時間を」

「っ!?」


 そいつの言葉に、驚愕を隠せなかった。

 20年という無駄にキリの良い単語に、どこか嫌な予感はしていたが、本当にこいつの口から魔界という言葉が出てくるとは。

 未だに信じることは出来ないが、それでも全てがでっち上げられた作り話だと処理することは出来なくなった。

 けれどまだ、俺が何も忘れていないという矛盾が残っている。


「⋯⋯俺は、魔界での20年を覚えている」


 俺は何一つとして魔界での生活を忘れていない。

 だからこそ、こいつの言っていることはやはり信用に値しない。


「確かにそうだ。奇しくもお前の捕らえられたモノのお陰でそちらの記憶に干渉できたからな、確認している」

「だったら──」


 此方に掌を向けてきて、思わず言葉を止めてしまう。

 まるで俺の考えていることなどお見通しとでも言うかのように、見透かしたような目を此方に向けている。


「けれどそれが、書き換えられたものだとしたら、どうだ?」


 またしてもこいつは、有り得ないようなことを言い出した。

 俺の持つ魔界での記憶が全て、書き換えられた記憶とでも言うつもりか⋯⋯?


「もう気付いているだろう。不可能とも思えるそれを可能とする存在が、お前のすぐ近くに居たのだから」

「────っ」


 その通りだった。


 記憶だけでなく事象すら書き換えてしまうほどの存在に、ひとり、心当たりがあった。

 そしていつも不思議に⋯⋯いや、不自然に思っていたことにも、説明が付いてしまった。

 目を覚ませば、彼女はいつも俺の隣で寝ていた。その理由を夜這いなどといつも適当にはぐらかしていたけれど、寝ている内に俺の記憶を弄るためだったのだとするならば──。


 ⋯⋯だけど判らない。

 どうして彼女がそんなことをする必要がある?

 彼女が得意とするのは何もかもを書き換えるだけ。それで全て事足りてしまう。

 態々大掛かりな記憶の封印まで行って、それで書き換えた記憶を上書きするなどという全くもって意味の無いことを行う理由とは、何なのだろうか。

 そしてまた、目の前の存在から理解の及ばない内容を聞かされた。


「存在を維持するために、その悪魔からお前の記憶と時間を貰っていた。いつかお前に記憶を返すためにな」

「矛盾してないか、それ」


 記憶を書き換えた上で、封印したそれを返還する必要がはたしてあるのか。

 いずれ元に戻すつもりだったのならば、そもそも記憶を書き換える必要が無いように思える。


「いつかは受け入れなければならない事だからだ。お前は12年前、それに耐えられなかった」

「⋯⋯⋯⋯それはつまり、俺のためということか?」


 その時、耳をつんざく硝子が砕けるような音とともに、空間に幾つもの亀裂が走った。


 あまりにも突然のことで反射的に周囲へ視線を這わせると、亀裂は徐々に広がっていって、ぼろぼろと光の粒子となって崩れていく。


「⋯⋯思ったよりも分解されるのが早かったな」


 もしかして、俺が捕まった『アドラクロス』という封印魔道具の効果だろうか。

 ここまでくれば俺でもその魔道具がどのようなものか、理解できる。


 ──理解できてしまった。


「それじゃあ、何もかもが無くなる前に、記憶だけでも返すとしよう」

「ま、待て──」


 この魔道具の真髄は、魔力の分解。

 それはきっと構築された魔法も例外ではない。そして魔力から生まれた精霊も当然、それに該当する。

 つまり目の前の存在は間違いなく助からない。それを知っていて、そいつは俺に笑顔を向けている。その笑顔には一体どんな感情が籠められているのだろうか。⋯⋯いや、俺のみで生まれた存在ならば、俺の感情から生まれたならば、それは俺自身と言っても間違いではないのではないだろうか。


 逆の立場で、俺があいつなら、いまこの瞬間につくる笑顔に何を籠めるだろう。

 俺はあいつの知ってるものを知らない。けれどきっと俺なら────。

 その先は考えたくなかった。



 突然目の前に現れて、突然、目の前から去ろうとしている存在に──過去の俺自身に、俺は精一杯手を伸ばして。






 次の瞬間、世界は儚く終わりを迎えた。

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