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千鳥は一歩、後ずさった。
男の言葉が、まだ耳の奥で反響している。
――規定外だ。
意味は分からない。
けれど、良い言葉じゃないことだけは分かった。
「……ごめんなさい」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
男は眉ひとつ動かさない。
「謝罪は不要です。事実を伝えただけなので」
淡々とした口調。
そこに感情はなかった。
千鳥の胸が、ぎゅっと縮む。
ここにいたらだめだ。
理由は分からないけれど、ここに立ち続けたら、戻れなくなる。
「……失礼します」
そう言って、千鳥は踵を返した。
歩き出す。
早歩き。
それから、小走り。
背後から追ってくる気配はない。
呼び止める声もない。
それなのに、
背中に視線だけが刺さっている気がした。
駅前の喧騒に紛れ込むと、
胸いっぱいに息を吸った。
(夢じゃない……)
手が震える。
指先が冷たい。
家までの道を、ほとんど覚えていなかった。
鍵を開け、靴を脱ぎ、玄関に座り込む。
静かだ。
いつもの部屋。
いつもの天井。
それなのに――
世界が、少しだけ遠い。
千鳥は布団に倒れ込んだ。
目を閉じても、
あの黒い瞳が浮かぶ。
――どの世界線でも、私は君を見つける。
心臓が、また早く打ち始める。
「……知らないよ、そんなの」
誰もいない部屋で、呟いた。
けれどその夜、
千鳥はひとつだけ確信していた。
もう、
何もなかった昨日には戻れない。




