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千鳥はゆっくり周囲を見回した。景色は同じ。けれど――空気の層が薄く違っている。
胸の奥で脈打つ鼓動が、まだ落ち着かない。
「……なんなのよ……」
動揺しながら歩き出すと、視界の端に違和感が映った。
角のカフェ。人々がくつろぎ、笑い声が漏れるその窓辺――そこに、ひとりの男がいた。
黒髪。淡いグレーのスーツ。コーヒーを口に運びながら、視線だけが千鳥に向いている。
ただ見ているだけ。でもそのまなざしは、千鳥の全情報を読み取っているような鋭さだった。
千鳥は反射的に目をそらす。だが、歩き出しても、その視線だけは刺さるように背中に残った。
(いや、気のせい……)
そう思いたかった。
だが次の瞬間、耳元で低い声がささやかれた。
「海野千鳥、世界線移動を確認。」
千鳥は息を呑んだ。
振り返った――はずなのに、そこには誰もいない。
近くの人々は普通に歩き、喋り、千鳥のパニックに気づきもしない。
(幻聴じゃない……)
背中を冷たい汗が伝う。
そのとき。
斜め前――カフェの男が立ち上がり、こちらへ歩いて来ていた。
コートの裾が揺れ、歩幅は無駄なく均一。
千鳥は本能的に後ずさる。
男は足を止めず、ただ静かに近づいてくる。
逃げよう。
そう思った瞬間――
「逃げても同じだ。どの世界線でも、私は君を見つける。」
その声は、耳ではなく頭の奥に直接響いた。
ゾクリ、と寒気がした。
男は数歩先で止まり、わずかに微笑む。
「初めまして――いや、こちらの世界ではそう言うべきかな。」
千鳥は絞り出すように声を返した。
「あなた……誰……?」
男の瞳は、深い墨を落としたような黒。
「並行世界管理局・監査官。君のような存在を――**“分岐者《デバイダ―》”**と呼ぶ。」
千鳥は息を呑んだ。
男はさらに続ける。
「そして海野千鳥。君の移動は――規定外だ。」




