15. 駒形 前川
良い店の条件とは、なんだろうか。
勝手に言うなら、それは金を払ったとき、『惜しくなかった、また来よう』と思わせる店に尽きると思う。
飲食店に限った話ではないが。
先日、お世話になった会社の先輩が定年になった。
私にとっては父に近い年の方で、私とほぼ同年代の息子がいる。
苦労なすった人で、その為か我ら若手には厳しく、優しかった。
それでいて、人を見る目は厳格で、めがねにかなわなければ見向きもされぬ。
ありがたいことに、よくしていただいた。
そんな方が、先日風邪を引いた。
快復してから、土用に近いし精をつけようとばかりに行ったのが浅草、駒形橋のたもとにある鰻屋『前川』だ。
この店は創業は無論のこと江戸、府内一と押す人も多い鰻屋だ。
今は天然物の代わりに、扱う店の少ない最高級の養殖鰻、坂東太郎を食わせる。
鰻重と言えば甘いタレだが、ここのタレは甘くない。
重だけでも良いが、この日は鰻巻きから白焼きから、と一通り食わせるコースを頼んでみた。
二階の席からは、隅田川が見える。
畳敷きの座敷の窓沿いに点々と机が設えられ、夕暮れに向かう隅田川、そして点灯したスカイツリーが茫漠と見えた。
昔は純和風の建物で、隅田川から船で付けることも出来たという。
夕暮れ時、芸者を乗せた船が、新内を流しながら行き交うのを見ながら鰻を食べる風情は、さぞ抒情的であったことだろう。
ビールで暑熱を逃がし、先付から八寸、そして先ずは白焼きだ。
山葵がいい。
ビールが進む。
次は鮪にとろろを掛けた一品、そして八寸。
刺身も出るが、懐石風にしていかないと、なかなか難しいのだろう。
日本酒に変えたあたりで鰻巻き。
甘くないのが良い。
日本酒と玉子は存外に合うものだが、これはいい。
そして肝吸いと鰻重が満を持して出てくる。
私は肝吸いが好きだ。
肝の付焼き、というものを食べたことがあるのだが、下手味がなんとも良かった。
それに比べると品が良いが、さすがに味わいは枯淡で、最近とみに飯の趣味が枯れてきたので嬉しい。
鰻重は大きさで違うが、例えばその辺の牛丼屋の鰻重と違って一匹がきちんと入っている。
あれは伊井蓉峰の話だったか、明治の頃、鰻屋に行った人が半身の鰻重を出され、『ここの鰻は半身で泳ぐのか。そんな化け物食えるかよ』と、庭に鰻重をぶちまけて帰ったというエピソードを読んだ。
現代人なら10人の9人が反感を抱くと思うが、個人的にはその人には賛成する。
金がなければ兎も角も、偶に贅沢をしたければ鰻は一匹丸々食べるのが良い。
ここの他、浅草には『色川』という鰻の名店があるが、人を呼んで酒を呑み、鰻重を食べるならやはりここが東京一かもしれない。
値段も、まあお気軽に食べられるレベルではないが、それはそれで良いものだ。
鰻と飯を一粒残さず食べ、満足したところで、諭吉先生が何人かお隠れになられた。
全く惜しくなかった。
その先輩も喜ばれたろうか。
ちなみにその人とは、その後浅草・ビュウホテルの近くのスナックに行き、たまたま行き合った御歳87の鳶の大棟梁、84の職人とゆるりと煙管を喫みながら話した。
それも、それで良い。




