12. 神田 みますや
縄のれん、といわれてぽんと手を打つ人は、少なくなりつつあるのだという。
神田と言うよりも淡路町や神保町に近い、この店は生粋の『縄のれん』である。
ここには通いつめた……と言いたいが、実はそれほどではない。
なぜかと言うに、ここは人気過ぎるのだ。
平日午後五時半には、ビールを酌み交わす常連やサラリーマンで満席になる、と言えばそのすさまじさが理解できようか。
それでも、会社の人、友人、悪友と様々に通った。
そして、珍しい方々をお見かけした場所でもある。
神田の町の一角に提げられた縄のれんをくぐり、引き戸をカラリと開ければ、中は酔客の声が木霊している。
向かって左右にテーブル、奥に大きな一枚テーブルがあり、その向こうはちょっとした入れ込みになっている。
何と言おうか、最初に私がここを上司に連れられてくぐったとき、江戸時代の一膳飯屋に入ったような心地がした。
そんな場所だ。
入って、まずはビール。
つまみは何でもすばらしいが特に刺身、馬刺し、煮込みなどは筆舌に尽くしがたい。
甘辛く煮た煮込みの味が、一日を終えた体に染みる。
ビールでさっぱりすれば、今度は待ちに待った日本酒だ。
私も上司も、ついでに言えば会社の人の多くも、日本酒に目がない。
『真澄』だ、『黒牛』だ、『磯自慢』だ、『田酒』だと、また酒飲み好みの良い酒ばかりを取り揃えているから凄い。
田酒なぞは、青森でしか手に入らないといわれる特級をなみなみと注いでくれるのだから恐れ入る。
出る頃には夢心地、電車に乗れる気がせず、タクシーで帰ったことも何度もある。
ここはいわゆる『個室居酒屋』ではない。
自然、人の姿が目に入るし、失礼であるので目を合わせたりはせぬが、驚くこともある。
あるときは、凄い美人の方にお会いした。
妻を見慣れている私が一瞬見とれたのだから、すさまじい。
黒髪をさっと括り、落ち着いた様子で同卓の方と話しておられる。
「○○○○だよ」
店を出た後、一緒に飲んでいた先輩が、ある大女優の名前を耳打ちしてくれた。
お忍びででもあったものだろうか……
さすがに実物は違うものだ、と思った。
他に、かの『酒場放浪記』の吉田類氏にもお会いしたことがある。
御恥ずかしい限りではあるが、当方はあの番組の大ファンだ。
一緒に行った当時の課長も全くの同病で、「おい、サインもらいてえなあ」と私を肘でつついていた。
どうやら何かの取材か、あるいは顔見知りと飲んででもおられたのだろう。
そして、私がトイレに立って、テーブルに戻ろうとした時、たまたま吉田氏と目が合った。
番組を見ている方ならご存知の、あの酒を掲げての楽しそうな会釈。
気づけば、まるでアイドルに話しかけられた女子高生ででもあったかのごとく、「ファンでした」などと言っていたのだから、吾ながら片腹痛い。
今でも戴いた写真は宝物である。
酒席に変な人間がまぎれてしまい、申し訳ない、と言う思いも強いのだが。
ちなみに一言二言話して去った姿を課長は、その後すさまじいまでに私を叱り飛ばし、その後に楽しそうにサインを貰っていた。
……仕事で怒られるどの時よりも厳しかった。




