さよならノブリス学園
終わった。
しばらく、終わったことに現実感がなく、夏彦は呆然と倒れた怪物の姿を見下ろしていた。
ぜろぜろと、音がうるさい。
何の音かと思えば、自分の呼吸だとしばらくしてから夏彦は気付く。
「今度こそ、決着だ。お前のその手で、頭を砕け」
声が反響して、頭が割れそうだ。
「殺さないよ、俺は」
夏彦が口に出して喋ると、その途端、血の塊と砕けた歯が一緒にこぼれる。
「いいか、これは殺す殺さないの話ではない」
男の声が脳髄を侵す。
疲れた。寝てしまいたい。
その誘惑を振り切り、体中に鞭打つようにして、一歩、足を動かす。その疲労と激痛に顔が歪む。
怪物に近づく。
また、一歩。
「今回はお前が勝てたが、殺さない限り怪物はいつでもお前と戦いを望むだろう。そして、向こうはお前を殺すことを躊躇しない」
また一歩。
「怪物はお前を追い続ける。そうして、ここで殺さなければお前は逃げ続ける。怪物からも、そして世界からもだ」
一歩。
ようやく怪物の顔が見える位置まで進めた。山を一つ登りきったかのような疲労だ。
「お前は人間ではない。もう人間ではない。逃げるしかない。そして、唯一の同類の怪物からは殺す為に追われる。いいか、それがお前の運命だ。このままの道を歩いた先にある、絶対の結果だ。疑うなら自分で考えろ。お前の信じる、お前を救ってきた自分の直感に尋ねろ」
尋ねるまでもない。
夏彦はその答えを既に持っていた。
男の、理事長の言葉は正しい。
体は滅茶苦茶で、顔も血塗れだというのに、怪物の表情は、まるで遊びつかれた子どものそれだった。
「大体、何故今更殺すのを躊躇う? 既に何度も、怪物を殺すつもりの攻撃をしていただろう」
「勝負は決したのに、無抵抗の相手を殺す気にはなれない」
「本気で言っているのか? それは怪物だ。災害にも近い何かだ。無抵抗なのは今、この一時だけ。すぐに不死身の化け物になるぞ」
「それでも、俺の理想に、無抵抗の奴の頭を砕くなんて選択肢は、ない」
夏彦は言い切って、ゆっくりと怪物に背を向ける。
「人殺しは理想から遠ざかるか? もう、人殺しだぞ、お前は」
「知ってるよ」
呟いて、夏彦は怪物から遠ざかるように歩き出す。
「やめておけ。そちらの方向に未来はない」
「それも、知ってる」
夏彦の足は止まらない。
「ノブリス学園を、敵に回すことになるぞ。私は理事長だ。この私の意向に逆らうという意味、分かっているのか? この国の、いや、この世界の全ての権力を敵に回すということだ」
「そうだな」
「権力も、民衆も、そして怪物すらも敵に回して、そうしてお前はどこに行く? 逃げてどうする? 運命を破壊しろ。己が特別であると証明しろ」
「断る」
「何故だ」
「理想だからだ」
一歩ずつ、少しずつ、だが確実に、夏彦は怪物から離れていく。
「やれやれ」
男の声が、呆れたようにため息をついた。
「つくづく、思い通りにならない男だ。だが、まあ」
「それでこそか。久しぶりに、想定できないことの面白さを実感できた。楽しかったよ」
途中から頭の中の男の声は消えて、実際の音声が聞こえた。
夏彦は、頭だけ動かして後ろを振り返る。
怪物が、上半身だけを起こして、微笑んだまま夏彦を見ていた。
「なに、きっと、またすぐに会えるさ」
怪物が言うと、
「お断りだ」
それだけ言って、夏彦はまた顔を戻して歩き出す。
「あんたの茶番には、もう付き合わない」
背中越しにそう言うと、今度こそ夏彦は足をとめない。
「会えるさ。君の歩く道は長い」
怪物は夏彦の背中に声をかける。
夏彦は振り返ることなく、ゆっくりとおぼつかない足取りで、歩いてその場から去っていった。
しばらく、道に大の字になって倒れたままで、怪物は満足そうに空を見上げていた。
「ふられたな、貴兄」
やがて現れたのは、獣のように鋭い男と、巨大な体躯の老人だった。
「ふん、ほっといてくれ、レイン」
獣のような男にそう返して、怪物は空を見続ける。
「それで、これからどうするつもりだ?」
今度は老人が声をかける。
その老人、ノブリス学園の学園長は、どこか嬉しそうだった。
「さて、もう彼というイレギュラーは現れた。後は彼を追い続ければいい。学園は、不要と言えば不要だな」
「私もお役御免か」
「俺としてはつまらないな。ノブリス学園ほど面白い場所を他に知らない」
レインが言うと、
「ほう、私の数少ない友人の一人がこう言うなら、潰すわけにはいかないな。すまない、デミトリ、まだ世話をかける」
「やれやれ。ようやく引退できると思ったが」
学園長は肩をすくめる。
「それで、理事長。どうだ、あれは、私の弟子は」
「申し分ないな」
怪物は笑顔で言う。
滅茶苦茶だった肉体は、既に回復し始めていた。
「イレギュラーだ、間違いなく。私が長年捜し求めていたイレギュラーだ。力を大部分制限していたとはいえ、それでも私をここまで追い込んだ。百年も生きていない小僧が。素晴らしい」
怪物は体を起こす。
喋っているうちに、体のダメージは全て回復していた。
「間違いない。天地創造以来ずっと私が探していた種だ。ある時はアダムとなり、ある時はプラーナ・カッサバとなって転生し続けて追い求めたイレギュラーだ。我が愛し子だよ。最後、私を殺さなかったのは残念だが。殺せば、私の力の全てを手に入れることができたというのに」
「それで? 貴君はどうする? すぐに彼を追いかけるのか?」
「いや」
怪物はゆるゆると首を振る。
「そんなのは面白くない。勝者は彼だしな。しばらくは、彼の自由にさせるさ。なに、彼の歩く道は長い。どうせ、いつかは交わる」
そうして、怪物は大きく手を広げる。
「そんなことより、まずは学園だ。彼だって、母校が潰れるのはよしとはしないだろう。学園さえあれば、彼もいつか戻ってくるかもしれない。協力してもらおう、私の数少ない友人よ」
「学園の存続のために努力するのに異存はない」
レインが言うと、
「ふん、生涯の大部分を共に過ごしたお前の言うことだ。よかろう、最後まで付き合ってやる」
学園長もそう言って歩き出す。
「デミトリ、どこへ行く?」
「さっそく、行政会を組織し直す。建前に拘っている状況ではないからな、公安会を取り込み、圧倒的な力で秩序を回復させるしかあるまい」
「そういうことなら、俺も戻って指示を出すとするか」
レインも楽しそうに怪物に背を向ける。
「今、状況が状況だけに一番活躍してるのは風紀会だからな。行政会からの待ったがかからないなら、全力でやらせてもらう」
「頼む、二人とも。別に六会に拘る必要もない。新しい形でのノブリス学園にしてくれ」
怪物の言葉に、二人は歩き続けることで応える。
そうして、後に残るのは、怪物、プーラナ・カッサバ、ノブリス学園の創始者にして理事長一人だけになった。
「ふん」
もう一度、怪物は空を見上げる。
「見ているか」
そうして、空に向かって呟く。
「もうじきだ。もうじき、お前らの座を脅かすものが現れる。楽しみにしていろ」
神々に向かって啖呵を切り、怪物は笑った。
早朝とはいえ、山奥にあるノブリス市から他の市に繋がる主要な道は、かならず厳重に見張られている。
だからこそ、夏彦はぼろぼろの体で、山中をひたすら彷徨う羽目になった。
一応、方向だけ決めておいて、あとはひたすらそっちに向かって歩き続ける。
山の中では方向感覚が狂うというのは知っていたが、夏彦にはもう直感を頼りに歩き続けるしかなかった。
時間は大丈夫なはずだ。直感で決めた予定通りだ。
夏彦は時計を確認する。
あとは場所だけだ。
「ああ、死にそうだ」
呟く。
その呟きとは裏腹に、少しずつではあるが、夏彦の体は回復しつつあった。
本当に、人間じゃあなくなってるんだな。
夏彦は実感して、少しだけ妙な気分になる。
やがて、山を越えて、小さな獣道が見えてくる。
そうして、その道に、堂々と四駆が止めてあった。
黒く、目立たないデザインだが頑丈そうな大きな車体だ。
「来たか」
その車体にもたれるようにして、黒いコートとサングラス姿の男が待ち構えていた。
男には、片耳がなかった。
「あれ……どうしてこんなところに、片耳のない男が」
夏彦が息も絶え絶えながら冗談めかして言うと、
「呼び出したのも夏彦君だし、片耳飛ばしたのも夏彦君だろううに。どうでもいいけど。しかし、徒歩でよくこの場所に辿り着けたね」
「勘には自信があるし、体は頑丈ですから」
「……それにしては、随分ぼろぼろだな」
「ま、気にしないでください。それより、無理言ってすいませんね」
「ふん、死ななきゃいけない状況で片耳だけで見逃してもらって、おまけに死の偽装まで手伝ってくれたんだ。これくらいなら、お安い御用だ」
「別に、クロイツさんのためじゃあないですよ。俺が、人殺しをしたくなかっただけです。どうしてもね。やっぱり、鈍るものですよ、いざやる段になったら」
「そんなタマには思えなかったけどね、どうでもいいけどさ」
「繊細なんですよ、俺は。友達を一人殺しているから、特にね」
夏彦は車の後部座席に乗り込むと、そのままシートに倒れこむようにした。
「お疲れだね」
クロイツも運転席に乗り込む。
「ええ、疲れてますよ。普通なら、死んでしまうくらいに」
「見れば分かるよ」
四駆は獣道を発進する。
「話はついている。近くの港からとりあえず中東の方に渡ってもらうつもりだ」
「ああ、どうも、世話になります」
獣道を進む振動が眠気を誘う。
夏彦は睡眠の誘惑に耐えながら言葉を返す。
「それで、いつまで逃げるつもりだ?」
「さあ、けど、一年以内には戻るつもりですよ」
「一年以内!?」
余程意外だったのか、思わずといった感じでクロイツが後部座席の夏彦を振り返る。
「そんなに早く戻るのか? ほとぼりも何も冷めてないだろう」
「それはそうなんでしょうけど」
夏彦の脳裏には、眼鏡をかけた心配性で真面目な少女の姿がある。
「それ以上帰らなかったら、舌を噛むことになるんで」
「どういう意味だ?」
「約束は守りましょうってことですよ」
納得した顔はしなかったが、とりあえずクロイツは顔を前方に戻す。
「ということは、夏彦君はノブリス学園を卒業する気、ひょっとして?」
「よく分かりましたね。そうですよ、もちろん。だって、ノブリス学園を優秀な成績で卒業するのが、エリートへの最短経路でしょう?」
「そんなにエリートになりたいの?」
「もちろん、憧れですから」
そうして、夏彦は力尽きたように目を閉じた。
車の振動に身を任せて、するりと眠りの世界へと落ちていく。
その寸前、最後に夏彦の頭に浮かんだのは、長い長い道のイメージだった。これから自分が歩く道を象徴しているかのような、長い道。
構わないな。
消える寸前の意識でそう思う。
最初から、分かってたことだ。人間を続けようとやめようと、自分の憧れを、永遠に追いつけないものを追い続ける道は果てしなく長い。
何の違いもない。
まあ、でも、ノブリス学園を一時的にせよ離れなきゃいけないのは残念か。
あの学園は好きなんだ。尊敬すべき人たちがいっぱいいて。
そう考える夏彦はノブリス学園の面々を思い浮かべているがそれは既に夢の中だ。




