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エリートその2

 意識を取り戻し、再び見開いた右目が初めて捉えたのは、夜明けの光を背景にした、口笛でも吹きそうな少し驚いている怪物の顔だった。

 そして少しだけ遅れて、死んだ方がマシと思える苦痛が襲ってくる。


「ぐ……」


 絶叫したいが、その体力も残っておらず、夏彦は少しくぐもった声をあげるだけだ。


 長い夢だったが、どうやら現実世界の時間はほとんど立っていないらしい。

 意識を失う前と比べて、怪物は少しだけ夏彦に近づいてきているだけだった。


 とはいえ、それで十分。

 あと数歩で、怪物の『三千苦界ワンダフルユニバース』の範囲に夏彦が入る。

 そうなれば、終わりだ。

 死にかけている夏彦が死んで終わるだけ。


「まさか、こっちの世界に戻ってくるなんて」


 目を丸くしたまま、怪物はそう言って一歩足を進める。


「そのまま死んでいればよかったのに。どうして、戻ってきたんだい? できるだけ苦しんで死にたいとか? マゾヒストなのかな?」


 ああ、そうだ。

 そう答えようとして、夏彦はうまく喋れず、喉の奥から血の塊を吐いた。


 その通りだ。

 マゾヒストが、俺の理想だ。けど、痛み自体に喜びを覚えるような、そんな単なるマゾヒストじゃあない。

 その痛みが高潔なものであることに、喜びを感じたいんだ。自分の痛みが誰かのためになっていたり、誇りを守ったり。

 そんな人間になりたい。


「ぎっ……」


 歯を食いしばり、千切れかけた両手両足に力を入れた。


 激痛と共に、少しだけ右手と左足が動いてくれた。

 十分だ。


「ん?」


 のろのろと、片手片足を動かしだす夏彦を見て、怪物は動きを止め、訝しげに眉を寄せた。


「ず、うっ……」


 呻きと絶叫の中間の声を絞りながら、夏彦は片手を地面について、片足を軸にゆっくりと立ち上がろうとした。


 体重がかかった瞬間、右手も左足もぶちぶちと嫌な音をたてて捻じれがひどくなっていく。


 バランスが崩れかけるのを、必死で立て直す。

 夏彦の目には血の涙が滲んでいる。


 もう諦めたらどうだ?

 夏彦の内なる声が語りかけてくる。

 冗談じゃあない。これくらいで諦めるなら、最初から目を覚ましていない。

 俺の理想は、エリートは、こんなことくらいで諦めたりしない。


「ぐうううっあああ」


 雄叫びと共に、夏彦はようやく立ち上がった。


 その時には、怪物はさらに近づいてきている。朝焼けで少し見えにくいが、『三千苦界』は今にも夏彦を飲み込もうとしていた。


 諦めるものか。

 たとえば、あいつを思い出せ。

 夏彦が強烈に思い起こしたのは、あのしつこい暴力の権化、大倉だった。

 あの男自身は別に尊敬なんてしていない。けど、尊敬すべき点はある。

 たとえば、あいつが今の俺と同じ状況だったとして、あいつは諦めるか?

 絶対に、否だ。

 夏彦は断定する。

 あいつは、絶対に諦めない。そもそも、そんな選択肢があることに気づかないかもしれない。

 どんな絶望的な状況だろうと、あの男は敵意を丸出しにし、ぼろぼろの肉体でも『人間強度アンブレイカブル』で無理矢理に動かして、立ち向かう。

 勝ち負けは別として。


 そうだ。そこは、その部分は、理想だ。

 そこのところは、見習わなければいけない。

 夏彦の心に焼き付いているのは、どんなにぼろぼろでも全力で拳を振り回す大倉の姿だった。

 そうだ、まずは、あれに近づかなければ。


 立ち上がった夏彦は身構えようとする。

 何とか、左手と右足も少しだけなら動いてくれた。


「君は……」


 今度こそ、怪物は目と口をあけて、驚いた顔を作る。それは驚愕というより、愕然とした顔と言ってもいいかもしれない。


 何に驚いているのかは知らない。まだファイティングポーズをとる間抜けさに唖然としているのかもしれない。

 それでもいい。

 いつの間にか復活していた左目も開き、夏彦は両目で、満身の敵意を込めて怪物をにらむ。

 少しでも理想に近づくために、やるだけだ。


 踏み込んで、右手を振り回すだけの攻撃。

 当然当たらず、右手が捻じられる。


「づあああっ」


 それで諦めるような男じゃなかった、大倉という男は。だから、俺も諦めない。

 夏彦は、何とか動くようになった左腕の方で拳を突き出した。


「うっ」


 それはあっけなく、驚くほどあっけなく怪物の胴体に突き刺さった。

 よろよろと怪物は後退する。


 夏彦にも、どうして自分の攻撃が怪物に命中したのか分かっていた。

 だからこそ、自分の左拳をまじまじと見つめてしまう。


 怪物が夏彦の左拳を食らった理由。

 それは、ただ単純に、不意打ちだったからだ。そんな攻撃が来るとは思っていなかった。だから『三千苦界』で防げなかった。


 どうして、その攻撃が来るはずがないと怪物は思ったのか。


 理由は簡単だった。

 夏彦だって、さっきの攻撃ができるとは思っていなかった。

 人間をやめてしまった回復能力、それを持ってしても、左腕は数分数秒で回復するような状態ではなかった。

 それでも、その腕で攻撃しようとした夏彦の攻撃が、本当に形になってしまったからこそ、怪物は食らったのだ。


「……異常だ、その回復力」


 さっきの攻撃のダメージはほとんどないらしい。

 ただ、あまりにも意外な攻撃だったために、怪物は心理的なショックからか、まだ動かないでいた。


「僕の回復力を明らかに上回っている。それは――」


 怪物が言い切る前に、夏彦は前に踏み出した。


 死ぬ寸前だったのが嘘のように、夏彦の体動く。

 明らかに、異様な速度で、いや元から異様な速度で回復していたのだが、それと比べても、さらに異様な速度で体が回復しているのを感じていた。


 そして、その理由にも薄々ながら気が付いていた。

 これは、要するに、俺が近づいた証だ。

 何か証拠があるわけでもなく、夏彦はただ、直感でそう理解していた。


「そうか、上乗せしているのか、大倉君の『人間強度』を――」


 言い終わる前に、夏彦は全力の拳を打ち込む。

 逸らされ、破壊される拳。


 だが、ほとんど同時に、通常ならば無理な体制からの蹴りが放たれていた。

 そう、大倉の得意とする、常識外れの連続攻撃だ。


「むっ」


 すぐに気づいた怪物はそれを逸らそうとするが、逸らし切れずに肩に命中した。肩の骨が砕け、怪物は少しよろめく。

 引き換えに足が捻じ壊されたが、その時には既に回復しつつあるさっき破壊された拳が、怪物のみぞおちに突き刺さっていた。


「ぐうっはあっ、ふふっ」


 体を折り、胃液と血を吐きながら、怪物は微笑む。


「素晴らしい。『最良選択サバイバルガイド』で、掴んだのか、大倉君の限定能力の使用の感覚を」


 腕を捻じられながら、夏彦はさらに攻撃を繰り出そうと前に進む。


 だが。


「素晴らしい、が、ダメだ。もう、飽きた。手品はそうそう通用しない」


 今度は、破壊されながらの攻撃も怪物の不意を衝くことにはならなかった。


 攻撃を逸らされるのにプラスして、怪物が体を動かして避ける。

 当然、攻撃は当たらず、こちらの手足だけが破壊された。

 さらに。


「ほうら、隙だらけだ」


 怪物の直接の蹴りが、夏彦の膝に命中した。

 くしゃりと音をたてて、膝がつぶれる。


「ぐうっ」


 プラス、胴体が捩じ切られそうになって、夏彦は必死で飛び退く。


「ふふ」


 笑いながら、怪物が迫ってくる。


 諦めない。

 夏彦は自分に言い聞かせる。

 やはり、怪物の意識の外からの、不意打ちに近い攻撃した通らない。

 まだ、あるか? 俺に、怪物に見せていない、意表を突くような攻撃が。

 ある、いくらでも。

 たとえば、正義のために迷いなく振るわれる刀を、捉えられるか?


「く」


 迫りながら何か言おうとした怪物の、首が飛んだ。


「『斬捨御免ブレイドライセンス』」


 突如として夏彦の手に出現した、日本刀による攻撃だった。


 本当は、脳髄を斬りつけようとした横一文字の斬撃だった。


 怪物によって逸らされ、首を刎ねることになってしまった。


「刀か。それは、思いつかなかったな」


 宙を舞いながら、怪物の首が喋る。


「よっと」


 次の瞬間、怪物の首は元の位置にあった。


「けど、失敗だね。切り口が鋭いから、すぐにくっつくよ。打撃で潰されたんじゃあ、無理矢理に戻しても再生にちょっと時間がかかるんだけどね」


 それを見て、夏彦は舌打ちをしたくなる。


 そうか、『三千苦界』にはそんな使い方もあるのか。

 夏彦は予想していなかった。

 体を壊されても、無理矢理に元の位置に戻す。

 通常ならば、そんな使い方をしても何の意味もない。だが、再生能力と併せればその再生を加速させることになる。

 ようやく、夏彦は怪物の再生が自分よりも早い理由が理解できた。


「さて、それでどうする? もう、諦めるかい?」


 おそらく、答えを分かっていながら、怪物が問いかける。


 返事の代わりに、夏彦は片手に刀を構え、もう片方の手の拳を握りなおした。


「素晴らしい」


 怪物は拍手でもしそうな勢いだった。曇ったガラス玉のようだった両眼が、ぎらぎらと輝いている。


「さて、今度はかわせるかな?」


 そう言って、怪物は瞬間的にナイフを投擲してきた。手首のスナップだけで、ほとんど音速に迫る速さのナイフを、十数本。


 おそらく、手首が動いたのを見てから動くのでは、どうやっても避けるのが間に合わない、必殺の投げナイフ。


 だが、夏彦は手首が動く時には既に動いていた。

 屋上でかわしたのと同じ、完全な勘による回避だ。

 それで避けるはずだった。一度目はそうやって避けたし、ましてや二度目ならばかならず避けられる。

 そのはずだった。


「かっ!?」


 だが、結果は、音速の投げナイフは夏彦の喉、太もも、そして腹の合計三か所に命中した。


 痛みよりも驚き、そして驚きよりも危機感。


 まずい。


 その危機感は的中し、ナイフを食らった瞬間に怪物は距離を詰めてきた。


「『三千苦界』にはこんな使い方もある」


 その怪物のセリフで、何が起こったのかを知る。


 ナイフの軌道を曲げたのか。

 歯ぎしりしながら夏彦は後ろへ下がろうとする。


 だが、ナイフに貫かれたロスが大きい。

 夏彦の指先が『三千苦界』の範囲に入る。


 破壊されるか。


 そう覚悟した夏彦だったが、その後の展開はその覚悟を軽く超えた。


「ほらほら、どんどん新しい使い方を教えてあげるよ。範囲内のものを自由に動かせる、って言っただろう? 捻じるだけが能じゃない」

 

 その言葉と同時に、夏彦の指先、範囲内の指先が、破壊されるのではなくて、急激に引っ張られた。


「なっ――」


 バランスを崩して、前のめりになる夏彦と、さらによる怪物。


 夏彦の全身は範囲内に入り、体全体が万力で締め上げられるように捻じられだした。


「ぐっあっあっああっ!」


「はは、どうだい――ん?」


 笑っていた怪物の顔が切り裂かれた。刀による一撃だ。


 そして次の瞬間、夏彦の蹴りで怪物は吹き飛ばされる。


「ぐっ」


 漫画のように、十メートル以上後ろのブロック塀まで吹き飛んでぶつかる。


「やれやれ」


 今ので骨の数本は折れていなくてはおかしいが、怪物は何もなかったかのように即座に立ち上がる。

 再生しているとしても異常だ。


 だが、もう種の分かっている夏彦は不審には思わない。

 骨が折れていても、『三千苦界』で動かしているだけだ。範囲内のものは、自分の体を含めて自由に動かせるのだから。


「『三千苦界』で動きを止めて、頭に直接一撃。完璧なプランだったはずだけど……いくら大倉君の能力で無茶ができようとも、身動きできないレベルだったはずなのに」


 その言葉に、ダメージから早くも立ち直りつつある夏彦は刀を消し去って拳を構えて、


「お前の能力なんてぶち破るほどパワフルな人を俺は知ってる。その人は、ただ力が強いだけじゃなくて、器も大きくて、いつも大らかなんだ。尊敬してるんだ、その人を」


 夏彦が思い浮かべるのは、大きな筋肉質の体と愛嬌なる顔を持つ、秋山の照れたような姿だった。


「なるほど、筋力強化の限定能力を――『学習』したのか。やれやれ、厄介な」


 怪物はうんざりした口調とは裏腹に、満面の笑顔だ。


 とうとう、本格的に朝日が昇り、辺りが照らされていく。

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