雨陰太郎その3
本日二回目投稿です。
「に、逃げろ!」
叫び声を聞いて、司法会本部で一人今回の事件の資料を見直していたレインは廊下に飛び出した。
「――ほう」
落ち着いた声とは裏腹に、レインの目は見開かれ顔色も変わった。
廊下に出たレインが目にしたのは、常に余裕のある彼を動揺させるのに充分なものだった。
廊下には、荒い息をつき、青白い顔で立つ尽くす夏彦。対峙しているのは、静かな顔をして、猫科の動物のようにいつでも跳べるように身構えている月。
そして、床には胸を刃物で貫かれたコーカが倒れていた。
「――逃げるが、勝ち、ですわね」
呟いた月は、後ろに跳ぶとそのまま廊下の向こうに向けて風のように逃げ去った。
「くっ、そ」
苦しむような、怒りを噛み殺すような表情をして歯を食いしばった夏彦は、充血した目で月の走り去った方を睨み、
「……ああ」
一度だけ、床に転がっているコーカを見て、そこからレインに目を移し、息を漏らした。その時の夏彦は泣きそうな顔をしていた。
それから、また元の歯を食いしばった顔に戻ると、月の去って行った方向に猛然と走っていった。
「……さて」
二人が去ってから、レインは気を取り直すように呟くと、平静な顔に戻って倒れているコーカに近づいた。
「まさか、この男が死ぬとは」
レインはコーカに傍らに座り、その首筋に手を当てる。死を確認するために。
だが、本当は確認するまでもない。刃物が、きっちりと心臓を貫いているのが見ただけで分かった。
「なっ!?」
突如として、レインの顔が驚愕に染まる。レインが触れた首筋から、しっかりと脈が伝わってきた。
「馬鹿な、どうして」
心臓が貫かれているはずなのに、鼓動を感じる。その意味が分からず、レインはしばらく考え込んでいたが。
「む」
それどころではなくなった。
脈をとっていた腕を、突如として動いたコーカの右手が凄まじい力で掴んだ。
「やれやれ」
かすれた声と共に、コーカが目を開けた。
「気絶しましたか、我ながら情けない」
「貴兄、どうして――」
「ああ、レイン副会長、お恥ずかしいことです」
喉をぜいぜいと鳴らしながら、それでもコーカは笑みを浮かべる。
「いや、元々僕は心臓が弱くて、位置も通常とは別の場所にありましてね。学園製の人工補助心臓もありますし。とはいえ、刺された位置が位置なんで心臓と人工補助心臓が傷つきましが……何とか、ぎりぎり動いてはいるようです」
「そうか、よかった」
「とはいえ、止まるのも時間の問題のようですが」
まだ淡い笑みを浮かべるコーカの顔は、紙のように青白い。
「なに、まだ命があるなら望みはある」
言った瞬間、レインは掴まれていた腕を振りほどくと、コーカに刺さっていた刃物を素早く抜き放った。
「かっ……」
コーカが痙攣する。口から血がこぼれる。
栓になっていた刃物が抜かれ、傷からとめどなく血が流れ始める。
「さて、貴兄が生きるか死ぬか、裁判の時だ」
そう言うと、レインは自分の親指を噛み破った。親指にみるみるうちに血の玉ができて大きくなる。
「俺の『友情之杯』だ。幸運を祈る」
レインはその親指を、コーカの口に突っ込んだ。
くそ。
夏彦は、さっきから己を呪い殺したい欲求に耐えながら全力で駆けていた。息があがろうが、体が悲鳴をあげようが関係なく。
許せない。己の甘さが。月を怪しいと思った瞬間に、きちんと報告をしていれば。いや、そもそも、これまで月先生を疑わなかったことも、月先生が『敵』のはずがないという思い込みからだったのかもしれない。怪しくない? 一緒に蕎麦を食べたからか? 馬鹿馬鹿しい。
校舎を出て、校庭を駆けた。微かに見える月の後姿を追って、夏彦は武道館の裏へと進む。
日が沈み、人気のない地区へとどんどんと入っていくが、夏彦には躊躇はない。もはや、激情のあまりどうなってもいいとすら思っている。
その激情は、己の無能さへの怒りと、目の前でコーカが月に刺されたショック、そしてそのショックを受けたことに対する悲しみで構成されていた。
俺は、どうやら、ショックを受けるくらいに、生徒会長と月先生のことが好きだったらしい。
それに、もうどうしようもない今になって気づいてしまったのが悲しかった。
「ぐっ……はっ……」
二人は学園脇の雑木林に入った。
自分の体を無視した全力疾走を続けたことで、月と夏彦との距離は縮まりつつあった。
「――ふっ」
林の中で、唐突に月は足を止め振り向きざまに何かを投げた。
「くっ」
全力疾走していた夏彦は、立ち止まることができずその勢いのままスライディングするようにしてそれを避けた。無茶な体の動かし方で身体の節々からみしみしと音がする。
夏彦の髪をかするようにして、短刀が背後の木の幹に突き刺さった。
転がりながら、夏彦はどうして月が和服を好んでいるのか分かった気がした。あの袖の長い服は、暗器を隠すのに最適だ。
「夏彦君を殺すようには依頼されてませんわ。逃げてしまおうと思ったのに、しつこい男は嫌われますわよ」
涼やかに笑う月に、全力疾走の直後の夏彦は肩で息をして返事をすることすらできない。地面に転がったまま、月を睨んでいる。
「それにしても、コーカをあんなに必死に追ったところからして、わたくしが怪しいと気づいていたようですわね。初めてですわ、疑われたのは」
ゆらり、と細腕を振ると、袖から短刀が飛び出て、それを月は握って構える。
「どうして、わたくしを?」
「……じゃあ、やっぱり」
荒い息の狭間に、ようやく夏彦の口から出たのは、そんな言葉だった。
まだ信じたくなかったのかと、自分の言葉に自分で驚く。
「ええ、わたくしが雨陰太郎です」
「……女……にしか、見たいですよ」
「それはそうでしょうね。幼少の頃に、投薬や手術を受けましたので。今でも女性ホルモンを定期的に摂取してますわ。男よりも、小柄で子どもみたいな少女の方が油断するでしょう?」
壮絶な内容を、あっさりと話す月。
「それで、どうしてわたくしが怪しいと?」
「……月、先生。コーカを心配して、わざわざ外務会の取引に動向したでしょう?」
「ええ、そこで余計なトラブルに巻き込まれたましたわ」
「――もし、俺が殺し屋だったら、と思っただけです。俺だったら、小心者だからその取引を確認する。だって、俺がその取引を妨害するなんて噂が流れてるんだから。雨陰太郎に関する噂は学園に溢れていた。だから、その噂を一番気にして動いていた月先生に思い至っただけです」
ゆっくりと、目を月から離さずに夏彦は体を起こす。
「それ、だけで?」
月がきょとんとした顔をして、短刀を手にしているというのに無防備に呆ける。
「いや、その時点では万が一って感じでしたよ。その後に、雨陰太郎って名前をいじってたら月って単語になったから、疑惑がもしかしてってレベルになっただけです」
「まぐれ当たりがあたったわけですわね……」
はあ、とため息をついて月は笑みを消した。
「大外れですわ。そもそも、雨陰太郎の噂を流したのはわたくしですし」
「えっ、な、何で――」
思わず身を乗り出した夏彦に短刀が投げつけられる。
だが、それを夏彦は刃を掴んで止め、逆に自分の武器として構え直す。
「わたくしは、コーカの暗殺を依頼されました。けど、コーカがどれほどの男なのかはよく分かっていましたわ。だから、コーカに隙を作り出そうと、学園ごと揺さぶろうとした。ただ、それだけですわ」
自分の攻撃を簡単に止められたことに微塵も動揺せず、月はまた短刀を袖から取り出した。
「じゃあ、取引に同行したのは――」
「何も起こらなかったら、適当に騒ぎを起こして、雨陰太郎が噂どおりに暴れたという話にするつもりでしたわ。雨陰太郎の噂が広まれば広まるほど、真実味が増せば増すほど、わたくしとしては都合がよかったのですわ。あの自信家の生徒会長なら、自分が狙われていると知れば逆に噂を追いかけるのは分かってましたもの」
じり、と月が一歩近づく。
「全ては、コーカを倒すための――じゃあ、ひょっとして、クロイツ副会長も?」
唖然とした夏彦。
その夏彦に月はもう一歩近づく。
「彼が外の組織と妙な動きをしているのは知っていましたわ。うちのお得意様ですし。それで、あの襲撃がどういうことかクロイツ副会長を調べていたら、クロイツ副会長が死んでいるのを見つけましたの。驚きましたわ。あれは、偽装事件の可能性があるらしいですけど、その時はそんなこと知りませんから。利用させてもらおうと、署名させてもらいましたわ」
月は既に短刀が夏彦に届く距離まで歩み寄っていた。
「さて、もう間合いですわ」
「殺し屋が、真正面からかかってきていいんですか?」
「ええ。だって、夏彦君はわたくしに勝てませんもの」
「それはどうですかね?」
「決まってますわ。殺し合いなら、殺す気のある方が勝つ。夏彦君、わたくしを殺す気がないでしょう?」
「そんな、ことは」
言葉が鈍る。薄々、自分でも危惧していることだからだ。
「わたくしのことを、親しい人間を殺したくないのでしょう? 前に、同じことをしたから」
月の言葉に、反射的に夏彦はタッカーの顔が浮かぶ。網膜に張り付いたかのように。
「動きが、鈍りますわよ」
その言葉に反論するように、じりと夏彦からさらに距離を詰める。
「俺だって、殺せます。あなたは雨陰太郎。今、俺を殺そうとしている相手で、コーカ生徒会長を殺した人間だ」
「ああ、それで」
少しだけ、月が表情を緩めた。
「どうして、あそこまで必死になってわたくしを追いかけてきたか分かりましたわ。親しく思っていたわたくしが殺し屋だったと裏切られたと感じたのと、同じく親しく思っていたコーカのあだ討ちですか」
「知りませんよ、そんなことは。条件反射みたいなものです」
今や、二人のうちどちらが動いてもおかしくない。
夏彦の『最良選択』は、ずっと「最大限に注意しろ」と警鐘を鳴らし続けている。
この相手は、決して楽に勝てる相手ではないと。
当たり前だ。そもそも、今まで楽に勝てる相手になんてあたったことがない。
「夏彦君にはわたしくは殺せませんわ。あなたは、純粋で甘くて仕事に私情を挟む子ども。あなたは、学園にいる全員が、わたくしのことも、高い理想を持った人格者に見えたのでしょう? 他人は自分を映す鏡。他人がそんな風に見えるということは、自分が穢れない人格者、というよりも、子どものように純粋ということですわ」
「勘違いですよ。俺はそこまで純粋でも、子どもでもない」
そこで、夏彦はゆっくりと手に持っていた短刀を正眼に構えて、
「大体、他人が自分を映す鏡だっていうなら、月先生だってそうでしょう。俺が子どもみたいに見えるなら、月先生がそうだってことですよ。ただの、子どもです」
憎まれ口のように言った夏彦の言葉に、
「――子ども」
不意を突かれたように呟いて月が一瞬無防備になった。
その隙を夏彦は見逃さない。「行け、今だ。罠じゃあない」と『最良選択』も叫んでいる。
無言で、月に向かって正眼に構えた短刀を振るう。
「くっ」
月はすぐに我に返ってそれを避ける。だが、一瞬の遅れが出る。完全に夏彦の間合いからは逃げ切れていない。
「しぃっ」
気合と共に、夏彦は短刀を手元に引き戻して、突いた。
短刀の刃先が、月の首筋に突き刺さった。




