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あり得ない。
私は鏡を見て呟いた。だってあり得ない。本当に、冗談じゃない。自分は何でこんな目に遭っているのだろうか。それがまず分からない。
私は鏡から目をそらし、自分の背後を振り仰いだ。
男が、いた。
ここは公共の場所じゃない。たとえばこれが駅の構内なら、私の背後に男性が立っていても特別おかしくはないだろう。問題は、ここが私の家で、しかも私が一人暮らしだというところにある。すなわち、この男は不法侵入者なのだ。
ただしそれは、この男が生きていたらの話だけれども。
男は右半面がぐちゃぐちゃに潰れている。原型なんて分からない。赤黒い肉と黄色の脂肪、それから白い骨ならはっきりと見えているけれども。右目は潰れたのか飛んでいったのか知らないが、とにかくどこにあるのか分からなかった。右腕も、肘から先がない。左足は妙な方向に曲がっている。背広の腹の部分は裂け、腸のようなものがでろりとはみ出ていた。――つまり、明らかに生きていないだろう。
「……さいっあく」
私は何度目か分からない「最悪」を言った。だって最悪だ。こんな変なやつに、私はもう何週間も付きまとわれているのだ。家でも、外でも。寝てる時も、起きてる時も。
この男は、これだけの存在感を誇り、だというのに私以外の人間には見えていない。嫌がらせもいいところだ。ノイローゼになりそうだし、事実この数週間で三キロは痩せた。
「ねえ、あんたいい加減にしなさいよ」
――無言。これもいつものことだ。この男は絶対に返事をしない。無言で、かろうじて残っている左半面で、私の事を見ている。電車に座っているサラリーマンのように、無表情で。
「私から離れてくれる?」
交渉してみても無言。そして離れない。訳が分からなかった。そもそも私は霊感なんてものも持ち合わせていないはずなのに。現に、この男以外の幽霊を、私は視認できたことがない。
キッチンから塩を持ってきて、男に向かって振りまいてみる。効果無し。床にちらばった塩が、私の仕事を増やした。しぶしぶ、掃除機で吸い取る。無駄な労力を使い、無駄な塩を消費しただけ。最悪。
私は見知らぬ男を睨んだ。
「あんた何が目的なわけ!? 私になんの用! ずーっと後ろに立たれてるとウザいのよ、わかんない!?」
――沈黙。ただ、男が私の声に反応して、左半面でにたりと笑った。右頬の露出していた骨が、一センチほど横にずれる。
私はチャネルの鞄をひっつかんで、外に出た。最悪、最悪。それを呪文のように繰り返しながら。
今日は待ち合わせがある。午後五時に駅の改札前。私は適当な電車に乗った。車内には、制服姿の子供――つまりは高校生が多い。帰宅時間か。そう思いながら私は目の前の女子高生を見た。
目が合った。
というよりも、その女子高生は、私の隣に座っている例の男を見ていた。
見ている。半面ぐちゃぐちゃの男を、明らかに見ている。え、なに。この子視えてるの?
「さくら? 何ぼーっとしてんの?」
女子高生の隣にいた友人らしき子が、その女の子に声をかける。さくら、と呼ばれた女子高生は、「なんでもない」を繰り返した。いや、なんでもなくない。視えてる。この子には絶対に視えてる。
私が下りる予定の駅よりも三つ前の駅で、さくらという女子高生は降車した。私もそれに続く。もう、約束はどうでもよかった。今はこの男の幽霊の方が大問題だ。
「ちょっと、ねえちょっと!」
私に呼ばれても、女子高生は振り返ろうともしない。聞こえてるくせに無視するつもりか、この女。私は思いっきり、その肩をつかんだ。女子高生が驚愕しながらもこちらを振り返る。私は、万引き犯でも捕まえるかのような形相で叫んだ。
「ちょっと! 待ちなさいよ!」
「視えてませんから! 何も視えてませんから!」
「いやそれ視えてるんでしょ!? ねえ、あんたにも視えるでしょ!?」
周囲の人間が私たちの方をちらちらと伺いながら、改札へと向かう。いい、周囲のやつらはどうでもいい。早くどこかに行ってしまえ。私が話したいのは、この女子高生だけだ。
女子高生は顔を横に振りながら、必死に叫ぶ。
「顔面グチャグチャで腕もなくて足が変な方向に曲がってる男の人なんて、私知りません! 視えてません!」
女子高生は素直に叫ぶ。素直すぎるでしょう、この女。
「別に、あんたにこの幽霊をおしつけようとしてるんじゃないの! ねえ、あんた霊感あるの!? もしそうなら、こういう悪霊を退治する方法とかも知ってる!? 知ってたら教えて! あ、塩は効果無かったから!」
私が次々に言葉を発すると、女子高生は困り果てたような、けれども何か思いついたような顔をした。
「あのー……」
言いにくそうに、上目遣いでこちらを見る。
「もしかしたら、除霊してくれる人がいるかも……」
「心当たりあるの?」
「えっと、まあ……。でも、ちょっとがめついかもしれないんですけど」
がめつい?
「お祓いにお金がいるの? それならどうにかするから、とりあえずその人紹介してくれる? あんたの知り合い?」
「知り合いと言うかなんというか、一回会っただけなんですけど……。多分、どうにかしてくれるかと思います。多分、ですけど」
女子高生はそう言いながら、一枚の名刺を取り出した。
それは一瞬しか見えなかったけれど、名前と電話番号程度しか書かれていなさそうな、質素なものだった。




