第三戦 カリラ 後
半歩、早く動いていた。
予定より早く動いたのでも、調子を崩したのでもない。
自らの足が動くであろう場所に半歩早く到達していた。その半歩は、意識の上で置いた足と同時に出た。
うん、そうか。
わたしの足は、わたしの思う先にあるのか。
ほんの一呼吸早く、わたしの足は先の時間に踏み込んでいる。
そこにあってそこに無いような、そんな歩き方になっていた。
これでは誰でも斬れてしまう。
冬が過ぎてから、どうにも体の調子に違和感がある。
侯爵家の武人たちに、そして、わたしを見続けたリリーに気取られぬよう、真夜中に体を動かしている。
丑三つ時に、自らの体に探りを入れているのだ。
侯爵家の庭園は青ざめた月に照らされていた。
この足、まさしく神の一手に他ならない。
足なのに一手か、はははは。
偶然の神技ではない。わたしは常にこの足を踏み出せる。
この時機にか。
皮肉とはまさしくこのことだ。
天下無双を手にして、この時機にあるとは。
口元に歪に刻まれるのは、達人の芝居を始めてから戒めてきた外道の笑みである。
息吹の闇狩りとして、石を投げつけられる度に浮かべていた悪鬼の笑み。
はは、はははははは。
右の胸をまさぐるとしこりがあった。
不吉な感触のそれは、女の病である。
乳房の中に石粒ができて、それが大きくなるにつれて生死人の有様になる業病だ。
いい塩梅だよ。
何もかも上手くできている。
春を目前に咲く白い小さな花が、月明かりに照らされてうっすらと輝いていた。
リリーの好きな花だ。
あの子は、大きな花よりもこういった小さな花を好む。
この花は食べられるため、わたしはたまに食べる。茎は酸い味がして、口の中を爽やかにしてくれるし、歯の病にかからないようにもしてくれる良い花だ。
名前は知らない。
リリーが甘いものを食べるのが好きなために、無理矢理に食べさせている。侍女殿が黙認しているということは、正しいことなのだろう。
わたしの正しき天命は、手に入らぬということ、それそのものであったか。
天運極まるとはこのことだろう。
おのれ、おのれ、おのれ。
坊主共の言う神よ、呪われろ。
わたしの天運は遅きに失するというのか。
今まで何一つ、何一つ手に入らなかったというのに、またしても。
時を置き去りにする必殺の半足は、死の業病がもたらしたものか。
時は穏やかに過ぎていく。
リリーは健やかにして、剣を諦めるそぶりが無かった。
侯爵閣下も困り顔であったが、わたしも今さら止めましょうかとは言えない。
癇癪を起したリリーを何度か叱っている。
そのたびに、これでなんとかなったと安心した。そんなことがあった矢先に、リリーはこっちに抱きついてきたり、ごめんなさいと謝るのだから、破門だなどと言えなくなってしまう。
木刀はもうすぐ完成する。
修行であっても真剣を振ることが少なくなった。
身体が少しずつ、確かに衰えていく。
老いではなく、乳房に生じた石が大きくなっているせいだ。
乳房を切り取れば良いとも云われているが、それで病魔が去ったという話は聞いたことが無い。
死にたいと願ってきたが、本当に死にたかったことなど一度も無かった。
自死とはそういうものだ。
死ぬしか無いから、それしか選べなくなって死ぬのである。
潮時か。
リリーは木剣を振る。
大振りにする癖が治ってきたので、今は歩きながら振ることを教えていた。
これはなかなか難しい。
相手は動くものだから、こちらも動いて剣を振らねばならない。
騎士剣は叩くことで殺せるが、女が扱うには向いていない。
切れ味の鋭い片手剣は、包丁を大きくしたものだ。斬るための包丁であれば、力に劣る女にも使える。
人を斬るための包丁は、女に相応しい武具だ。
この世に満ちる悪意を断つには、力がいる。
リリーの顔立ちは絶世とはいかなくても美しくなるであろう顔立ちだ。そして、侯爵家の権勢は揺ぎ無い。
充分に力はある。有りすぎるほどだ。
剣を多少使えるのなら、それもまた力になるだろう。
弱い者が踏みつけられるのは当たり前のこと。
それでも、弱いものに何をしても良いという訳ではない。だというのに、人は弱さに喰らいつく。
揺ぎ無き力があれば、リリーの幸せも揺るがない。
剣の振り方の次は、受け方だ。
振り方の素地はできた。受け方も必要だ。
わたしは、リリーに死んでほしくない。受け方と逃げ方、馬の乗り方も必要だな。
リリーは飽きずに歩き、今は木剣を振っている。
自分を守る術だけでも教えよう。
季節は廻り、リリー十歳の誕生日を祝う祝宴が開かれた。
この祝宴は社交界への顔見せを兼ねる。
いつものように、わたしは護衛の役目を果たす。
何度か狼藉者が現れたことはある。しかし、そのほとんどはわたしが出るほどではなかった。
肌にびりびりと伝わる何かがある。
何か、来たな。
身体の具合はよくない。
どうにも気怠く、長い時間はやれそうになかった。
宴の中で暗殺者を捜すのは難しい。
近くの騎士に気をつけるよう言い含め、侯爵家の細作にも伝えた。わたしとかち合うだろうか。いや、避けるはずだ。
細作というものは戦士ではない。
わざわざ、わたしのような難敵を相手取りはしないだろう。
普通に考えれば、そうなる。
来たか。
何人だろうか。二人、三人。
狙いは侯爵閣下か、それともリリーか。
ああ、そうか。
リリーを狙うのであれば、わたしの敵だ。
どうして自分でもこんなことができるのかは分からない。しかし、分かる。暗殺者の持つ冷たい殺気が分かる。
足は勝手に動く。
目までわたしの意識から外れて動く。
おい。外でやろう。
年のころなら十二歳かそこら。月のものが来ているかも怪しい少女は、笑みのまま凍り付いている。
「何用でしょうか」
ここでやると床が汚れるし、宴が台無しになる。外でやろう。
言って、剣の柄をぽんぽんと叩く。
幼い貴婦人は笑みを浮かべたままだ。
面倒だが、侯爵閣下の顔を潰す訳にもいくまいよ。
薄暗い所にいるのは見て分かる。
促すと、大人しく従った。
庭園に出て、さらに歩いてわたしが修行に使っている広場へ出た。物置小屋と使用人のための蒸し風呂がある場所だ。
「どうして、気づいたのですか」
隠せるものでもないよ。わたしも、そっち側だからね。
幼い貴人に化けていた細作は笑った。
その笑みは、どこか素直なもので、わたしも笑ってしまった。
わたしが剣を抜こうとする前に、少女は突如として動いた。袖に隠した針か、それとも内太ももの短剣か。
剣を抜くのにも時間がかかる。昔なら一呼吸で抜けたというのに、今は三つも呼吸しないと抜けない。随分と弱くなってしまった。
足は、やはり半歩先に出ていた。
どうしてそうなるのかさっぱり分からない。
少女の脇をすり抜けながら、ようやく抜いた剣を少女の白いうなじに差し込んでいた。
痛みもあるまいな。
それにしても、わたしはどうやって刺したのか。全くもってよく分からない。
勝手に半歩が先をいく。この半歩は時間を飛ばしたように、先に進んでいる。
我ながら、全く意味が分からない。ただ、これならだいたいのものは斬れるなと思う。不思議と、このような芸を会得したというのに嬉しいとも思わなかった。
細作の正体は知れなかったが、この夜会では数人の暗殺者を斬った。
後のことは侯爵閣下の仕事でもあるし、貴種の争いはわたしには分からない。ただ、リリーが三人もいる皇子、その誰かと婚約するであろうことは噂に聞いていた。
こんなものが放たれるような世界か、上というものは。
地を這いずり回る我らとは違うが、斬れば死ぬは同じ。
この細作がリリーを害していたら、わたしはどうしただろう。
想像しただけで、胎が熱くなった。わたしのなかに潜む蛇が、鎌首を持ち上げる。
少し、真面目に仕事をすることにしよう。
剣など所詮は芸の一つ。ようやく、使える芸が出来た。今のわたしなら、競わずに斬れる。
穏やかな日々の裏で、細作の暗躍はあった。
侯爵閣下の細作とはあえて顔つなぎもしていなかったが、宴の日からは彼らと連絡を取り合っている。
リリーの近くにいるのはわたしだ。
このわたしがいる限り、あの子に手出しはさせない。
少しずつ技を教えている。だが、それでは足りない。
侯爵閣下には、かつて敵であった恐るべき細作一族の名を伝えておいた。庇護を与えれば、彼奴らは護鬼となる。
侯爵閣下はそれを聞入れてくれた。
これで、出ていける。あとはどこかで死ぬだけだ。
死期を悟った猫はどこぞへ消えるというが、これが猫の心持であろうか。
そのようことがあり、わたしはリリーにこう言った。
令嬢の修行もしなさい。
春の麗らかな陽射しのもと、リリーは口を開けたまま固まっている。
はっきりと言えば、剣の修行は控えろという意味になる。この子はそういう所が鈍いため、駄々をこねるならはっきり言わねばならない。
この子に出ていくことは伝えられそうにない。
もう旅の支度は整えていた。
ここにいたことは、わたしにとって幸せな時間だった。
「いやです」
わたしも別れたくない。
だが、出ていかねばならない。
そうしないと、わたしの胎にいる蛇が起きてしまう。
何か答えねばならない。
口元に笑みを浮かべることは、できた。
どうして、こんなことをしても幸せにはなれないよ
わたしの疑問だ。
剣で得られるのは憎しみと恨み。
誰よりも知っている。どれほど強くなろうと、わたしは惨めであった。
心が休まる日など、あるはずもない。こんなにも、剣はわたしの大切なものを斬り捨ててきた。
「師匠みたいになりたいって思ったの」
その言葉に、わたしはどうしていいか分からないほどに、心を揺さぶられた。
リリー、どうして、どうしてそんなことを言う。
わたしには価値など無い。
あると信じた価値はどこにもなかった。いつも心にはあった。どれほど世から疎まれようと、天下無双であると。
天下無双であれば、我が名は後世に遺るほどの英傑として讃えられようと。
そんなことはなかった。剣など芸に過ぎず、高名な達人など貴種ばかり。天下無双に価値はあった。だが、わたしという人間に価値がなかったのだ。
なのに、ようやく出会えたリリーが言うのか。
わたしの宝物であるお前が、わたしのようになりたいなどと。
胎の奥で蛇が目を醒ます。
嬉しくて、哀しい。
笑っているのか、泣いているのか、それすら分からない。
それでも、言葉は出た。
胎の奥にいる蛇が、鎌首を持ち上げて口を開き、赤い舌を出す。
『そうか、お前が私の運命であったか。令嬢の修行をして、その後で教えよう。時間がある時は歩法をやりなさい。それから、これをあげよう』
リリー、私の可愛いリリー。
お前のための木剣は無駄になった。いいさ、あれは私には必要ないものだ。
誕生日に渡してきた木剣ではない。息吹の業を遣うための、木刀。
私を苦しめ、我が師の頭蓋を叩き壊し、どれほどか分からぬほどの血と息吹を吸い続けた木刀を渡そう。
その木刀は、私そのものだ。
『ああ、それから、今日からは息吹を教える』
私の可愛いリリー。
私の全てをお前に伝えよう。いつまでも、私が守ってやろう。
お前こそが、私の欲しかったものだ。
だから、お前に全てと力を与えよう。私の得たもの全てを。この憎しみに満ちた私が得た天下無双を伝えよう。
私はようやく一番欲しかったものを手に入れた。
ある程度の時間を準備に費やして、誘拐同然にリリーを連れて侯爵領を出る。
そのころになると、リリーは息吹の呼吸法を多少とはいえ使えるようになっていた。
追手は全て斬り捨てることとなった。
共に笑い合い暮らした騎士であっても、斬ることにためらいはない。
弱いくせに私からリリーを奪おうとするからだ。
少し悪いことをしたという気持ちがある。彼らは、リリーに見せないために、寝静まってから襲い掛かってきたからだ。
私の愛するリリーは、私以外からも愛されている。少し、気に入らない。
厳しい修行と共に街から街へ。
良いことも悪いこともあった。
リリーは帰りたいとは言わなかった。時には言ったが、なんとか宥めている。
リリーの書いた無事を知らせる手紙の大半は、飛脚に渡すふりをして握り潰す。時には、追手を撒くために別の街から出すこともあった。
侯爵閣下、お許し下さい。
この命、もって五年ほどでしょう。命尽きるまで、それまでリリーは私のものだ。
世慣れないリリーを連れての旅は、なかなかに大変だ。
旅籠では女児というだけで危険が伴う。
リリーにはそれに対する対処も教えた。身を守るというのは、正しい力の遣い方だ。
とある宿場で、リリーに手を出そうとした男がいた。身なりからして貴族ではないため、丁度良い。
人さらいの男の手首を斬り落とし片足の腱を裂いた。そして、放逐する。ここで殺しても誰からも文句は出ない。むしろ、持ち物を路銀に換えることができる。
本来はそうするべきだが、剣の達人であるのだから追剥じみた真似はできない。仕置きで止める。
それに、あの男が惨めに野垂れ死ぬのは当然のことだ。生き延びたとしても、地獄であろう。私のリリーに触れようとしたのだから、温すぎるほどの報いである。
リリーに格好の悪い所は見せられない。
宿場ではついつい甘やかしてしまう。
食べ物を与えてしまうのは悪い癖だ。
この子は美味しそうに食べる。
傭兵の母娘に見られることもあるほどに、リリーは懐いている。たとえ、顔かたちが違い、髪の色まで違っていても。
修行を続ける内に、形になってきた。
かつて、私が頭を叩き潰した師のやり方は、多数に教えて覚えられない者を間引くものだった。リリーにそんなことはしない。
できないことは、何度も繰り返して覚えこませる。
私ですら、正しい形を得るのに長い年月をかけた。模倣で良い。足りていないのは実際に斬ること。
隊商の護衛として雇われた際に、リリーに一人与えた。
野盗が出るのは知っていた。商人が通行料を払う前に挑発し、一人斬る。そうすれば、思っていた通りの戦いとなった。
騎士崩れや兵士崩れであれば危険もあったが、食い詰め者が集まっただけの野盗である。弓持ちを最優先で斬れば、危険はなくなった。
十人いても負けはしない。
リリーに与えたのは、農民の息子が棒を持ったにすぎない少年であった。
身体に力が入りすぎている。さあ、いつもの練習と同じように。
リリーの性質は、戦いの中で熱を帯びて狂うものだ。石の如く冷たい私とは違う。さあ、斬るのだ。中にある力を解き放ち、肉の塊に変えてしまえ。
どうせ、価値の無い命だ。リリーの糧となれれば、そこに価値が生ずる。だから、さあ、その頭に打ち込みなさい。
手すら出せないか冷や冷やされられたが、なんとか打ち倒してくれた。
リリーは優しくて良い子だ。
野盗の命を奪うことをためらってしまうほどに優しい。
仕方あるまい。貴種として蝶よ花よと育てられたのだから。
人が難しいなら、怪物も斬らせなければ。
それから帝国領内を周り、最後は山に行きついた。
ここに住む山の民に貸しがある。
追手がここを見つけることはないだろう。
人の住んでいない場所に腰を落ち着けることができた。
子供のころに修行をしていた場所とは似ても似つかない。あれはシラミの巣だった。修行により与えられたのは痛みだけ。誰かと自分のすすり泣きを子守歌代わりに震えて眠る。
そんなことはしない。
焚火の前で眠るリリー。その隣に私はいる。
いつも、寝静まった後に子守歌を歌う。多分、もう子供じゃないとリリーは言うだろう。もう十三歳だ。
リリーはこの暮らしにすっかり慣れた。
野に生える草にも食べられるものとそうでないものがある。青く縦に伸びて、掘り返せば丸い球根のあるものはネギに似て美味い。
蛇も食えるし、猪も良い。
このような深山幽谷であれば、魔物も出る。裂け目から出た魔の類いを狩ることも教えた。動物に憑依するが、息吹が徹れば容易い相手だ。
ここで息吹をリリーは会得しつつある。
息吹呼吸は幼い日から呼吸の訓練をせねばならない。リリーに教えてきたことは無駄ではない。そして、間違っていなかった。
我が師よ、地獄で見ているか。
お前が虫ケラのように扱ってくれた修行は間違いだったぞ。
こんなに才能の無いリリーは、とても遣うようになった。
よく食べて、よく眠り、愛情を注ぐ。
それさえあればいい。私のような憎しみは要らない。はははは。
焚火を見つめながら、笑う。
リリーの頭を撫でた。
髪が痛んでいる。山の中ではそうなるのも仕方ない。身綺麗にしてやらねば。
山の音は寂しいものだ。
街に住む者はこれに風情があるというが、私にとっては寂しさだけしか感じない。自然にあるものと人は調和などしない。
アメントリル派の坊主共が言うような世界の調和など嘘だ。この世は調和などしていない。全ては危険で、それらを避けて潰して出来上がった今があるに過ぎない。
息吹も同じだ。
怪物への憎しみが、訳の分からないものを造った。そして、伝えられている。
私がリリーに教えた息吹は、終わらせるためのものだ。
リリーは誰かに伝えるだろうか。伝えなくてもよい。お前が捨てるりであれば、それは世界にとって必要ないものであったということだ。
夜は過ぎゆく。
あと一年というところか。
時は無情。最後の一年は幸せと共に過ぎ行きた。
まだまだ未熟。
だが、そこらの騎士には負けないというところまでリリーを仕上げた。
この山と一体化するところまでは及第点。
古い言葉では、オブジェクトとの合一ともいうものだが、そのような歴史は何も教えていない。
ただ、魔や外法の類いを打倒せるものであり、それらは自然に反しているから倒されるということだけを教えた。
息吹は理外であり反そのものだ。
理に反し、世界に反し、幸せを反する。
まさに理外外法の極み。
リリーにはそれが似合った。そして、不思議なことに私にはリリーの未来に陰があることが分かった。
半歩を踏み出せるようになってから、私の片足は幽界にあるのかもしれない。リリーの行く先には大きな陰がある。私もそれに覆われて生きた。
陰を斬ることはできない。常の理であればそうだ。
リリー、わたしの可愛いリリー。お前を陰になど好きにはさせん。
死にあって見えるものが定められた未来であるのなら、反の極みにある息吹であれば抵抗できるやもしれない。
『修行を始めて十年、お前がずっと積み重ねてきたからこそ、できるのだ』
ある時、リリーをそう褒めた。
そうだ、あの日、リリーを救ってしまってからの積み重ねだ。
夜中に熱が出る。
内腑全てに石粒は根を張って増えたようだ。
良い頃合いだろう。もっと見ていたいが、これ以上は私も動けまい。
『リリー、今夜は特別な修行をする』
「特別、ですか」
十四歳になったリリーは、いつの間にか敬語を使うようになった。
子供の成長は早いものだ。
『印可を与えられるか、みるのさ』
リリーは驚いていた。
身体を落ち着けておくように、それだけを言って私は私を整えるため、滝に向かった。
滝行というものに意味は無い。
単に何かした気持ちになれるだけだ。今の私がやっても意味は無いだろう。だから、釣竿を持ってきた。
虫を捕まえて餌にして滝壺から少し離れたところで釣りをする。
魚を捕るのなら素手でやるか、銛で突く方が速い。あの子も魚くらいなら素手で捕れるようになった。
釣竿の隣にはドゥルジ・キイリという師から奪った剣がある。
頭を叩き潰した後、当然のように自らのものとしたが、これはリリーに渡そう。
魚はとんと釣れない。
釣りなど、何年もしていない。いつも素手で捕っていた。
リリーには一つだけ克服できない弱さがある。
克服させるには、丁度良いだろう。あんなもので死ぬのは勿体ない。
あ、そうか。
だから、みんな死んだのだ。
幼い日の修行で、その弱みを持っていた者から死んでいった。
最終的には私とジャンだけになる訳だよ。
みんな、同じ境遇の子供たちを蹴落とすことをためらっていた。私とジャンはそれを何とも思わずにできたのだ。
悪いことをしたなぁ。
私もようやく分かった。リリーにそうしたいように、皆、仲間を思いやって、その結果として修行についていけず死んだのか。
随分と、悪いことをしてきたのだなあ。
それも、今日終わる。
青ざめた月の下、リリーはやってきた。
緊張した面持ちで木刀を手にしている。私が何をするか、想像もしていないのだろう。
『リリー、最後の修行だ。私に一太刀でも浴びせれば、お前に印可を与えよう』
私はドゥルジ・キイリを抜いて、鞘を捨てた。
まずは軽く頭を割ってみようか。さあ、かわせよ。
私はゆっくりと剣を振った。
殺す気で振るが、頭には当てない。意識の上では当てているが、最悪でも肩口を落とすようにする。
これもなかなか難しい。殺気だけで相手を怯ませるための芸だ。
リリーは大きく距離を空けるように下がってかわす。
よし、上手いぞ。
それでいい。初手でやれない時は距離をとるのが正解だ。
『よくぞ、この十年に渡り着いてきた』
私のかけた言葉に、リリーはようやく木刀を正眼に構えた。
うん、それでいい。八相なぞやろうものなら、焦っていますと言うようなものだ。
言葉を失っているリリーの右目の下に向けて剣を振る。わざと、浅く斬った。血が流れる。
ごめんな、リリー。痛かっただろう。許しておくれ。
可哀そうに。顔に傷をつけてしまった。こんなことしたくないというのに、でも、しなければいけない。
「なんでっ、こんなことっ」
お前のためだよ。
私の可愛いリリー、私の愛するリリー。お前は私の弟子だ。許されるなら、あのまま私の子供にしたかった。
でもそんなことは言えない。
だから、心にもないことを言う。
『無駄口はよせ。呼吸を乱すな。今の私であれば、お前にも斬れる』
「いやだいやだいやだ。怖い」
『それでも、我が弟子かっ』
挑発するため、そう叫んだ。
あの時、私も本当は怖かった。
師匠は鬼のように強いと思っていて、そして、憎んでいた。私はあの時、憎しみで斬った。
リリー、憎しみでもいい。
斬れ。
命を奪わんとするならば、どれほど愛していても、斬るのだ。
言葉を紡ごうとした瞬間、来た。腹が焼けるように痛む。
咳き込むと、血を吐いていた。
『時間が無いのだ』
私はどうしてか、笑ってしまった。
過去のいつでも時間が無かった。どんな時も、時間などなかった。ただ浪費していただけだ。だから、こんなに惨めだ。
いや、リリーを助けた時は、無い時間の中で正しいことをした。たった一つだけの正しいことだ。
痛みを感じなくなった。身体の中に焼けた石があるようだが、痛くない。
さあ打ってこい。
リリーは私の誘いには応じず、呼吸により息吹を整えていた。
はは、やるじゃないか。
その目、こらえているんだな。私などのために。
そろそろ身体を動かすのも辛い。今なら、私も真面目に斬る気でやれるよ。
『よくぞ、見た』
「はい」
あの時と同じだな。
泣くのをこらえて答える様は、弟子にしたあの日のリリーのままだ。
剣を下段に構え直し、向き合う。
ああ、いい気持ちだ。
呼吸を戻して息吹を練るが、どうにも肺から漏れていくようだ。
リリーは気合の声と共に打ち込んできた。
一合、二合、三合。
いいぞ、上手だ。
息吹は木刀を鉄のごとく変える。それでいいんだ。
楽しくなってきた瞬間に、私は意識せず半歩先にいた。
リリーの首を目掛けて放たれる私の刃。
やめてくれ、リリーを殺させないでくれ。どうしてこんな時に。
どすんという重い感触だった。
私の手に重みはなく、腹に木刀の突きが埋まり、背まで貫いていた。
ははは、凄いな。
どうやったんだ、それ。
わたしの半歩は未来にあるというのに……。
身体から全ての力が抜けている。剣をいつの間にか取り落としていた。
ああ、そうか。
もう使い果たしていたのか。私に未来など無かったから、斬れなかったのだな。
よかった。
かみさま、ありがとう。
リリーが泣いている。
幼い日のように、小さなリリーのぐずる声が聞こえた。
もうよく見えないが、分かることもある。
まだ、声は出せる。
私は、お前に会うために産まれたのだ。
お前の前には様々な運命が悪意と共にやって来るだろう。だが、その全てを倒 せるだけのことを教えたつもりだ。
私は死して故郷に帰れる。リリー、お前に会えてよかった。
運命を憎んでいたよ。寄る辺ない世界で、ただ一人……。
リリー、幸せにおなり。そのために私の命はあったのだ。
死に際に憑き物が落ちた。
我ながら、侯爵家の令嬢を誘拐するなど、正気ではない。
だというのに後悔は無かった。
今は、とても安らいでいる。
わたしにも、生きた意味が、価値が、あったよ。
これで、帳尻は合った。
憎しみも、痛みも、全てはこのためだった。
幸せにおなり、リリー。
追憶が終わる。
闘技場へ向かう足取りは思うより軽い。
カリラは、あの子は驚くだろうなと、想像して浮いてしまった笑みを噛み殺す。
どんな子に育ったのだろうか。
どれだけ強くなっただろうか。
噂に聞く通りであれば、あの子は道を誤っているかもしれない。
いや、それは無いだろうな。
そうであれば、あのシャザという女が許さないだろう。それに、そうであったら二人の男たちがあのように死ぬものか。
毒蛇のような音を立てる独特の呼吸音。
息吹呼吸がカリラの全身に行き渡る。
カリラが闘技場に姿を現した。
次回、第三戦 決着




