逃げなさい
私は哀れなアデリーナ様の為にお水を出してあげました。滝のように水を絶え間なく魔法で出してですね、アデリーナ様が両手で受けて顔を洗うのです。手っ取り早く顔に水をぶつけてやってもと思いましたが、更に怒り心頭にさせる意味は御座いません。
私と同じく、今日のアデリーナ様は黒い巫女服姿でして、その懐からハンカチを出して濡れた顔を拭きました。それから、また水でバシャバシャ顔を洗います。
丹念というか病的な執拗さですね。そんなに汚くないですよ。私の唾液ですから。
なお、観戦しているギャラリーはまだ寄って来ません。アデリーナ様が敗北宣言していないので、まだ戦闘中なんですよね。きっと、そういう解釈です。
しばらく待ちまして、ようやく満足されたのか、私を睨みながら女王様は口を開かれました。
「生まれて初めてで御座いますよ!」
「負けたのがですか? ご安心ください。敗北が成長に繋がるのですよ」
「違いますっ! 唾を吐かれるなどという下衆な行為をされたのが、で御座います! 決して負けていませんしっ!」
「もう許してください。負け犬の遠吠えは聞くに耐えられません。笑いを噛み殺せないんです」
「……メリナさん、今から本気で殺り合う?」
マジですか? いやー、からかい過ぎちゃいましたね。話題を変えましょう。
「アデリーナ様、そんな戯れ言よりもヤナンカですよ、ヤナンカ。ほら、アデリーナ様の足裏がくっさくっさになった件について説明を貰いましょう。ほら、早く」
「最近は屈辱の日々で御座います。この足の呪いも早く解決しなくてはなりませんでしたね」
「お労しやですね、アデリーナ様」
「ふぅ……。腹立たしいですが、もう良いで御座います。暴力ではメリナさんに勝てないと認めましょう」
暴虐の女王が何を言っているのやら。私こそ、あなたの暴政には手も足も出ないですよ。
「うぉーー! 巫女よ! 巫女よ! 我らの勝ちであるか!?」
サルヴァ、うるさい。
でも、それを機に大歓声が上がります。
その喧騒の中、アデリーナ様が私にだけ聞こえるように言います。
「ヤナンカの場所は分かりますか?」
「いえ。魔力は感じませんよ。勘違いじゃないですか?」
二人して空を見ます。いつの間にか雲が厚くなっていました。今晩から雨かな。
「どの辺りですかね。あっ――」
雲が広がっているにしろ、異常な速さで周囲が急激に暗くなって来ました。戦いで血を失い過ぎて気が遠くなるような感覚にも似ていて私は動揺します。
間を開けずして、夜、しかも月もなくて真っ暗な深夜の様に何も見えなくなりました。
「メリナさん!」
「はいっ!」
すぐに照明魔法。
この戦場全体を煌々と照らすことは流石に不可能ですが、少なくともこの場では顔を判別できる程度には明るさが戻ります。
続いて、特大の雷鳴が轟きます。曇天でしたので落雷があっても不思議ではないかもしれません。でも、その稲光は私のすぐ傍から迸ったのです。
お母さんです。お母さんが空へと魔法を放ってくれました。
「メリナ、ダメ! 逃げなさい!」
お母さんが警戒心マックスの声で叫びました。これは村にいた頃、森の中を探索している際に、未熟だった私では手に終えない魔物が現れた時と同じ声でした。
「無論、戦うので御座いましょう? メリナさん」
「はい」
「それでこそ、私の友人で御座います」
唾を顔に吐き掛けても友人呼ばわりのアデリーナ様は本当に友達が少なくて困っているのかなと思いました。
異変は続きます。兵士たちがバタバタと倒れ始めました。ざっくり見るに、魔力量が少ない諸国連邦の人達が多いです。
でも、王国側の人が無事という訳ではなく、彼らも時間が遅れただけで同じ様に地に伏せていきました。
地中に体内の魔力が吸われているからです。私の体からもゆっくりとですが、徐々に魔力が減っているのが分かります。
「メリナさん、空を飛びなさい!」
「いや、無理ですよ。無茶を仰らないで下さい」
「その服を作ったみたいに羽を背中に生やせば良いと思いますよ」
「どんな化け物ですか。いくら私でも無理は無理です」
ここは最も信頼できる人に頼むべきでしょう。
「お母さん、ヤナンカっていう魔族の仕業なんだけど、どの辺りにいるか分かる?」
「メリナ、逃げなさいって言ったのに。もう、本当に大きく強くなって……。魔族は雲の上。何だか魔力を練ってい――」
その瞬間、お母さんは私の背後を取り、更に巫女服の襟首を握り、力強く空高くへと私を投げたのです。
余りに突然のことでして私は声も出せずに飛んでいました。あっという間に私が出した照明魔法の光球を通り過ぎます。
「ギャハハハー!! 風よ、風を感じるのっ!! イヤッホーーーーッ! 私が風なのよっ!! 疾風よ!!」
アデリーナ様の叫びでした。魔力感知で察するに彼女もお母さんに投げられたようです。
乗り物を運転するアデリーナ様はエキセントリックな思いの丈を発散されるのですが、今のを聞く限り、乗り物じゃなくてスピードに興奮していたのかもしれませんね。
しかし、解せません。お母さんは何の目的でこんな事をしたのでしょうか。ヤナンカの所に行くのなら、私でなく最強であるお母さんが行った方が効率的です。
スピードが弱まったところで、魔力を宙に固定化して透明な足場とします。次いで、遅れてやってきたアデリーナ様の腕を取り、私と共にそこに立ちます。
「ごほん。……メリナさん、ヤナンカに近付きましたね」
「咳払いで私の記憶が消えるとでもお思いですか? 楽しそうでしたね、アデリーナ様」
ヤナンカがその先にいるという雲の高さには当然ながら届いておりません。でも、微かに照らせれている地上の人達は本当に小さく見えていまして、落ちたら即死だなって思いました。
あっ……。
とても大きな魔法陣が、先程まで駆け巡っていた戦場全域に浮かび上がります。オレンジ色に光る複雑な記号や文字みたいな幾何学模様が円形に幾層も並び、やがて回り始めます。
私が出した照明魔法よりも明るく、暗い中に浮き上がったそれは、幻想的でも有りました。
魔法陣の大きさは魔法の威力に比例すると聞いた事があります。では、その見たこともないサイズの魔法陣はどんな破壊力を持っているのでしょうか。お母さんはこれから逃すため、私を放り投げたのだと感じました。
「アデリーナ様、メリナ様。お元気そうで何よりです」
突如、後ろから声を掛けられました。ショーメ先生です。彼女も異変を感じ取り、手っ取り早い逃げ場所として、転移魔法でここへ来たみたいです。
「クリスラは?」
「……すみません。自分自身で精一杯のタイミングでして。クリスラ様ならきっとご自分で対処されると信じております」
「ショーメ先生、何の魔法か分かりますか?」
「魔法陣を解読します。お待ちください」
ショーメ先生がじっと地上をご覧になられます。その間、私は暇ですので、雲の上まで続く階段を作製していました。
私、良いアイデアを思い付いたのです。たまに透明な足場を作って戦闘で使っていましたが、それを応用すれば、階段になると。飛べない私でも高所にいるヤナンカの傍へと進めるのです。
ちょっと楽しいです。目には見えませんが、手摺なんかも用意して、オシャレな感じに装飾も付けてみましょう。
「メリナさん、便利で御座いますね」
「えぇ。結構な魔力を使うので感謝して下さいよ」
「ほんと、化け物よね。そうじゃなかったら、神みたいで御座います。あっ、戯れ言ですよ」
「知ってます。神は聖竜様だけですから」
「その心掛けはよろしい。私より上位の存在など、実際に居れば粉砕致します」
……いや、私は聖竜様を神だと言ったのですよ。間違いなく最上位の存在なんですけど、聖竜様は。
戦場の一点から白い閃光が虹のような軌道で上がりました。
「何ですか、今の?」
「以前に見たことが御座いますね。場所的にも巫女長ではないかと思います」
あぁ。確かに。王都で見ましたね。巫女長の高速移動魔法ですか。あの時はブラナンが巨大な鳥になっていた時でした。巫女長が王城から脱出する際に使われていましたね。物凄い加速で王城の一部が損壊したんです。
奇妙だった光に興味を失くした私は階段作りに戻ります。
「アディちゃん! 無事だった!?」
ん? お前も来たのか、フロン。
転移魔法ってやっぱり便利ですねぇ。ショーメ先生に続いて、こいつまで来ましたよ。
「えぇ。そこの下賎な娘にきったない唾を吐かれましたが、無事で御座いますよ」
「マジで!? えっ! そういう穢すプレイ!?」
どんなプレイだよ。私の想像力を越えています。
「アデリーナ様、質問です。このバカ、落として良いですか?」
「許可を出したいところですが、戦力が惜しいので、渋々ながら却下致します」
「魔法陣の解析、終わりました」
ショーメ先生の言葉です。頼りになります。意外に万能なんですよね、この人。賢いモードのエルバ部長並みに便利です。
「細かいところは分かりませんが、広範な魔力種に対するアンチマジック、吸収した魔力を利用しての魔物創造、生物に対する意識障害。主な効力は以上です」
「アンチマジックですか? 私も巫女長も魔法を使えていますよ。ほら、足場も有りますし」
「メリナ様達は異常ですから」
「えー、ショーメ先生だとか、フロンも転移してきたじゃないですか」
「私は特別ですから」
「なら、私もよ」
ぬけぬけとよく言いますね。
地上では何かが蠢き始めました。ショーメ先生が仰った魔物創造の魔法が発動したのかもしれません。
無事だった者が応戦する、剣戟の音が聞こえてきました。
どんな魔物か分かりませんが、地上にはお母さんを筆頭にアシュリンさん夫妻、オロ部長、デンジャラスさん、ガランガドーさん、ミーナちゃん、あと、おまけで剣王と、剛の者が揃っております。ニラさんやグレッグさんみたいに弱い人もいらっしゃいますが、戦場に立ったからには模擬戦であっても、死の覚悟はされているでしょう。
だから、私の助けは不要です。
「では、メリナさん。先導を宜しくお願いします」
アデリーナ様の指示に従い、私は自分で作った透明な階段に一歩を踏み出しました。




