パン工房の内外にて
「もう……行くのか?」
無口なモーリッツが私に確認します。彼もパン工房の一員で私の仲間でした。
「メリナさんよぉ、俺達ゃ、感謝してるんだ。ずっと居てくれて構わないんだぜ」
「ダメよ、フェリクス。メリナ様は忙しいんだから、世界平和のために毎日、お祈りを頑張っておられるのよ」
……祈ってないです。世界平和はともかく、聖竜様へのお祈りも欠いております。ハンナさんの中で私の評価が過大でして、嫌な汗が出ますね。
「メリナ……楽しい?」
こちらは兎の獣人であるシャプラさんです。まだ12歳の子供です。長い白い耳が頭の上に生えています。獣人差別の激しい王都では苦労なさいましたが、今はモーリッツが義父的な役割をしていて、一緒に住んでいると聞きました。どちらも口数が少ないので、静かな家庭なんでしょうね。
「えぇ。毎日楽しんでおります。今日も皆と会えて嬉しいですよ」
「良かった……。メリナ、そうだったら私も嬉しい」
シャプラさんは清純な心をお持ちですので話していると、私もアデリーナ様に汚された精神が浄化されますね。心の洗濯です。
「メリナお姉ちゃん、もう行くって」
ミーナちゃんが工房の外から入ってきて私を呼びに来ました。
「分かりまし――」
「待ってくれ、ボス。ビーチャがもう少しで下りてくる」
デニスの言葉です。彼はこのパン工房と店舗の責任者になっているそうで、皆を取りまとめる役目です。大家族と言うか、彼は11人兄弟でして、また、その子供達もそれぞれ10名います。軍隊の小隊よりも多いです。
そんな環境なのでリーダーシップが育まれ、しっかりしているのでしょう。
彼が言及したビーチゃはバカ野郎です。学も無いし、何も考えていないヤツです。パンの試作で、捏ねるときに酒を入れようなんてしたことも有りましたね。
しかし、あのバカは魚のパンを開発しました。天才とバカは紙一重なのかもしれません。マイアさんが転移の指輪の制作者を「バカなのに天才」と評されましたが、ビーチゃもそうなのかもしれません。
彼は今、2階で何かを考えているそうです。特に話すこともないし、お仕事の邪魔をするのも悪いので、私は彼が下りてこなくても良いと伝えていました。
ビーチゃを待つ必要はありませんね。ミーナちゃんか私を呼ぶ声もしますし、もうお暇しましょう。
「もう用は終わりましたか?」
マイアさんが聞いて来ました。
「はい。それでは、暗部を完全破壊しに参りま――」
閉じたはずの扉が勢い良く開かれました。
「ボス! 水臭いですよ! この俺の素晴らしいアイデアを見てください!」
「さっさっとして下さいよ。あと、恋人のチェイナさんとはうまくやってるんですか?」
「チェ、チェイナの事が先に来るんですか……。いや、もうすぐ結婚するんです。お陰様で順調ですよ」
「何よりです」
「じゃぁ、このパン、どうでしょうかね? ボスのご意見を貰いたいです」
……全く、私は生粋の天才パン職人であることは自明ですが、まだ私を頼るのですか。ビーチャも早く一人前になってもらいたいですね。
彼が出してきたのは縦に丸めた紙でした。何かを書いたものでしょうね。ビーチャがそれを広げます。
「見てください! ボスの顔を象ったメリナパンのアイデアです!」
そこには私の似顔絵が書かれていました。意外に私に似せて描けています。正直なところ、サブリナの絵よりも遥かに上手でして、才能の無駄遣いを感じました。
「目は豆を、口には苺ジャム、髪には麦酒の酒粕と塩を混ぜた物を使います」
「何ですか? その最後のヤツ?」
「デュランの特産物なんですよ。真っ黒で臭いですけど美味しいですよ」
「いや、私の髪が臭うみたいで不快なんですけど」
「そんなの気にし過ぎですよ。……あれ? 皆さん、お久しぶりですって、言っても覚えてないか。会話はしませんでしたものね」
ビーチャのくせに記憶力はあるみたいでね。私の後ろにいたマイアさんとかが見えたのでしょう。
……ん? ビーチャが会った事がある人なんかいましたっけ?
聖女だったデンジャラスは姿格好が大きく変わってほぼ別人ですし、身分が違いすぎてビーチャは会ってないはずですし、デュランに住んでいないマイアさんとミーナちゃんは論外です。残りはショーメ先生だけですが、ビーチャは「皆さん」と言いました。
「ほら、ボスが石舞台の上でアデリーナ陛下と一騎討ちしたことかありませんでしたか? そこでメリナ様の応援団長をしていたの、僕なんですよ」
は? そんなの全く記憶にないです。
バカが進行していますね。もう現実と夢の区別が付かなくなっていますか? 回復魔法でも戻らないくらい重症なのかもしれませんね。
「へー、よく記憶が残ったわね」
マイアさんが感心した声を出しました。それで私は察しました。
……マイアさん、何らかの精神魔法を掛けましたね……。それが私になのか、ビーチャになのかは知り得ませんでした。
「あれだけ盛り上がったんですよ。忘れる訳ないです! あっ、でも、工房の奴らは誰も知らないっつーんですよね。夢じゃないと確認できて良かったです。ボス、メチャクチャ、極ってましたよ!」
「あなた、魔法耐性が良いのかもね。磨けば光るわよ。どう? 鍛えてみる?」
いきなりのマイアさんのスカウトが始まりました。
「いやー、良いです。俺、今のままで満足してるんで。何をやってもボスには勝てないですし」
「……そこと比較すると何をしても誰もがダメになるわよ。でも、分かりました。私も無理強いしません」
「すみませんね。あっ、解説してた人もいるじゃないですか。メチャクチャ慣れてましたよね。また、機会があれば解説してくださいよ」
ビーチャが見付けたのはパットさんでした。デンジャラスの聖女時代の祐筆です。どこから湧いたのでしょうかと思うくらい、唐突に存在していました。
「えっ? うん? あー、聖女決定戦の時かな。誉めてくれて嬉しいよ。あの時に陛下は居なかったと思うけどね」
「うし! じゃあ、僕、戻ります! ボスも暇になったら、また遊びに来てくださいね。メリナパン、完成させておきます!」
爽やかな笑顔を残してビーチャは工房へと戻りました。何だか、完全に更正されてるなぁ。私の教育者としての才能に恐れ慄いてしまいますよ。やがてサルヴァもあんな爽やかになるのかもしれません。
「快活な人ですねぇ。あっ、メリナ様、ご無沙汰しておりました。パットです。久々にフェリスさんを見たんでご挨拶していたところでした」
完全に存在を忘れていました。デュランの知人と言えばパン工房の人だけだと思っていましたが、この人も居ましたね。
デンジャラスも「デュランには大切な人は居ない」って言っていましたから、パットさんの生死は気にしないって事だったのかな。
だとしたら、大変に可哀想な人です。
「フェリスさん、街中でもこんな女中の格好しているんだから目立ちますよね。で、こっちの荒くれ者は誰でしたか? 余り言いたくないですが、こんな人と付き合うと、皆様の品性が落ちますよ」
……それ、見る影もありませんが、あなたが仕えていた聖女様ですよ。
真実を本人の口から聞いたパットさんは青ざめて平身低頭でした。デンジャラスは平静でして、パットさんに詫びを止めるように伝えます。
「いやー、パンを買いに来たんですよね。そうしたら、見事に店舗が無くなっていて。工房の方に事情を聞こうかと思ったら、メリナ様も出て来て――あっ! この子、ミーナちゃんじゃないですか!? えー、腕は完全に治っているんですね。さすがメリナ様ですよ」
よく喋る人ですねぇ。悪い人では決してないのですが、今から戦いに赴こうとしている私達にはそぐいません。
「ノエミさんは見当たりませんが、こちらの方がミーナちゃんの面倒を観ておられるのですか?」
「マイアと申します。以前にもお会いした事はあるのですけどね」
「他の街の方ですね。デュランでは神聖なる名前ですので、皆さん、畏れ多くて名付けない名前なのですよ」
「パトリキウス、こちらは我らのマイア様本人で御座います。言葉に気を付けなさい」
デンジャラスの指摘が入り、パットさんは呆けた顔をしました。しかし、デンジャラスの真剣な眼差しを受けて、震えながら身を地に投げ出し、頭を土に擦り付けます。
マイアさんがすぐに立つように命令しましたが、パットさんは蒼白していました。
「パトリキウスよ、マイア様はデュランの現況を憂いて、この地をご訪問されました。暗部の動き、何か知っていますか?」
デンジャラスはパットさんに尋ねます。
「い、いえ。私はもう教会からは免職されておりますので存じあげません。……クリスラ様がその様な荒れた格好をされているのも関係するのですか?」
「これは趣味です。分かりました。あなたは、ここでメリナさんの友人の助けとなりなさい」
デンジャラスの回答に「えっ」って顔をしましたが、素直に了解して工房へと入って行きました。でも、彼は戦力にならないと思いますね。
少しの沈黙の後、私達は頷き合います。いよいよですね。
マイアさんが魔法を唱えます。何の効果は知りませんが、暗部を攻撃する初手なのでしょう。
「我は幽谷に棲まる徒死すべし瑣尾なる踔然。然りとて、釋奠の果てに呢喃を止めることなし。埒を赧らめたるは、亭々閉ざす篦、営々咥える笄、烱々悶える簪。其は白き木蓮を樵る特牛に願いて、昃く旻を待たん。または雲行く平癒に染まる、碧き百舌の馥郁なり」
マイアさんの詠唱が終わると、急に日が隠れました。慌てて上を見ると、大きな暗雲が空を覆うように広がっていきます。そして、伸びきったところで、一気に薄くなって靄が消えるように見えなくなりました。
「何ですか?」
「魔力感知の豪華版、みたいなものです。今、地図で見たデュランの地域に住む全ての者の動きを私は掴んでいます。……ヤナンカらしき者、確かにいますね」
スゲーです。やはり伝説の大魔法使いです。
「原理はですね、地の魔力は一般的には均等に放出されていますので、上空にメッシュ状の魔力感知システムを構築し、差分を――」
「あっ、そういうの、全く興味ないんで」
私は頭が痛くなりそうだったので、耳を押さえました。




