第25話 刑事とは関わりたくないんだけど
いつの間に眠ってしまったのか。
いつの間に女の体に戻った、いや、なってしまったのか。
マコトはそんな悔しさと虚しさと理不尽さに打ち震えながら、着たままだった男物の服を脱ぐ。
胸と尻の窮屈さに悪戦苦闘しながらTシャツとパンツを脱いだマコトは、あまりの落胆から服に付着する見覚えの無い赤い毛に気がつくことが出来ないまま、日課のジョギングへと向かった。
そして戻ったマコトは身支度を整え、学校へ行くことにする。
性別が変わるタイミングが予想と違っていたらと考えてのことだったが、問題なく――マコトにとっては問題でしかないのだが、とにかくマコトは女性の体に変化した。
それならば休む理由は無い。
そうして通学カバンを手にマンションを出て歩き出し、程なくしてのことだった。
「きゃあああ! だれか! ドロボー!!」
後ろから聞こえてきた悲鳴に振り向くと、マコトの方に走ってくる二人乗りの原付バイクと、その向こうで倒れる中年の女性がいた。
原付の二人はフルフェイスのヘルメットをかぶっているため顔は見えないが、恐らく若い男性。後部座席の男が女性物のハンドバッグを持っていることから、マコトは引ったくりだと断定した。
「どけガキ、轢き殺すぞ!!」
その原付バイクの前に乗る男が、進路上に立っているマコトに対して大声を上げた。マコトは慌てるふりをして周りを見渡すと通学カバンを両手で持ち、原付バイクの進路上から避ける。
そしてタイミングを見計らい、カバンを軽く放り投げる。
「はべらっ!?」
教科書の詰まった通学カバンは、マコトの狙い通りに原付ライダーの顔面を直撃し、そのまま二人組はバイクから投げ出されると、ひっくり返るように背中から落ちていった。
そしてのた打ち回っている男からハンドバッグを取り返したマコトは、駆け寄ってくる女性に渡すべく踵を返した。
「ぐっ……こ、この……クソガキいいい!!」
だがその時立ち直った一人が伸縮型の特殊警棒を取り出し、マコトへと殴りかかってきた。
黒鬼の棍棒より遥かに遅いその攻撃に、マコトはどう対処すれば目立たないかを考えたのち、その場でただ立っていることを選ぶ。
そしてマコトまであと一歩というところで、フルフェイスの男の体が横に吹っ飛んだ。
そこへ伸びる一本の短い足は、横から飛び込んできてフルフェイスの男を蹴り飛ばした、スーツ姿の男のものだった。
そのどこかで見たことのある中年男性が、駆け寄ってきたもう一人の男性と共に引ったくり犯を投げ飛ばし、二人を重ねて完全に制圧するまでそう時間はかからなかった。
「運が悪かったな、現行犯だ馬鹿野郎ども……青木、あとは任せたぞ」
「はい! こら、大人しくしろ!!」
振り返った中年男性を見て、マコトはその相手を思い出した。
事故現場で会った捜査一課の刑事、山崎大介だ。
「お嬢ちゃん、とんでもねえ無茶しやがるな……っと、随分重てえカバンだなおい」
「……ありがとうございます、おかげで助かりました」
マコトは山崎が差し出した通学カバンを受け取ると、代わりに被害者のハンドバッグを山崎に渡し、深々と頭を下げる。
だがその頭の中は、全力で回転している真っ最中だった。
事情聴取や身分証明書の提示要求などされたら、たまったものではないからだ。
「ああ、私のバッグ! ありがとう、取り返してくれてありがとう!!」
そこへ駆け寄ってきた被害者女性が、山崎からハンドバッグを受け取ってマコトに対して何度も頭を下げたが、マコトは優しく微笑んで首を横に振る。
「ごめんなさい、わたしは怖くて逃げようとしただけですの。慌てていたので手が滑って、カバンを落としてしまったら、それがたまたま……ですからお礼でしたら、こちらの刑事さんに」
「あら、そう? ……刑事さんなのね? それならお仕事ですもの、当然ですわね。ありがとうございました。それでは私は急いでいますので……」
「お、おいちょっと待て、怪我は? 被害届を……おおいっ!」
カバンを受け取った女性がそそくさと立ち去ろうとし、山崎がその背中に声をかけたが、女性は早足で駅の方へと消えていった。
どさくさにまぎれてマコトも立ち去ろうとするが、その肩を山崎が掴んだ。
「しゃあねえな……一つだけ説教だ。たまたま俺達がいたからいいようなもの、危ないところだった自覚はあるか?」
「ええ……申し訳ありませんでした」
「お嬢ちゃんがしたことは、良い事だ。それは間違いねえ。だがな……お嬢ちゃんに何かあったら、友達や家族が悲しむだろ? それだけは忘れないでくれ」
「…………っ……」
頭の奥に、重く鋭い痛みが走る。
マコトに何かあったら悲しむ家族と聞いて、マコトの頭にはその顔がうっすらと浮かび上がる。
その顔がはっきりとしてくるにつれて徐々に痛みが強くなり、片手で頭を抑えて痛みに耐えていると、マコトは柔らかいものに顔の半分が包まれるのを感じた。
「マコっちゃん!? マコっちゃん!!」
「……イブ?」
「ちょっとおじさん、あんたマコっちゃんに何したのさ!」
「おいおい、誤解だぜ。それより……救急車呼ぶか?」
顔を上げたマコトの目に、マコトを抱きしめながら山崎を睨みつける、イブの横顔が映る。
少し垂れ気味の目を精一杯に吊り上げ、怒りに染まるイブの表情を見て、マコトはイブの手にそっと自分の手を添える。
「……救急車は結構です。イブさん、ありがとうございます。それとこちらの方は、引ったくりからわたしを助けてくださったんですの」
「うぇ、マジ!? おじさん疑ってごめん! てかマコっちゃん、顔色チョー悪いし! ほら、しっかり掴まって!!」
「……え」
マコトはイブの手に太ももの裏側を押されてバランスを崩すと、肩甲骨から脇の下を支えられ、そのまま両手で持ち上げられる。
マコトは俗に言うお姫様抱っこをされている状態で、今何が起こっているのか必死に考えようとしていたが、イブがぐるんと180度向きを変えたことに驚いて思考が全て飛んでしまう。
「お、おい、せめて名前……おおいっ!」
マコトは通学路を全力で逆送するイブにお姫様抱っこをされながら、呼び止めようという山崎の声を聞いていた。
そして山崎の姿が見えなくなったところでマコトはイブを止めようとしたのだが、必死な形相のイブへ声をかける事が出来ず、マンション前まで連れて来られてしまった。
「すずっちいるのかな? マコっちゃん鍵どこ!?」
「……イブ、落ち着け。大丈夫だから……」
「え、でもマコっちゃん顔赤いよ!? 駄目だって無理したら!!」
マコトの顔が赤いのはお姫様抱っこという羞恥プレイと、全力で走るイブのぶるんぶるんと揺れるおっぱいを至近距離で見せられたことが原因なのであって、決して体調が悪いわけではない。
「ほんと大丈夫だから……ありがとな、イブ。それとごめん」
「え、あ、うん……ダイジョブならいいんだけどさ」
先ほどの引ったくりは、運よく被害者が逃げてくれたため、あのまま現場にいても事情聴取まではされなかっただろう。
だがそれでもマコトは、この姿では刑事と関わりたくなかったので、名前を聞かれる前に連れ出してくれたイブには感謝をしていた。それと本人に伝わってはいないし詳細を伝える気は無いが、謝罪には昨夜覗いてしまったことと、ついさっき至近距離でおっぱいを見ていた件を含めていた。
「だから、そろそろ……降ろしてくれないか……」
制服の胸元から聞こえるタマの笑い声を忌々しく思いつつ、マコトはイブに降ろしてもらうと周囲に鈴鹿や他の人がいなくて良かったと心から思いながら、両手で顔を覆ってしゃがみ込む。
今の姿は女性だが、少なくともマコトの心は男性だ。それなのに女性であるイブにお姫様抱っこされてしまったという事実に、マコトは少しだけ泣きたい気持ちになっていた。
やがて顔の熱が引いたのを確認すると、マコトはのろのろと立ち上がる
「はぁ……イブ、学校へ行くぞ」
「一緒に? 行く行く!」
マコトは山崎達がまだいるかもしれない辺りを避け、遠回りして学校へ向かうことにした。そしてもともと早めに出ていたおかげで時間的にも問題ないと判断し、今にもスキップを始めそうなほど浮かれるイブと並んでのんびり歩く。
道中ではイブから使っている化粧品やアクセサリーの話などを散々聞かされ、そしてマコトは何を使っているのかを散々聞かれた。しかし化粧品やアクセサリーを一切使っていないマコトには、何一つとしてまともに答えられるものが無く返答に詰まってしまう。
「え、マコっちゃんお肌の手入れとかしてないの!? マジでそれやばいって! せめて基礎化粧品くらいは使わなきゃ!」
「基礎化粧品って何だ……こほん。なんですの?」
学校が近くなったためマコトは学校用の話し方に変えてイブに聞くと、基礎化粧品は肌の調子を整えるのが目的で、綺麗に飾る化粧品とはまた別のものらしいと教えられる。
そして紫外線対策や肌の保湿がいかに大切なのかを力説され、マコトもしぶしぶうなずくしか出来なかった。
「化粧品って合う合わないがあるからさ、あたしたくさん持ってるし今度試してみようよ!」
「そのうち……って、泣きそうな顔しないでください。仕方ありませんわね……今度教えてください」
「マジ!? やった、今度マコっちゃんち行くとき持っていくね!」
マコトはこの時点では、基礎化粧品とは顔に塗るものだと思っていた。
だがイブが毎晩風呂上りに全身に塗っているものだと知らされると、昨夜イブが体に塗っていたものの正体を知り納得するが、それ以上に動揺してしまった。
試す際にイブに裸を見せることを想像すると、顔が熱くなってしまったのだ。
「あ、やっぱりキャンセ……いや、なんでもありませんわ……」
だがマコトはイブの悲しそうな顔を見て、断ることが出来なくなってしまった。
放課後の教室でマコトは纏わりつくイブと萌花をあしらっていると、担任の教師に呼ばれた。
イブも同様に呼ばれたため今朝の引ったくりの件かと身構えるが、どうやらそうではないでしい。
「部活、ですか?」
「必ずどこかに所属していなければいけない決まりです。同好会でも構いませんが、朱坂さんはあまり体が強くないと聞いていますので、無理はしないように。願念さんも一学期に手芸部を辞めてから、まだどこにも加入していませんね? ……いつ戻ってきても良いんですよ?」
「そうよ、いぶちゃん真琴ちゃん。もえは手芸部で待ってるわ!」
マコトは担任から部活・同好会一覧の用紙を受け取り、それを上から順に眺めていると、担任と萌花が二人がかりで手芸部と書かれている一点をアピールし始めた。
どうやら二人は手芸部の顧問と部員らしく、マコトはあいまいな笑みを浮かべて流しておくことにする。
マコトは本来なら運動部や武道系に入りたいと思っていたのだが、現状で選択肢に入れるわけには行かなかった。
また、帰宅部が選べないなら適当な部活の幽霊部員になるしかない、と考えつつ一覧を見ているマコトは、同好会の中に一つ気になるものを見つける。
早速見学に行ってみようと思ったが、その時マコトのスマートフォンが振動する。
受信したメッセージの発信者は、加奈。
内容は【草】の一文字。
「真琴ちゃん、何その一文字メッセ。単芝? いたずら?」
マコトはスマートフォンの画面を覗き込む萌花が首をかしげているのを見て、萌花のような人がいるから暗号にしているのだと心の中でため息を吐く。
「おかしなサイト踏んだんじゃない? ヤバくない? マコっちゃんフィルタリングの設定してるよね?」
加奈の特別製フィルタリングソフトの件を、思い出させないでほしいと思っているマコトだったが、その願いは虚しく担任まで一緒になって、フィルタリングの必要性を説かれることになった。
ただしそれは自分が有害指定サイトを閲覧するかどうかではなく、自分が犯罪に巻き込まれないため、タチの悪い男に引っかからないようにするための話だった。
体は確かに女だが、心は男のままだ。
マコトはそう考えながら、おとなしく聞いたふりをしてやり過ごすのだった。




