3
翌日、ラダが二人の年寄りを連れてやって来た。
「よう、カイト」
手を挙げて挨拶するラダの顔からは、以前のような不信と警戒はなくなっていた。あれだけ一方的かつ徹底的にやられて、反感や恨みが残っているかと思えば、それもない。むしろ、ラダの表情には知己に対するような軽さが現れていて、カイトのほうが戸惑ってしまうくらいだった。
革命軍の他のメンバーに配慮して、ということなのかと思ったが、そういう気の廻し方が出来る男でもなさそうだ。カイトの肩をぽんぽんと気さくに叩くラダの態度には、「拳と拳でわかり合った仲だから」というような、ある種の親密ささえ窺える。人のことは言えないが、単純な……とカイトはほとほと感心してしまった。
「医者を連れて来たぜ」
「医者?」
聞き返してから、はっとした。
そういえば、神都の病院からクーの母親を連れ出した時、コウが「ちゃんと医者にも見せる」と言っていたっけ。
「あの約束を実行してくれたのか……」
さすがに神妙な気持ちになって呟いた。
クーの承諾なく勝手に母親を攫っていくような真似をしたことについては未だに少々腹に据えかねているが、それでも、この大変な時に棄民の医者を手配するというのは、誰にとっても易しい仕事でないことくらいは察しがつく。
「コウは口にしたことはきっちり実行するやつなんだ」
ラダが胸を逸らして自慢げに言った。
この男はいつも、自分たちのリーダーへの信頼と憧憬を丸出しにして、隠しもしない。見た目は巨大な熊のようなのに、コウに実直に侍るその姿は、まるで飼い主が好きでたまらない忠犬だ。
もしかしたら、カイトがクーにキリクのことを「あいつに任せておけば大丈夫なんだ」と話す時もこんな感じだったかもしれない。今さらになって、ちょっと恥ずかしくなってきた。
「いけすかない男だけど、率直に言ってありがたいよ。ちゃんと医者に診てもらえれば、クーもほっとするだろうから。コウに、感謝すると伝えておいてくれ」
「あ、いや、伝えるも何もさ」
「医者を二人も連れてきてくれたのか? それとも一人はまた別の用件で来た人なのか? どっちを部屋に案内すればいい? いや、とりあえず二人とも居間に通して休んでもらって──」
見る限り、二人ともかなり年配のようだ。どこから来たのかは知らないが、馬車という移動手段がないこの街で、徒歩の行程は老体に厳しいものがあっただろう。
頭髪も髭も真っ白、というところだけ共通している二人のうち、片方は大柄で背中がしゃんと伸びていたが、もう一人は頼りなく痩せて、さっきから顔も伏せ気味だった。カイトは痩身のほうの老人の背中に手を添え、なるべく優しく居間へと促した。
「あの、いや、カイト、そっちは……」
ラダが慌てて何かを言いかけようとしたが、その声はカイトの耳に入らなかった。いきなり、老人の背中がぶるぶると小刻みに震えはじめたからである。まさか発作でも起こしたんじゃないだろうなと焦った。
「だ、大丈夫ですか。苦しいんですか? 歩くのもつらいようでしたら、俺が抱き上げて運びますけど」
下に向けられた顔を覗き込みながら困惑して話しかけていると、声に気づいたのか、クーが廊下の向こうからやって来た。
「どうしたんだ?」
「あ、いや、クー、医者が来てくれたんだが──ちょっと気分が悪くなったようで」
おろおろして言うカイトを訝しげに見て、クーが同じように老人の顔を覗き込む。無言でじっと眺めてから、呆れたように言った。
「なにしてんだよ、コウ」
「へ……」
カイトが唖然としたのと、老人が噴き出したのは同時だった。
***
二人のうち一人は偽物だったが、もう一人は幸いにして本物の老人で、本物の医者だったらしい。
病人を診るのに付き添いは要らない、とその医者が言うので、他の人間は居間で診察が終わるのを待つことになった。
今までとは違い、クーとコウとラダ、そして仏頂面のカイトの四人が、テーブルを囲んで座る。セルマは台所で火を起こそうと奮闘中だ。
「……それで、その格好はなんの真似なんだよ」
「俺の趣味」
「タチが悪いよなあ。俺も何度も騙されてさ、そのたび、こういう悪趣味なことはするなって言ってるんだけど……」
憮然としたカイトに、コウがしれっとして答え、ラダは苦々しい顔をしている。今もカイトには隣にいるのは弱々しい年寄りにしか見えないが、「バカが三人……」とぼそぼそ呟くクーの目にはそう映っていないようだった。
「クーは洞察力が優れてる、ってのは本当のようだね。俺の変装を一目で見破ったのは、他にはキリクくらいだ」
途端に、クーの瞳に翳が差した。彼女もカイトと同じで、普段はなるべくその名を思い浮かべないようにしているのだろう。
あの顔を頭に描くたび、苦しくなるから。
コウもそのことに気づいたのか、一呼吸分の無言を挟んでから、とん、と指でテーブルを叩き、静かな声を出した。
「──キリクはまだ、生きてるようだよ」
カイトとクーの顔が引き締まる。
生きている、という言葉に安堵すると同時に、まだ、という部分に足元から火が点くような焦慮にかき立てられた。
「あちらも必死だからね。なんとしても情報を得ようとしているんだろう。バーデン司教が何度も宮殿に足を運んでいるのも、おそらくそのためだ。焦っているのはこっちもあっちも同様だということだよ」
どうやってでも「五人目の神女」を見つけたいクリスタルパレス。居場所を知っていそうなのが唯一キリクだけとなったら、あちら側はそれを聞き出すために手段は問わないだろう。
殺しはしなくとも、苦痛を与えることに手心を加えるとは思えない。
連日責め立てられているキリクの肉体と精神が、果たしてどこまで保つのか。
……あれからもう、何日が経過した? 自分たちに残された猶予は、ないに等しい。
「あんたたちは奴を助けたい。俺たちはパレスに攻め入りたい。どちらも急いでいるのは一緒だ。革命軍の士気も沸騰寸前まで高まっているし、すべての準備が整ってからなんて悠長なことを言っていたら、どこかが弾けて穴が開く。この機を逸したくはない。──三日後だ。三日後、一斉に蜂起する」
真顔で三本の指を立てるコウに、カイトとクーは息を呑んだ。
遠くないうちにそうなることは判っていたし、覚悟もしていたつもりだ。しかし具体的な数字を示されたら、「革命」という言葉がどっと現実味を帯びて襲いかかってきて、身の裡が緊張した。
……もう、後戻りは出来ない。
「棄民の街は神都を囲んでいるから、周りから一斉に侵攻すれば、あちらも人手を分散させざるを得ない。こちらの動きは気取られていないはずだから、はじめは動揺もあって上手く機能しないだろう。そこをついて一気になだれ込む。初動が肝心だ」
説明しながら、コウの指がテーブルに円を描く。大きな円の中に、小さな円。その円の真ん中に、さらに小さな円。そのいちばん小さな中央の円を、指で強く叩いた。
「いいかい? 俺とカイトとクーは、その隙を縫って、クリスタルパレス内に侵入する。あちらに反撃する時間を与えないことが重要だよ。まっすぐ宮殿内の『水晶の間』を目指して、反転の力を──」
「駄目だ」
カイトとクーのきっぱりした声が重なった。
「先にキリクを助けに行く」
「カイトとキリクの二人と一緒に水晶の間へ行く」
コウはしばらく渋い顔で黙っていたが、向けられる強い眼差しがビクとも揺らがないのを見て取って、諦めたように大きなため息をついた。
「……了解。先に牢獄へ向かおう」
「おまえは革命軍の指揮をとらなくていいのか?」
「数千規模の棄民だよ、指揮なんて出来ると思う? 一度動きはじめたら、誰もが洪水のような大きな流れに乗るしかない。その流れをなるべく一定方向に導いてやって、他の棄民たちも巻き込むように煽るのが、革命軍の仕事だね。千と万じゃ、ぜんぜん違う」
「……半分以上、成り行き任せということだな」
カイトは腕を組んで唸るように言った。
コウの話を聞いていると、そこにいるのは人間ではなく、流れを作るための大量の水滴のようにしか思えない。
どこかが止まっても、溢れて零れても、全体が流れていればいいということだろうか。
老人の顔をしたコウが、苦笑して首を振る。
「細かい計画なんて、立てても無駄だということさ。どう動くか、事態がどう転ぶかなんて、それこそ神でもないと判らない。天候一つでも左右される。はじまってしまったら、あとはもう運に任せるしかない。……それでも、反転の神女の存在は、勝利のための大前提だ」
コウの言葉に、カイトも沈黙するしかなかった。
反転の力が手に入らなければ、この革命は失敗に終わる。
棄民はその多くが犠牲になり、今よりもさらに苦しい立場に追い込まれるだろう。
数千、数万の命と人生と、この国の未来。
クー一人が背負うには、あまりにも重すぎる。
「……コウ、」
口を開いて言いかけた時、居間の扉が開いた。
医者が顔を覗かせ、「ちょっといいかね」とクーを見る。母親を診終わって、その結果を伝えるということなのだろう。
カイトは椅子から立ち上がった。
「どうぞ、ここに。俺たちは出て行きますから」
そう言いながら、コウとラダの後ろ首を掴んでぐいっと引っ張る。ラダは「わかったわかった」と慌てて叫んでさっさと部屋から出たが、「老人に手荒な真似を……」とぶつぶつ言うコウは背中を蹴飛ばすようにして押し出してやった。
「早くその白々しい髭を取ったらどうだ、見ているだけで腹が立つ」
「なんで。似合うでしょうが」
「まったくこれだからガキは……」
「あっ、バカ、その単語は出すなって! コウが暴れると面倒なんだから」
「ラダちょっと黙っててくれる? この件について、俺はいつかこいつと決着をつけないといけないと思ってたんだ」
「やるかこの野郎、表に出ろ」
「やめろって、この大事な時に!」
三人で騒々しくいがみ合いながら、家を出た。
外の地面を踏んで扉を閉じた途端、コウは顔に乗せていた怒りを綺麗に消し去って、人差し指を唇の前で立てた。カイトもちょっと眉を寄せて、口を噤む。もちろん本気で喧嘩をするつもりなどないことは、お互い承知の上だ。
コウはちらっと扉のほうを見て、抑えた声を出した。
「……あのさ、あんたは気づいているかどうか知らないけど、クーのお母さん、どうもあまり良くないね」
「良くない……というと」
嫌な感じで鼓動が跳ねる。
クーの母親はほとんど寝間着姿で寝ているため、カイトはあまりその姿をじっくりと眺めたことはなかった。食事を運ぶ時も部屋の前で渡して、室内に入るのは遠慮していた。だからどんな様子なのか、今ひとつ把握していない。
時々話す声が聞こえるし、顔色もそんなに悪くはないと思っていたが──
「ひどく繊細な人らしいからな。やっぱり環境が変わったのがいけないんだろうか」
考えながらそう言うと、コウは首を横に振った。ラダはなんとも複雑な表情で口を曲げている。
「俺が言ってるのは、残念ながら、精神的にどうこうって話じゃない。あれはね、たぶん、病持ちだよ。それも相当、深刻な」
「病気?」
カイトは驚いて声を上げた。それから急いで口を閉じる。
自分も閉じられた扉を一瞥してから、声を潜めた。
「でも、そんな風には……咳とか、発熱とか、特に病気の兆候らしきものはないぞ。もともと弱々しい感じの人だから、そう思えるんじゃないか?」
「うん、俺は医者じゃないから、断言できるわけじゃないんだけどね。まあ……なんていうか、勘かな。何人もそういう人を見ていると、雰囲気で感じ取れるんだ」
「そういう人?」
「死を目前にした人」
コウにさらりと言われて、カイトの全身が凍りつく。
ラダがもじもじと両手を握り合わせ、言いにくそうに口を開いた。
「あのよ、カイト……俺も、コウと同じ意見なんだ。俺の母親も、死ぬ前、あんな感じだったからさ。異様に影が薄くなるっていうかな……ほら、こっちに移動する時、あの人、おまえの馬に乗ってたろ。俺はあの時から、なんかまるで透き通ってるみたいだなあ、と思ってたんだ。そのまま闇の中に溶けて消えていきそう、というか」
「…………」
カイトはぐっと唇を引き結んだ。胸郭が急に硬くなって、心臓を締め上げているような気がする。口の中がいっぺんに干上がった。
「……だけど、そんなに悪いようには……」
「そういうこともあるんだよ。身体の中に悪い塊が出来てね、それがどんどん内部を侵食していくんだ。外側からは判らない。少し前まで元気だった人間が、徐々に食欲が失せるようになって、細くなったなと思ったら、あっという間に息を引き取ってしまうこともある。薬も効かないし、治療法もないから、今のところ、人にはどうしようもない」
「そんな──」
カイトは自分の額を手で押さえて呻いた。
キリクに、神女に、革命。
運命はその上に、「母親の死」までクーに背負わせようというのか。
「ま、絶対にそうなるって言っているわけじゃない。ただ、そういう可能性もあるって頭に入れておいたほうがいい、ってこと。……もしもの時、クーを支えてやれるのは、あんたしかいないだろ?」
「…………」
カイトは黙ってうな垂れた。
その時、いきなり扉が中から開けられた。
一瞬クーかと思ってびくっとしてしまったが、そこから出てきたのはセルマだった。
カイトに目をやって、「こちらにいらっしゃいましたか」とほっとしたように言う。
「どうした? クーに何か」
「いいえ、あの、お母さまのところに温かいお飲み物をお持ちしましたら、カイトさまを呼んでもらえないかと仰られたものですから。……クーさまには言わずに、ということなのですが……あの、どうしましょう?」
困ったように言われて、カイトは思わずコウと顔を見合わせた。
コウは少し肩を竦めた。
「──どうやら、本人も何か思うところがあるようだね。クーはまだ医者と話してるんだろ? 今のうちに行ってきなよ」
カイトは頷くと、重い足を引きずるようにして動かし、その部屋へと向かった。
***
扉をノックすると、あちらから、か細い声で返事があった。
音を立てるのも控えめにして、そろそろと開ける。部屋の中では、ベッドに上体だけを起こしている女性が、
「どうぞ、お入りください」
と柔らかい口調で言った。
近づいていったカイトに、ベッド脇の椅子を勧めてくる。ぺこぺこと頭を下げながらそこに腰を下ろしたら、何が可笑しいのか、クーの母親はくすくす笑った。
「す、すみません」
「いいえ、こちらこそお呼び立てしてしまって。一度、あなたとお話ししたいと思っていたんです。カイト……さん、とお呼びしてもよろしいでしょうか」
「あ、はい、もちろん。ええっと、あの、すみません、今までちゃんと挨拶もせず」
母親のいないカイトは、これくらいの年齢の、しかも触れたら壊れそうな儚げな女性への接し方がどうもよく判らない。しどろもどろになって謝ると、彼女はまた笑った。
ああ、そうやって笑うと、やっぱりクーに似ているな──と思う。
カイトの記憶にあるのは、棄民の街から神都へ行く時、ずっとクーにべったりくっついて不安そうにしていた子供のような姿なのだが、今の彼女はずいぶんと印象が違う。
「私のほうこそ、ちゃんとお礼も申し上げなくて、すみませんでした。あの子がとてもお世話になったというのに」
「いえ、とんでもない」
クーは、と言いそうになって、急いで喉の奥へと押し戻す。この女性にとっての「あの子」は、「ユウル」という名の息子のことだ。
「あの……体調のほうは、どうですか」
遠慮がちに訊ねると、「ええ、おかげさまで、何も問題ありません」とにこやかな答えが返ってきた。さっきのコウの話を聞いていなければ、そうかよかったと安心していたに違いない。
「あなたには、感謝していることをきちんと伝えておきたかったんです。あの子がいると、きっと照れ臭がって邪魔をするでしょうから、今のうちに」
ふふ、と悪戯っぽく笑って、口許だけ笑みを残したまま、真面目な瞳がこちらをまっすぐ向いた。
「──カイトさん、あの子を救ってくださって、ありがとうございました」
真摯な口調で言って、深々と頭を下げる。カイトはたまらなくなって、握った両手に力を込めた。
「……よしてください。俺は何も……いやむしろ、俺はあいつを大変な目に遭わせてばかりで……俺のほうこそ、あいつに救ってもらったのに」
いつでもこちらに手を伸ばしてくれたクー。
時に怒鳴り、時に背中を突き飛ばし、時に腹の真ん中に蹴りを入れて。はっきり言って、乱暴そのものだったけど。
あの笑顔、あの強さ、あの言葉に、ずっと救われていたのはカイトのほうだ。
クーの母親はゆったりとした動作で首を横に振った。
「いいえ。あの子が強くなれたのは、あなたが──あなた方が隣にいてくれたからです。本人も、そう言っていました」
「……あいつが?」
「ええ。とても大事な人たちで、だから二人に恥ずかしくない自分でいたい、二人を助けられる道を選びたい、と」
「…………」
カイトはぐっと奥歯を噛みしめて、目を伏せた。
「──私は本当に、情けない母親でした。ずっと長いこと、あの子を苦しめ、悲しませることしか、してきませんでした。きっと、母親と名乗るのも、許されないことなんでしょう。でも……やっぱり、母として、あの子の幸せを願わずにはいられません。図々しくても、厚かましくても、この先の人生を笑って過ごして欲しいと祈らずにはいられません。ですから、そんな権利はないと知っていながら、どうしても、あなたにはお礼を申し上げたかったのです」
カイトは驚いて顔を上げ、目の前の女性を改めて見つめた。
こちらを見返す瞳は落ち着いた光を放っている。最初に会った時のような不安定さは感じない。どこか空虚な響きを伴っていた声も、今は中身の詰まった重みがある。
今になって気づいた。
……ようやく、夢の中から抜け出すことが出来たのか。
もしもコウの見立てが正しいのなら、身体の中に出来た「悪い塊」が、彼女の虚無まで吸い取ってしまったのかもしれない。
そうだとしたら、クーの母親は自らの命と引き換えに、正気を取り戻したということだ。こんな皮肉な話はない。
「あなたは──」
その先を静かに遮るように、彼女は黙って微笑んだ。
そうか、だからずっとクーのことを「あの子」と呼んでいたのか。そこを明らかにしてしまえば、彼女は謝罪をせずにはいられない。ユウルにも、ククルにも。
でも、クーはそんなことを、これっぽっちも望んではいないと判っているから。
いつから、どうして、どのように目覚めていたのかなんてことも、きっと問題ではない。責めるというなら、おそらく彼女は誰よりも自分自身を責めている。それでも何も言わないでいるのが、彼女なりの精一杯の贖いということなのだ。
すべてを自分の胸に秘め、現実から目を背けずに、ただ黙って、息子の死を受け止めて、娘の自立を受け入れる。
彼女が微笑の裏で、そういう死に物狂いの努力を続けているのが判ったから、それについてカイトが何も言えることはなかった。
「……情けないなんて、そんなことはないです。あなたは立派な母親だと思います。あいつももう、とっくにあなたを赦している」
「ありがとうございます。でも、それもきっと、あなた方がいてくれたからなんです。お二人がしっかりとあの子を支えてくださったから」
「いや……」
カイトは苦笑いして、首を横に振った。
「さっきも言いましたが、俺は何も。……あいつを笑わせていたのは、いつもキリクだったから」
「キリク──もう一人の方ですね」
クーの母親は、目線を宙に飛ばして、何かを考えるような顔をした。最初に会った時、四人で食卓を囲んだ時のことでも思い出しているのかもしれない。
「……カイトさんはご存じないでしょうけれど、あの方は、よく似ているんですよ」
「誰にですか?」
少しだけ、くすりと笑う。
「ユウルに」
思いがけない名前に、カイトは言葉に詰まった。すぐ前にいる女性は目を細め、笑みを深めた。
「賢くて、穏やかで、優しくて、いつも微笑んでいる。そういうところが、とてもよく似ています。あの子も、そんなことは気づいているに決まっていますけど」
幼い頃に失った、自分の片割れ。
クーはキリクに、大好きだった兄の姿を重ねて見ていたのか。
「もちろん、あの子が大事な人だと言うのは、それだけが理由ではないでしょう。キリクさんがキリクさんだから、助けたいと思っている。それは間違いありません。……そしてまた、カイトさんもカイトさんだから、あの子にとっては特別なんですよ」
「特別って」
「……これは内緒だと言われていたんですけど」
クーの母親はくすくす笑った。
「カイトさんとキリクさん、二人とも大事で、二人とも大好きなんだそうです。一人は笑っていて欲しくて──もう一人は傍にいて欲しいと」
「…………」
カイトは何も言わず、また下を向いた。
今度は、赤くなった顔を隠すために。
***
居間に入っていくと、クーとコウだけがいた。
医者は? と聞くと、ラダが送っていったという。クーは何も言わなかったが、テーブルの一点に目を据え、ぼんやりしているようだった。カイトやコウの声も聞こえているのかいないのか、反応がない。
「コウ」
カイトはコウの向かいに座って、厳しい声を出した。
「なんだい」
「三日後、って予定に変更はないんだな?」
コウは口を閉じてカイトを見返した。何を言い出したのかと訝っているのかもしれないが、少なくともその表情に変化はない。いや、というより、おかしな変装をしているせいで、変化があったとしても読めない。
「ないよ」
何にしろ、返事はその一言だけだった。カイトが頷く。
「だったら、今のうちに急いで計画の『中身』のほうを変更しろ。地図は持ってるか?」
カイトの言葉に、クーがようやく顔を上げる。コウはいちいち理由を聞く手間はかけず、懐から折り畳んだ地図を出してテーブルに広げた。
「いいか、ここが神都と棄民の街との境界」
地図上で指を滑らせる。
神都はアリアランテのほぼ中央に位置し、その周りを取り囲んでいるのが棄民の街だ。神都のさらに中央にあるのがクリスタルパレス。この国はパレスを中心点として成り立っている。
神都と棄民の街との境界線に沿って、ぐるりと指を動かしながら、カイトは途中六箇所の点を示した。
「ここと……ここ。この六つの場所に、境界警備隊の武器を保管する倉庫がある」
「──で?」
促しながら、コウの視線はカイトの指先に集中している。
「蜂起時には、真っ先にここを襲うように通達しろ。神都に侵攻するなら、まずはこの武器庫を一つも欠かすことなくすべて制圧するのが先だ。時間を合わせて一斉に動け」
クーが目を見開く。
コウは眉を寄せ、顎に手を当てた。
「……簡単に言ってくれるね。武器庫といっても、あるのは剣とか槍とかでしょ?」
「長銃もある。使い方が少し複雑で、弾を発射するまでに時間がかかるから、あまり実戦向きじゃないがな。下手をすると、撃つ準備をしている間に剣で斬り込まれてお終いだ。しかし距離が離れている場合は、利点がある。剣も槍も届かない位置から相手を攻撃できるから」
「うーん……」
「それから、巨大な砲もある。各武器庫に一台ずつで、こちらのほうが重要だ。なにしろ威力があるからな。これも使い方が少し複雑で一発撃つのにも時間がかかる、という点は同じだが」
「だが?」
「もしもこの武器庫にある砲を、外側──棄民の街に向けて撃ち込んだら、建物が爆破されてとんでもない被害が出るぞ。壁が崩れ、人間なんてひとたまりもなく数十人が吹っ飛ぶ。音もすごいし、恐怖心を抱かせるには十分だ。どれだけたくさん棄民を集めたところで、すぐに気が挫けて四散したら、その後はひたすら大混乱になる。ただでさえ人がひしめいているところに、みんながみんな別のほうを向いて走り出したらどうする? 運と成り行き任せだけじゃ、どんどん死人が増える」
「…………」
コウは難しい顔つきで首を捻った。
「武器庫を抑えなきゃいけないってのはもちろん考えてたけど……一斉に、ということになると」
「時間を置いて順にやっていたら意味がない。砲を一発も棄民の街に撃ち込ませるな、と言ってるんだ。いいか、戦っているのは、一人一人違う未来と人生を持つ人間なんだ。あちらはやられたが、こちらは無事だからいい、なんて考え方はするもんじゃない」
「で……真っ先に武器庫を制圧して、それからどうしろと? 剣や槍はともかく、銃や砲なんて、使い方を知ってる棄民がいるとは思えないんだけど」
「俺が教える」
カイトははっきりと言った。
「何のために、ここに境界警備隊の元副隊長がいると思ってるんだ? 銃の使い方も砲の使い方も、どこからどうやって襲うのが最も効率的かも、俺が教える。文字でも絵でも書いて丁寧に説明してやるよ。ついでに境界警備隊の弱いところもだ。ただし、出来るだけ、殺すな。──いいか、可能な限り、犠牲は出さないという方向で、計画を立て直せ。棄民も、半民も、神民もだ。そのためなら俺はいくらでも協力してやる」
***
それから三人で延々と話し合い、とっぷりと夜が更けた頃、疲れのためか本当に老けた顔になって、コウが家を出て行った。これからほとんど不眠不休で動き回らないと、と嘆いていたが、普段が普段なので、ちっとも同情する気にはならなかった。
クーもぐったりしてテーブルに頭を乗せている。母親のことはセルマに頼んでいるが、本人のほうはずっと飲まず食わずだ。
「今のうちに休んでおけよ、クー」
カイトが言うと、うん……と力のない返事があった。顔を覗き込んだら、その目はまたぼんやりと宙に向かっている。
「──医者は、なんだって?」
「うん……」
カイトの問いにまた同じ調子で返して、しばらく沈黙があった。小さな蝋燭の明かりだけが、テーブルの上でぽわんと灯り、クーの表情をますます心許なく照らしている。
しんとした静けさの中、カイトもクーも何も言わず、時間だけが過ぎた。
そのまま睡眠に引き込まれて、束の間の安寧を得られれば、それはそれでいいかなとカイトが思いはじめた頃、「……あのさ」と唐突にクーが言葉を発した。
「うん」
「オレ、時々、自分が自分でよくわからない時があるんだよね」
「うん」
「自分が何を考えているのか、自分でもよくわからない。愛情と、怒りと、罪悪感と、憐憫と、いろんなものがごちゃごちゃになって、どれが本当の自分の気持ちなのか、見失ってしまうんだ。母さんのことは好きだけど、傍にいるのが怖くなることもある。またオレのことを『ユウル』って呼ぶんじゃないかって、息苦しくなったりする。……そんなに簡単には割り切れないよ。オレはずっと長いこと、毎日毎日、吐きそうなほど苦しかったんだ。あの頃の自分をすっぱり消してしまうことなんて出来ない。だけど──やっぱり」
不意に、クーの声が崩れた。
表情は変わらないのに、ぽろりと一粒、その目から涙が零れて落ちる。
「……やっぱり、母さんがいなくなるのは嫌だ」
呟くようにそれだけ言うと、クーは唐突にぱっと椅子から立ち上がった。
ぐいぐいと顔を腕で拭い、きゅっと唇を結んで、歪んだ笑みらしきものを作る。
「悪い。今はこんなこと言ってる場合じゃないな。目先に迫った大きなことのほうを考えないと。こう見えて、オレは神女らしいから」
冗談めかしてそんなことを言い、くるりと顔の向きを変える。
「じゃあ、おやす──」
それを言い終える前にカイトは素早く手を伸ばした。
クーの細い腕を掴んで引き寄せ、強く抱きしめる。
腕の中で、クーの身体が棒のように固くなった。
背中に両手を廻し、その小さな頭の上に自分の顎を乗せて、痛いほどに押しつけた。
「無理に笑わなくていい」
低い声で囁くと、クーが息を大きく呑み込んだのが判った。
「ごちゃごちゃになって当然だ。おまえは今までずっと、自分の内側にあらゆる感情を閉じ込めてきたんだから。愛して、怒って、申し訳なくなって、気の毒に思う。それでいいじゃないか。それが人間てもんだよ。……今は悲しいんだろ。悲しい時には、素直に泣けばいい」
ずっと、キリクのようにクーを笑わせてやれればどんなにいいだろう、と思っていた。
カイトは彼女の泣き顔ばかり見てきたから、どうすればこれが笑顔になるのかと、そればかり考えていた。
バカだな。そりゃ、笑ってくれたら嬉しい。だけど、泣いたっていいんだ。悲しい時、つらい時、苦しい時は、子供のように思いきり泣けばいい。泣くのを我慢して笑うより、そのほうがずっといい。
だから、カイトはこう願う。
──せめて自分は、ずっと強がって生きてきたクーが、いつでも安心して泣ける場所でありたいと。
「おまえだけに重いものを持たせたりしない。俺も共に背負う。女神の力を与えられたって、クーはクーという一人の女の子だよ。クーが折れそうになったり、潰されそうになったりしたら、俺が支える。俺が倒れそうになったら、おまえが引き戻してくれればいい。頼りないけど、二人なら頑張れる。一緒に考えて、一緒に悩んで、一緒に少しずつ、進んでいこう」
ややあって、小さな嗚咽が漏れた。
カイトは胸に押し当てた頭を愛しげに撫でて、髪に頬を寄せ、抱きしめる手に力を込めた。




