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招かれざる神女(旧「5th」)  作者: 雨咲はな
Ⅸ.天に背きし者
34/50



 その瞬間の、二人の驚いた顔を、キリクはこの先もずっと忘れないだろう。

 ほんの昨日まで同じ場所に立っていた彼らに刃を向け、「殺すために一緒にいた」と明確に口にした。これまでずっと欺いてきたことを突きつけ、神女選定の不愉快な真実をぶちまけた。

 それだけでもう、クーとカイトが、キリクを「裏切り者」と断じて軽蔑し嫌忌するのは、十分すぎるほどだった。

 ──なのに。

 クーはいつものように、こちらに向かって手を差し出してきた。一緒に行こう、と声には出さなくても、嘆願するような表情でそう訴えかけていた。

 カイトは衝撃を受けながらも、キリクの願い通りに動いてくれた。あの状況では、怒りを噴出させて感情のままに反撃してきても無理はなかったのに、そうはしなかった。彼が本気を出せば、あっという間にキリクを倒してしまうことだって出来たのに。

 彼らの目からはキリクに対する信頼は失われず、最後までこちらを案じる色だけを浮かべていた。


 なんて愚かな。なんて滑稽な。なんて哀れな。なんて、なんて……


 キリクがずっと心の奥で恐れ続けていた、こちらを糾弾し、責める言葉は彼らの口からは出てこなかった。

 クーとカイトの眼差しが冷たく凍りつき、これまで確かに育っていた何かが無残にも破壊され、消失していく様を目にすることになるかもしれないという、キリクの心底からの恐怖を、二人はあっさりと覆し、吹き飛ばしてしまった。

 あの時、キリクがどれほど死に物狂いの努力をして無表情を保っていたかなんて、きっと誰にも判らない。


 本当に、君たちは揃いも揃って大バカだ。


 謝罪なんて、出来るわけがない。キリクにはもう、そんな権利さえない。全身に圧し掛かるこの罪の重さ、業の深さは、すべて自分一人だけで被るべきものだ。どんなに苦しくとも、他の誰かと共有するのを望むことも許されない。

 もう顔を合わせることもないだろう。三人で過ごしたあの愛しい時間、築いてきたものは、キリク自身の手で断ち切った。これからの彼らの運命は、彼らが決めて選び取っていくしかなく、キリクはもはやそこに関われる立場にはない。

 自分のための弁解など一言も持ち合わせないキリクは、クーとカイトに伝えるような言葉も何ひとつとして思い浮かばなかった。

 だからただ、心の中で願うだけだ。勝手すぎることは重々承知しているけれど、それでも。


 ……どうか、あのバカみたいに優しすぎる二人に、この先、幸運のあらんことを。



          ***



「逃げたぞ! 外へ廻れ!」

 クーを抱えたカイトが窓を割って外に脱出するのを見届けてから、キリクは後ろを振り返り、宮士たちに向かって命令した。

 屈強な体躯の宮士たちが、さっと表情を険しくして、踵を返し部屋を飛び出していく。バタバタと騒々しく入り混じる彼らの足音の合間、キリクの耳は確かに、駆けていく馬の蹄の音を捉えた。


 小さく息をつく。

 マレたちは、頼んだ仕事をちゃんとこなしてくれたらしい。


 この場所は神殿入り口から離れた位置にあるし、宮士たちが外に出る頃にはもう、クーとカイトの姿は見えなくなっているはず。どこに行ったと慌てているうちに、二人は馬を駆けさせクリスタルパレスの門のあたりまで到着するだろう。

 キリクは顔を上げ、自分も急いで部屋を出た。神殿の入り口には向かわずに、まっすぐバーデン司教の居室を目指す。

 ドンドンと乱暴に扉を叩くと、廊下の先にある閉ざされた石の扉の前に立つ二人の衛士たちが、何事かというように目を剥いた。それどころではないと言わんばかりに、キリクが「司教!」と鋭く呼びかけると、ようやく扉がギイという音を立てて開いた。


「……騒がしいぞ、キリク」

 バーデン司教は、明らかに機嫌が悪そうだった。


 それはそうだろう、彼は「この神聖で清らかな神殿内で」五人目の神女が始末されることに対し、最後まで強硬に反対していた。

 教皇に次ぐほどの高い地位を手に入れて、このパレス内で安楽かつ平和な日々を送ることに慣れきってしまったバーデン司教は、自分の保身が第一と考える、元来小心な人物である。本音を言えば、血生臭いこととは無縁なまま、自分には関係ない、という立場でいたかったのだろう。

 温厚そうな態度だけを表面的に身につけて、司教としてこの神殿に君臨し、神民たちに欺瞞だらけの教えを説いて、見てくれだけの慈悲を振り撒いているうちに、彼はいつの間にか、自分が本当の「聖職者」であるかのような錯覚に陥っていたのかもしれない。


「バーデン司教、『五人目の神女』と衛士が一名、神殿より逃走しました」

 キリクがその耳に口を寄せ、小声で報告すると、司教の顔からサッと血の気が抜けた。


「なんと! と、逃走だと?」

「はい」

「なんと……なんということだ! キリク、そなたがいながらその失態、ソブラ教皇になんとお伝えするつもりだ?!」

 司教は狼狽しきっていた。顔は蒼褪め、今にも泡を吹いて倒れかねないほどの混乱状態で、あわあわと言葉を出す。

 すぐにでも宮殿のソブラ教皇の許へ飛んで行って、こうなった責任はすべて自分ではなくキリクにあると言い立てたい、というように地団駄を踏んだ。


「その件についての叱責は、後でいくらでも。それよりも司教、すぐに追っ手を差し向けねばなりません。こちらの手数が不足しておりますので、神殿内の衛士たちもお借りしたいが、よろしいですか」


 キリクの言葉に、司教ははっとしたように目を見開き、何度も頷いた。

「そ、そう、そうだな。すぐに捕らえれば、問題は」

「ええ、今はなによりも、迅速に事に当たらねば。パレス内では袋の鼠も同然ですが、彼らがどういう行動をとるのか予測がつきません。なにしろ相手は棄民と半民です。我々の思いもしない騒ぎを引き起こすことも考えられます」

「ああ、まったく、だから棄民や半民など、この神殿内に入れたくはなかったのだ!」

 司教は、二人が棄民と半民であることが諸悪の根源に他ならないというように、忌々しげに身を振り絞って嘆いた。神女候補に棄民も神民もない、と白々しいことを口にして澄ましていた仮面は、もうすっかり剥げ落ちている。

「よろしいですか、司教。ここで下手を打つと、パレス内にも疑惑と動揺が広がりかねません。万が一にも『五人目の神女』のことが人の口にのぼり、百年の一度の神女選定の名に傷がつくようなことがあれば」

 声の音量を落としてそう言うと、司教はますます真っ青になった。


 そんなことがあったら、ソブラ教皇の怒りはどれほど凄まじいことになるか。

 ここまで安泰に過ごしてきた自分の地位も立場も権力も、何もかもがお終いだ。


 そのことに思い至ったらしく、膝から崩れ落ちそうになる。その彼を支えるようにして、キリクはその耳元に落ち着いた声で吹き込み続けた。

「ですから、今のうち、すぐにでも事態の収束を。神殿内にいる衛士たちすべてを駆り出しても、早く彼らを発見しなければ」

「む、無論だ。その通りだ。宮殿への報告は後にして、まずは神女捜索に全力を注ぐべきだ」

 がくがくと首を動かしながら、司教が汗まみれで同意する。

 頭の中で素早く動いた計算機が、「宮殿に報告する前に片付ければ、何もなかったことに出来るのではないか」との答えを弾き出したらしい。

 司教が足を踏ん張り、すっくと立つ。大広間で女神リリアナを讃える言葉を出す時のように、朗々と響く声を張り上げた。


「最後の神女候補が、衛士によって攫われた! 神殿内にいる衛士たちはすべて、これを追い、必ず見つけ出すように! よいか、余計な騒ぎを起こすことなく、速やかに探し出すのだ! 神殿の恥となるゆえ、くれぐれも他言は無用! 神女候補を連れ去った衛士は即刻捕縛せよ、生死は問わない!」


 神殿の入り口、あるいは神殿内のあちこちで警護をしていた衛士たちが、戸惑ったように出てきて、互いの顔を見合わせた。彼らにとって、その命令はあまりにも唐突であったからだろう。

 司教はじれったそうにその様子を見て、「急ぐのだ、早く!」と怒鳴るようにして急き立てた。

 よく判らないながらも、衛士たちが神殿の外へと走っていく。怪訝な顔で集まりはじめた神官や女官たちもまた、司教の「そなたらも行け!」と八つ当たり気味の命令が飛んだことに驚いて、それに続いた。


「そなたたちもだ!」

 司教にそう言われて、石の扉を守っていた二人の衛士が目を見開いた。


「我々もですか」

「もちろん、そうだ! 例外は認めぬ!」

「しかし、自分たちはここから絶対に離れないようにとの命令で──」

「それを命じたのは私だ! その私が申しておる、今はなにより神女候補の保護を優先させよ!」


 言うに事欠いて「保護」とは恐れ入る、とキリクは醒めきった頭で考えたが、それを顔に出すことはしなかった。そりゃ、衛士だけでなく神女候補の生死も問わない、とは言えないだろう。

 神女選定における真実、この国の本当の姿を知っているのは、ほんの一握りの人間だけ。

 その歪すぎる状態と、秘密を保持する側に滲む後ろめたさが、こういう非常時に、さらなる混乱をきたすのだ。


 二人の衛士たちは困惑した表情だったが、司教の命令ならば仕方ないと判断したのか、「は」と返事をして、駆け出した。

「僕もすぐ捜索に加わります。司教は急ぎ、宮殿へ」

 キリクの言葉に、司教が目を瞠る。ソブラ教皇に知られないためにこうして衛士たちを使って追わせたのに、何を言っているのか、という顔だった。

「二人が見つかったとしても、すべて上手に隠しきるのは難しいかもしれません。今のうちに、リシャル卿にご相談なさるべきです。あの方はソブラ教皇の信任も厚い。きっと司教のために尽力してくださるでしょう」

「そ、そうだろうか」

 バーデン司教は疑わしげだった。普段、あの男の冷酷さを目の当たりにしているのだから、それも無理はない話である。

「そうですとも。考えてごらんなさい、この状況のそもそもの原因は、リシャル卿の息子である僕です。これが知れたら、教皇の怒りは卿にも飛び火する。子の失態は親の咎だと、責を負わされる可能性も高い。あの方も、この件を内密に取り計らうことには賛成なさるはずです」

 もちろん嘘だ。もしもこれが耳に入れば、あの男は一瞬のためらいもなく、キリクを切り捨てる判断を下すに決まっている。


 もともとあの男にとって、キリクはただの捨て駒でしかない。


「そ、そうか」

 しかし幸いにも司教はキリクの提案を疑うことなく受け入れた。一人では背負いきれない荷物を誰かに預けることが出来るかもしれない、ということに、ホッとしたのもあるだろう。すっかり頼るような目になって、キリクを見上げた。

「では、私はこれから宮殿に参って、リシャル卿にご相談申し上げよう。後は任せたぞ、キリク」

 そう言い置いて、準備もそこそこに、あたふたと居室から離れていく。日頃、運動などろくにせず、赤ん坊が這うような速度でしか移動しない年寄りだから、走るなんてことが出来るわけがない。


 どんなに急いでも、司教が宮殿に辿り着くのは、クーとカイトはすでにこのパレス内にはいない、ということが判明した後だろう。


 キリクは司教の後ろ姿を見送ってから、

「──さあ、僕もぐずぐずしていられない」

 と、呟いた。

 ここからは時間との勝負だ。宮殿が本格的に動きはじめるのが先か、それとも、キリクが事を成し遂げられるのが先か。

 誰もいなくなった空っぽの神殿内で、キリクは迷わず、石の扉へと足を向けた。

 常に見張りを置いて、限られた人間しか通さず、固く封印してあるその扉は、今は寂しいほどに無防備な姿を晒している。

 重い扉に手をかけて、ぐっと押した。



          ***



 扉の向こうは、細い通路が伸びていた。

 窓も灯りもなかったが、扉を閉じても真っ暗にはならなかった。通路の先の角の向こうから、仄かな光が漏れているからだ。通路は直角に曲がっているため、その光はここまで直接射し入ってはこないが、それでも進むのにさして不自由しない程度には明るい。

 その通路は、そんなに長いものではなかった。短い、と言ってもいい。キリクが大股で歩いて、十歩かそこらというところだ。正面に見えるのは壁だけで、そこから通路は右に向かって伸びている。

 靴音を高く反響させながら、キリクがそこを曲がると、すぐに視界が開けた。

「…………」

 思わず、息を呑む。


 その空間の広さは、大広間の三分の一ほどだ。

 天井から色鮮やかな光が入り、床を美しい彩りで輝かせている。

 ──通路から出たほうとは反対の正面奥に、半身の女神像が祀られていた。


 なるほど、ここが大広間の裏側になっているんだな、とキリクは納得した。

 たった一本の閉ざされた通路のみで繋がったその場所は、壁を隔てたあちら側と天井の色ガラスを共有して、誰にも知られぬようにしてひっそりと女神像を恭しく奉っているというわけだ。

 そこにある女神像は、表にある像とは、似ているようで異なっている。



 まるで憎悪を孕んだような、憤怒の表情を浮かべた女神像。

 今にも歯軋りの音が聞こえそうなほどに強く引き結ばれた口許に、優しい微笑などは影も形もない。

 表の女神は救いを与えるように両腕を前へと差し伸べているが、この女神は何もかもを拒絶するように両腕を胸の前で組んでいる。

 一歩前に出た片足は、その場で大地を踏みしめ、進むことに抗い、頑固なまでに立ち止まっているようにしか見えなかった。


「──ごきげんよう、()()()()()()

 キリクは女神像を見上げて、口の端を上げた。



 半身の女神リリアナの、もう半身。

 表の大広間に祀られた女神リリアナの像と対をなして、その裏側に別の女神像があるなどと、一体誰が思うだろう。

 女神リリアナが人に見せるのは、常に前面のみとされている。

 心優しき女神は、決して人に対して背中を向けるような無慈悲な真似はしないから──だって?

 バカバカしい。

 女神リリアナには、()()()()()()()()()()()()、というだけのことだ。


 女神リリアナと、女神アリアナ。

 表と裏、または前と後ろ、または外と中に、それぞれ顔がある。

 彼女たちは後頭部と背が接合しているため、それぞれが反対方向を向き、決して互いの顔を見ることは出来ない。

 二つで一つ、そういう存在。



 神国アリアランテが戴く女神は、双面神なのである。



 女神像の前には、仰々しく台座の上に設置された水晶が、上からの光を浴びて輝きを放っていた。

 宮殿の水晶の間にあるものとは比較にならないほど小さい。いや、というより、この水晶はあそこにある水晶の分身のようなものなのだろう。「本体」から少しずつ分けられて、このクリスタルパレス内の要所要所に据えられているに違いない。

 この場所「だけ」を守るために。

「ご無礼お許しを、女神アリアナ。僕にはどうしてもこれが必要なのです」

 キリクはきっぱりとした口調で言って手を伸ばし、女神アリアナ像に捧げてある水晶を、迷うことなくぐっと掴んだ。




          ***



 キリクは水晶を握りしめ、風のように走った。

 いなくなった二人を探しているのだろう、衛士や神官の姿が流れる景色の中にちらほらと目に入る。誰もキリクを見咎める者はいなかった。

 どうしてこんなことになっているのか、その理由が判らないため、彼らの動きは鈍い。キリクが連れていった宮士たちはこれよりはもう少し機敏に行動しているだろうが、それでもおそらく内心では、逃げた二人はそんなに遠くへは行っていないだろう、と油断している。どこへ逃げたとしてもパレス内を隈なく探せば、必ず見つかるはずだとの侮りがある。だからさほど本気で焦ってはいない。

 一人の衛士が馬を奪われたと言い出すのも、パレス名物である朝の大行列でちょっとした騒動が起こったことを彼らが把握するのも、もう少し先だ。


 ──それまでに、ニーアのところへ。


 宮殿建物の両端には、それぞれ高い塔が併設されている。身分の高い罪人を閉じ込めるためのものだ。

 昔から、そこに入れられると決して誰も逃げられない、と言われていた。その場所は、「目には見えない不思議な力」が働いているからだ、と。

 その力は、「中にあるものを外に出そうとする意図を持った者」には決して扉を開けさせず、あらゆる外部からの物理的攻撃を撥ね返してしまうという。

 宮殿には、そんな話がごろごろ転がっている。理屈の通らない不可解な事柄は、枚挙にいとまがない。だからこの宮殿に居住を許されている第一位神民や、ここに仕える宮士や女官は、そういうことにはすっかり慣れっこだ。

 年数が経るごとにそれは顕著になっていき、何が起こっても、「女神リリアナのお力だ」と簡単に納得するようになる。

 そうして次第に感覚が麻痺してきて、彼らはだんだん、自分の頭で考えることもなくなっていく。女神の力は間違いない、だからそれには逆らわない、疑問も持たない、と変化して、最終的にはただ命令を聞くだけの人形のようになってしまうのだ。

 塔の入り口には二人の宮士が警護に立っているが、彼らは中に入っていくキリクを制止することもなかった。

 彼らには、上のほうから、「キリクは通しても構わない」という許可が出ている。どうせ何も出来ないのだから、好きにさせておけ、とでも言われているのだろう。宮士は従うだけで、それ以上のことは考えない。普段とはまったく違う時間帯、突然訪れたキリクを、怪しむ素振りも見せなかった。


 どうせ何も出来ない。それはまったく悔しいほどに真実だ。キリクはずっと、何もせず、何も出来ず、ただ扉の外からニーアの声を聞くだけだった。

 ──今までは。




 長い階段を駆け上がり、扉の前に立つ。呼吸が乱れて、心臓の音ががんがんと頭の中まで響いていた。

「ニーア、扉の前から離れて!」

 厳しい口調で言いながら、右手で腰の剣を抜き、左手を後頭部に廻して髪をまとめている細い紐を外した。長く伸びた金髪が、はらりと解けて背中にかかる。

 キリクはその紐で、強く握っていた水晶を剣先に括りつけた。水晶が滑るのと、指が震えるのとで、何度も仕損じた。

 もどかしげに舌打ちしながら、焦る気持ちを抑えつけて、ぎゅっと水晶と剣とを繋いだ。


 ……女神リリアナと女神アリアナは、同一にして正反対の性質を持つ。

 二つの極は、互いに引き寄せ合い、反発し合う。磁石と同じだ。それらは両方とも、単体では存在し得ず、必ず両極が共にあって、力を構成し発現させる。

 この扉を封じ、内部への働きかけを阻害しているものが、水晶と同じ力を根源としているのなら。

 両者を正面からぶつければ、その力の方向性を乱し、もしくは狂わせ、たとえ一時的にせよ、磁場を失わせ無効にすることが出来る──はず。


 もちろん、確証はない。キリクにとっても、これは賭けだ。


 しかし、免疫がない分、長い間この土地に蓄積された「負の流脈」に影響を受けやすいクーとカイトが、神殿付近ではまったく平気そうだった。それを考えると、やはりこの水晶の持つ特殊な性質が、あの周辺をある種の真空状態にしている、との推測が成り立つのではないか──


「くそ!」

 勢いよく頭を振って雑念を追い出す。自分らしくもない乱暴な言葉は、きっとクーとカイトから移ったものだろう。

 今はそんなことを四の五の考えていたって仕方ない。もうここまで来てしまった以上、キリクはこの道を進んでいくかないのだ。

 水晶を取りつけた剣を振りかぶる。もしもこの方法が誤りなら、その攻撃はすべてキリクへと撥ね返ることになるだろう。が、この中で怯えて震えているであろうニーアのことしか、今のキリクの頭にはなかった。

 なによりも大事な妹、たった一人の家族。ここが開いて、ニーアが自由になれさえすれば、自分はもうどうなっても構わない。


 これが最後の機会、最後の手段。


 渾身の力を込めて、柄を握りしめる。

 ひゅ、と空気を裂いて、剣を振り下ろした。

 扉に勢いよく剣先と水晶が打ちつけられる。ドン、という重く唸るような音が轟き、床にまで振動が響いた。

 それと同時に、痺れるような痛みが来た。通常の反動とはまるで違う。白い閃光が弾け飛び、強烈な衝撃波が、手と顔に襲いかかってきて、キリクは歯を食いしばった。

 剣の柄を握る手が震える。火花が飛ぶようなバチバチという音はまだ止まらない。大きな何かと何かが、拮抗し、戦い、せめぎ合っている。少しでも力を抜くと、キリクの身体ごと吹っ飛ばされてしまいそうだ。じりじりと後方へ押し返そうとする力を、ぐっと足に力を入れてこらえた。

「ニーア……!」


 どうか、彼女だけは。


 キリクが心の中でそう願った瞬間、ひときわ眩しく光が弾けて激しくなった。

 目を眇め、さらに剣の柄を握る手に力を込める。針のような鋭い風圧が向かってきて、キリクの全身に無数の傷をつけた。

 しかし、それが最後の抵抗だったらしい。

 ふっと唐突に光と風が止んだ。

 荒い呼気を繰り返し、剣を下ろす。たった今まであった、目には見えない圧力が、消え失せているのを感じた。

 どくん、とキリクの鼓動が跳ねる。

 目の前にある扉は、今やどこにでもある普通の扉だった。ずっと長いことこの場を覆っていた不気味で重い空気が綺麗に晴れている。クーの居室に続く扉と、何ひとつ変わりない。

「ニーア!」

 取っ手に手をかけ、思いきり引く。


 ちゃんと開いた。


 キリクの胸の中に歓喜が満ちる。途方もない幸福感で目が眩みそうだった。

 どれほどこの時を待っていたか。これでニーアはようやく解放される。広い世界に出られる。もうどこにでも行ける。

 ニーアは自由になれる。

 五年ぶりに見られるその顔は、どれほど成長して、どれほど美しくなっていることだろう。もう扉越しではなくても言葉を交わせる。この手で触れられる。どれだけキリクがその時を切望していたか。やっと、やっと、やっとだ!


「ニ……」

 しかし、キリクの言葉はそこで途切れた。


 浮かべていた笑みが中途半端な形で硬直する。

 勇んで踏み出した足が動きを止めた。キリクの目は、部屋の中でうずくまる娘に据えられたまま、徐々に大きく見開かれていった。

 なぜ、と呟く。

 自分で意図した口の動きではなかった。キリクの頭は身体と同様、働きを停止してしまっている。その止まった頭の中で、ぐるぐると廻っていたその言葉が、勝手に唇から滑り落ちたに過ぎなかった。

 なぜ……なぜだ。



 ──そこにいる娘の髪色は、カイトを思い起こさせるような褐色だった。



 バカな。ニーアはキリクと同じ金髪のはず。どれだけの時間が経とうと、金色の髪が褐色に変化するはずがない。染めた? なんのために?

 キリクの目は、混乱の極みにあるその状態でも、否応なくそれ以外の事実をも映し出してしまう。

 床に小さくなってしゃがみ込み、ずっと震えながら、泣き濡れた顔をこちらに向けている娘の瞳は金色ではなく、若葉のような緑。

 顔の輪郭、頭の形、唇の位置、鼻の高さ、すべて、キリクがこの五年の間、何度も何度も頭に浮かべていた記憶にあるものと違う。


 絶望的なまでに、その娘の容姿はどこもかしこも、ニーアの特徴を有してはいない。


「も……も、も、申し訳、ございません……!」

 どっと涙を溢れ出させ、娘がその場に手をつき、床に頭をこすりつけるようにして謝罪した。

 それを聞いて、脳をかち割られるような衝撃を受けた。

 この声。この声だけは、ニーアによく似ている。

 いや、違う。


 キリクがずっと扉越しに聞いていたのは、()()()()()()だ。


 眩暈がした。ふらりと足元が揺れる。喉の奥から何かが込み上げてきて、そのまま吐いてしまいそうだった。

 雲を踏むような覚束ない足取りで、一歩一歩、娘に近寄っていく。

 胸に充満する予感に、悪寒が走る。指先から冷たくなってきて、震えが止まらなくなった。

 キリクの顔からは、一切の感情が消えていた。



「……おまえは誰だ」

 まるで地の底から湧いてくるような低い声で言って、キリクは剣先を娘に突きつけた。



「正直に言え。ニーアはどうした。返答次第ではおまえを殺す」

 まったく温度を感じない言い方にも、娘はそこから逃げようという素振りは見せなかった。床に手と頭をつけて、泣きじゃくっている。彼女はずっと震えっぱなしだったが、それを見下ろすキリクの氷のような眼はぴくりとも揺るがなかった。

「ニ……ニーア、さま、は」

 娘は頭を伏せたまま、咽る泣き声の合間に切れ切れの言葉を出した。


「に、二年前、重い病気に罹られて──そのまま、息を」


 今度こそ、キリクの目の前が真っ暗になった。

 残酷な現実に、理解が追いつかない。いや、キリクは全身でそれを理解することを拒もうとしていた。そんなことがあるはずがない。そんなことが起こるわけがない。そんなこと、決して認められない。



 ニーアは二年前、すでにこの世を去っていた、なんて。



 確かに、もとから彼女はあまり丈夫なほうではなかった。すぐに風邪を引いて熱を出し、そのたびキリクを心配させたほど。小さな風邪が、ちょっとしたことで重くなり、ひと月ほど寝込んでしまうこともあった。

 二年前、ニーアは体調を崩した。

 キリクは毎日のようにここに来たが、様子が見られないからどの程度の症状なのかさっぱり判らなかった。扉の向こうから聞こえる、「大丈夫よ、にいさま。心配しないで」と笑う声を信用するしかなかった。注射を打ってもらっているからすぐに眠くなる、という言葉を耳に入れてから、二、三日ほどひどく静かな状態が続いた時も、寝ているのだろうかと思う以外にどうしようもなかった。


 自分は底抜けに、間抜けだった。


 それ以来、扉の向こうのニーアがめっきり無口になったこと。話すのは必要最小限、「はい」か「いいえ」の返事くらいしかしなくなったこと。それもいつだって、囁くような声だったこと。

 考えてみれば、いくらでも不審なことは目の前にあったのに。

 まさかそこにいるのがニーアの偽物だなんて思いもしないで。本当のニーアがとっくに自分の手の届かないところまで行っているなんて、欠片も考えもせず。

 二年もの間、妹の影武者と言葉を交わし、それで満足していたとは。


「──おまえは誰だ」

 虚ろな声で同じ質問を繰り返した。

 びくっと身じろぎして、娘がさらに身を縮める。これ以上下げられないくらい、頭を床にくっつけているのに、申し訳ありません、申し訳ありませんと泣きながら謝っていた。


「わ、わたしは、女官として、ニーアさまのお世話をしておりました。ニーアさまが、ご、ご病気になられた時も、ずっと、そばに……」

「誰に命じられた?」

「リ、リシャル様でございます……!」

「……っ」

 キリクは目を瞑った。

 ──これまでずっと、恨んで、憎んでいた相手だ。キリクは、あの男の考え方もよく知っているつもりでいた。冷酷で、残忍で、自分以外のすべてを見下し、人を人とも思わない。

 でも、甘かった。キリクの想像を上回って、あれは本物の人でなしだった。


 あの男にとって、キリクが駒としての働きさえすれば、この部屋の中にいるのは、ニーアであってもなくても、どちらでもよかったのだ。


「ニ、ニーアさまと、わたしは、声がよく似ているからと……キリクさまには、決して気づかれないようにと……」

 申し訳ございません、とまた呻くように言って、二年の間ニーアの身代わりとしてここに軟禁されていた娘は泣き崩れた。

 もしかしたら、キリクだって、頭の片隅では疑念を抱いていたのかもしれない。病気の後、「人が変わったかのように」喋りもせず笑いもしなくなったニーア。最悪の場合の仮定の一端くらいには触れていただろう。

 しかしキリクはそこから手を離して、見ないようにしていた。長い間一室に閉じ込められていれば精神的に不安定にもなるという理由を見つけて、それに縋りついていただけ。ふとした拍子に浮かんできそうになる嫌な予感を、いつも強引に下まで押さえつけて。

 リシャル卿は、キリクのそういう性格まで読んだ上で、こんなことをしたのだろうか。だとしたら、大したものだ。さすが、ソブラ教皇の側近を務めるだけのことはある。

 キリクの負けだ。

 剣を持つ手が、力なくぶらんと下がる。


「は……」

 唇が歪んだ。


 耐えがたいまでに、胸が空ろになっていくのを感じた。心というものが形としてあるのなら、キリクのそれはこの時、ひびが入って、欠けはじめていたに違いない。

 軋んで、割れて、崩れて、ぽろぽろと剥落していく。

 なんてバカバカしい。なんて愚かで滑稽な。

 愛らしい娘が差し出してくれた小さな手を振り切り、自分を仲間だと言ってくれた誠実な男の信頼まで裏切った。

 そうして何もかも捨ててまで救おうとしていた大事な妹は、もういない。ずっと、いなかった。

 長い時間をかけ、自分が必死でやってきたことは、すべて意味を失った。

 キリクの両手は最初から、空っぽのまま。

 何もない。



「は……ははっ、あははは!」

 キリクは天を仰いで笑い続けた。

 狂おしい慟哭のような哄笑だけが、部屋の中に響いていた。





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