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──モリス嬢は、数多の感情が入り混じった表情で、宮殿内にある「水晶の間」へとやって来た。
その顔に、いちばん大きく現れているのは緊張と不安だった。それと拮抗するように期待と喜びがあり、わずかに怯えと、好奇心と、猜疑心が覗いている。
少し猫背になりながら、視線を巡らせてびくびくと周囲を窺い、自分で自分の身を守るかのように胸のあたりで両手を組んだ格好で、彼女はその部屋へゆっくりと足を踏み入れた。
目を細めたのは、中が暗かったためだろう。
水晶の間に窓はない。照明といえば、壁に設置されたいくつかのランプのみである。
それでも室内全体が薄っすらと明るいのは、床の中央に、淡い光を発しているものがあるからだ。
モリス嬢はそれを見て、小さく「──まあ」と声を上げた。
そこでは、巨大な水晶の群れがぐるりと円を描いて、輝きを放っている。
円の直径は決して大きくはない。せいぜい、その中に人が二人か三人入って立てるか、というくらいだ。
無色透明の結晶体は、何の加工もされていないので、宝飾品に使われるような綺麗な形をしていない。ひずんだ六面体が長く伸び、先端を尖らせている。
中には腰くらいまでの高さのものもある。もっと低いものもある。大きさも、先を向ける方向もバラバラのそれらが、互いに身を寄せ合うように結合して、水晶の山脈を形成し、輪になっているのである。
それはまるで、大きな美しい王冠が置いてあるような眺めだった。あるいは、床から無数の剣が突き出ているかのような、といおうか。水晶はそれ自体が白い燐光をまとっており、艶やかな床にきらきらとした輝きを反射させている。
部屋の中には、数人の人間がいた。
水晶の冠を取り囲むようにして立つそれらの人物の中には、バーデン司教、そしてリシャル卿──キリクの父親もいる。下から発せられる水晶の光によって、かろうじて彼らの顔の下半分だけが、ぼんやりと浮かび上がっていた。
しかし誰も口を開かない。室内は、しんとした静寂に満ちている。
「どうぞ、お進みください」
部屋の入口近くに控えていたキリクがそう声をかけると、モリス嬢は弾かれたようにびくっと大きく身体を揺らした。そしてこちらを見て、非常に驚いた顔になった。
目を大きく見開き、口も丸く半開きになって、キリクの顔を凝視する。
「あ……あなた、どうして、ここに」
キリクは穏やかに微笑した。
「驚かせて申し訳ありません。わけあって、僕はこの場への同席を許されております。お目障りではありましょうが、どうかご容赦を」
丁寧に礼を取って、頭を下げる。キリクのその態度にも口調にも、モリス嬢は戸惑っているようだった。
「で、でも、あなたは、あの棄民付きの衛士なのに」
「それも、理由あってのことです」
キリクはそう言って、にこりと笑いかけた。
「──僕は最初から、『こちら側』の人間なのですよ」
モリス嬢がますます目を瞠る。
「こちら側」という言葉をどう解釈するか、それは彼女の自由だ。キリクはそれ以上の説明をする気はない。
「もしもお望みであれば、あなたの衛士もこの場に呼びましょうか? そのほうが、あなたも心強いことでしょう」
その申し出に、モリス嬢はぐっと唇を結んだ。
きっと、自分付きの二人の衛士の顔を思い浮かべているのだろう。そして同時に、彼らにまつわる不愉快な記憶も。
「……いいえ、結構です」
顎を上げて、モリス嬢はきっぱり撥ねつけた。
「どうせ、あの二人は辞めさせようと思っていたのですもの。彼らは神女の衛士として、まったく相応しくありません。他の者に替えていただきたいわ。わたくしが正式な神女となれば、それくらいのお願いは聞いてもらえるのでしょう?」
「もちろんです」
「あの二人はわたくしに不敬を働きました。神都から追放してやるべきです」
「仰せのままに」
「代わりに、あなたをわたくしの衛士にしてあげてもよくてよ」
モリス嬢の口許は、ひくひくと引き攣るように笑いの形をとっていた。今の彼女の頭に浮かんでいるのは、サンティ嬢の顔だろうか。自分に嘲笑を向けていた相手に、すべての面で優位に立てたという興奮と喜びで、その瞳は正視するのが躊躇われるほどギラギラと輝いている。
「……光栄です」
静かに答えて、キリクはモリス嬢の腕にそっと自分の手を添え、前へと促した。
足を動かそうとして、ふらりと不安定に身体が傾ぐ。クーほど細くはないが、それでもやっぱり頼りない腕が、ぶるぶると震えていた。
──本来、臆病で大人しい性質の娘なのだ。
この場所に来た時点で、もうすでに彼女の小さな心臓は十分に縮み上がっている。先程からの強気な発言は、この場に立つ自分を鼓舞し、支えるためなのかもしれない。
「モリスよ、中央へ」
バーデン司教の声に、モリス嬢はまたビクッとした。
「ちゅ、中央……と、いいますと」
「水晶の円の中へ」
モリス嬢は困惑したような顔で、キリクを見た。手でその位置を指し示すと、おずおずと前に進んだ。
水晶を前にして再び困ったように眉を下げたが、スカートの裾を摘まみ、跨ぐようにしてそろりと水晶の内側に入った。円の真ん中に立つ。
ぽわんと輝く床を見下ろして、途方に暮れるような表情になった。その顔からはもはや期待も好奇心も消え失せ、不安と怯えのみが占めている。この場の異様な空気と、周りの人間たちの不気味な雰囲気が、彼女の心にちりちりとした恐怖を生じさせているに違いなかった。
モリス嬢がその位置に立った途端、まるで反応するように水晶の光がひときわ明るさを増したことも、理由の一つだっただろう。ずっとびくびくし通しだった彼女は、咄嗟にそこから逃げるような動きを見せた。
しかし、その時。
「……モリス、と申したか」
部屋の正面から別の声がかけられ、モリス嬢の肩が跳ね上がった。
重々しい声は、天井から垂れ下がった紗幕の向こうから聞こえる。その幕が視界を遮っているため、彼女のほうからは、そこにいる人物は胸から下しか見えない。
漆黒のローブをまとったその「誰か」は、周囲の暗がりよりもなお、闇色に近かった。
彼は、一段高い場所にある、見事な装飾の椅子に腰かけていた。肘置きに置かれた手の指には、いくつもの精巧な細工の指輪が嵌められている。どれも、モリス嬢は見たことがないような上質のものだろう。いや、イレイナ嬢でさえ、きっとこれほどのものは目にしたことがないに違いない。
なぜならその人物は、この国において唯一、最上で最高の物を身に着けることが許されている存在だからだ。
「ソ、ソブラ教皇……?!」
ようやくそれに気づいたモリス嬢は動転した声を上げ、慌ててその場に跪こうとした。
顔を青ざめさせた彼女に向けて、肘置きにあった手がゆったりと挙げられる。
「よい。そのままで」
重々しい声に、モリス嬢はぴたりと動きを止めた。
震えがさらに大きくなり、その顔はびっしょりと汗に濡れている。
「モリスよ、もう聞いたことと思うが、水晶はひとつ目の役目を授ける神女として、そなたの名を示した」
「は、はい……!」
「これより、女神リリアナの力がそなたに注がれる。身構えるな。疑問を抱くな。受け入れよ。そなたは資格を得た。この上ない誉れであると心得よ」
「も、もちろんでございます……!」
涙を浮かべ、組み合わせた両手をぐっと握りしめる。
その間にも、水晶は少しずつ光を増していた。明るさが徐々に強まりはじめる。
円を描く水晶の群れが、それぞれ輝きを放ち、モリス嬢を囲む光輪となった。
「モリスよ、そなたは他の神女候補と比べ、今ひとつ目立たないほうだと司教から聞いている。そのそなたがこうして最初の神女となるとは、不思議なものよの。そうは思わぬか」
紗幕の下から見える指輪の嵌まった手が動き、肘置きの上で頬杖をついた。
その顔は隠れて見えないが、口調はどこか面白がるような響きを伴っている。すっかり舞い上がっているモリス嬢は、そのことに気づかない。
「ええ、ええ、本当に」
「神女候補の中には、位階が低いということで、そなたを軽んじる者もいたであろうな?」
「ええ……!」
モリス嬢は、大きく頷いた。味方を得たというように、ぐっと身を乗り出す。
「わ、わたくしはいつも、悔しい思いをしておりました! イレイナさまはご自分が第三位だからと、わたくしなど、ものの数にも入らないような扱いをなさるし、ロンミさまは少しばかり頭が良いからって、すぐにわたくしをバカにするような発言をなさって……!」
本当に悔しそうに歯噛みをして、表情を歪める。よほど恨みを募らせていたのか、彼女は今自分がいる場所も状況も忘れたように、これまでの不満を訴え続けた。
──本当は、いつもバカにされることが悔しくてたまらなかったのでしょう?
──自分を苛めた神民に仕返ししてやりたくてしょうがなかったのでしょう?
カイトに投げつけていた言葉は、どれもモリス嬢の心の中にあったものであったのだ。だから、跳ね返ってきた石礫に、自分こそが痛そうな顔をしていた。
「それに、あのサンティという女ときたら……!」
思い出すだけで腸が煮えくり返る、というように、モリス嬢はその名を口にした。
「美人で、取り巻きが多いからって、何かというと、こちらを蔑むような目をして……! ただ男に媚びるのが上手いだけなのに、自分ばかりが世界の中心にいるような大きな態度で、嫌らしい笑いを浮かべて、あんな……あんな女に、」
今や、水晶の輝きは眩いばかりに強烈になっている。
迸る白光が、部屋の中を、モリス嬢を、そこにいる人々を、そして紗幕の向こうの椅子に腰かけた人物を照らし出した。
「今度はわたくしが笑ってやるんだから。神女になったわたくしが、あの愚かな女の顔を醜く歪ませてやる」
だというのに、モリス嬢はまだ、サンティ嬢を罵ることを止めない。何かにとり憑かれたように虚空に目を据えつけて、白い光を浴びている。
掬い上げるような視線の中に、そして気弱で卑屈な態度の中に、これほどまでの鬱屈と執念深さが隠れていたとは、誰も気づかなかっただろう。
そうか、とキリクはようやく理解した。
水晶が神女を選ぶ基準とは何なのか、それは少なくとも慈悲や優しい心根ではないらしい──という疑問は、そもそもまったく見当違いのものだったのだ。
清らかで正しい人間が、神女に選ばれるわけではない。
──水晶は、資質のない者をこそ、神女として選ぶ。
もとから女神のごとき資質を備えている人間は、決して神女になることはない。すでに水で潤っている土地に、さらに雨を降らせる必要はないからだ。
人間に自分の力を分け与えるのが、女神リリアナ。
「持っていない」から、「与えられる」のだ。
「そうであろうとも」
紗幕の向こうの人物は、くっくっと喉の奥で笑った。彼はもう、そこにある侮蔑を、嘲笑を、隠すこともしない。
「であるからこそ、そなたは選ばれた。さあ皆の者、神女の誕生を言祝ごう。……女神リリアナの名の許に」
女神リリアナの名の許に、とバーデン司教が、リシャル卿が、その他の側近たちが唱和する。キリクだけが口を閉じ、沈黙を保った。
──烈しい光の渦が弾けて、モリス嬢の全身を包み込む。
彼女が眩しさのあまり目を閉じ、口を噤んだその一瞬で、あっという間に光の奔流は収まった。
再びしんとした静謐が訪れて、室内にまた暗闇が帰ってくる。モリス嬢は戸惑ったようにきょろきょろと落ち着きなく周囲を見回した。
「……さあ、儀式は終わった。気分はどうだ、神女モリス」
問われて、モリス嬢はますます困惑したような顔になった。自分の両手を出して見下ろし、身体を点検するように視線を動かす。取り立てて自分の身に変化がないことを不審がっているようだった。
「──わたくし」
「心配せずとも、女神リリアナの力はちゃんとそなたの中に注がれておる。誰ももう、そなたをバカにすることはあるまいよ。なにしろそなたは神の一部を受け取った者、これからは位階にも人の世のしがらみにも、何も縛られはせぬ」
モリス嬢は顔を上げて、ぱっと目を輝かせた。頬を紅潮させ、酩酊の表情でうっとりとした笑みを浮かべる。
ずっと劣等意識に苛まれていた身体が、ぶるりと優越感に震えた。
その瞬間、彼女は確かに、すべてに勝った、と思ったのだろう。
「もう一度、そなたのその口から聞かせてくれぬか。他の神女候補とは、どのような人物であったかな?」
「ええ、いくらでもお話いたします、教皇様。イレイナさまは」
モリス嬢は、嬉々として話しはじめた。
「──イレイナさまは、それはもう立派な方でいらっしゃいます。あの堂々とした振る舞い、傲岸にも見える態度、他者を見下す視線、どれもが神女候補に相応しい威厳を備えておられて、わたくし、身震いするほど憧れておりました。お気の毒に、誇り高いからこそ、わたくしごとき位階の低い者が最初に水晶に選ばれて、さぞ不安がっておられることでしょう。ああ、どうすればそのお心を癒して差し上げられるのか──」
流暢に言葉を紡ぎ出した口は、モリス嬢自身の手によって塞がれた。
信じられないというように目を見開いて、その場に立ち尽くす。
紗幕の向こうから、またくっくっと笑う声が聞こえた。
「──ロンミさまは知識豊かなお方で、毅然と背筋を伸ばして本を読まれる姿がそれはもう素晴らしく、わたくしなどいつも物陰からそれを拝見するだけでした。こっそりその本を見てみたのですけど、難しすぎて、とても理解できませんでしたわ。わたくしのように頭の足りない者に先を越されたと知れば、ショックで倒れてしまわれるかもしれません。優しく抱きしめて差し上げなくては──」
小刻みに震える両手で押さえても、モリス嬢の口は勝手に動いて、そこから声を発し続ける。
すっかり血の気のなくなった顔ですらすらと出てくる言葉は、さっき並べ立てていたものとは正反対の、他者に同情し、労わり、慰める、慈愛に溢れたものばかりだった。
周囲からも、失笑が上がった。
バーデン司教は視線を逸らし、リシャル卿は唇を歪めるようにして上げている。
キリクは黙って目を閉じた。
「──サンティさまは、とても美しく気品のある方。わたくし、毎日毎日、あの美貌を羨んでおりました。少しでも近づけるように鏡に向かって念じておりましたけど、無駄でした。だって、人を虜にするあのとろけるような微笑みは、いくら練習しても真似できるものではなかったのですもの。ああ、でもあの方もきっと、ガッカリなさることでしょう。美しさのカケラもないわたくしなどが選ばれて。なんてお可哀想な──」
その目からは涙が滂沱と流れ落ちているが、それでもモリス嬢の口は止まらない。
悪意ある忍び笑いが部屋中に満ちても、他の人間を憐れみ慮る、慈悲深い言葉を吐き出し続ける。
ガタガタと震え、蒼白になって泣いている彼女の姿が、最も哀れだった。
「──クー、さまは、棄民という出自にも負けず、いつも胸を張っていらっしゃって、わたくしは……あっ、い、いつも……じ、自分もあのようにあれたら……あ、あ、あっ、わたくし、わたくしは……あああっ」
瞬きもしないで天井を仰ぎ涙をこぼすその目は、もはや正気の色を失いつつあった。びくびくと、全身が痙攣しはじめている。
もともとそういう気持ちが、モリス嬢の中にまったくなかったとは言わない。彼女は彼女なりに、他の神女候補への畏敬の念や憧れはあっただろう。
しかし、それはあくまで、彼女自身で扱える程度の大きさのものであるはずだった。人は誰もが、そうやって自分で自分を掌握しなければ、やっていけないからだ。
はじめからグラスひとつ分くらいの容量しかないところに、止めどなく水を注ぎ込めばどうなるか。限界を超えたら、あとはもう溢れるしかない。
拒否しても、これ以上は無理だと言っても、容赦なく注がれ続けば、溺れてしまう。
たとえばそれが「善」に位置付けされるとしても、こちらの気持ちとは無関係に押し付けられるのであれば、それはやはり理不尽で、苦痛ばかりをもたらすものなのだ。
女神リリアナの力は、明らかにモリス嬢の小さな器には余る代物だった。
紗幕の向こうから、大きな笑い声が響く。
「──おめでとう。そなたが『声の神女』だ、モリス」
不安を他者から取り除き、慰撫を他者に与えられる、美しき声。
受け取る者によって、これほどまでに歪な形で現れる、女神の力。
モリス嬢はもう、カイトだけでなく、誰のことをも傷つけることは出来ない。
そして、自分の意志のまま、自分の本心を口にすることも出来ない。
「さあ、女神リリアナの力を授かる儀式は終わった。これより、新たな儀式がはじまる」
その声と共に、ふっと水晶の燐光が弱まった。
淡い光が消え、透明な水晶が周囲の闇を映し出す。それが黒い靄のように蠢いて、次第に広がり、濃く深くなっていった。
まるで床から闇が湧き出してくるような光景だった。その闇を吸い取って、徐々に水晶が黒ずみはじめていく。
じわり、じわりと。
濃密な闇の気配が充満し、部屋中を覆い尽くそうとしていた。ランプのかそけき明かりなど、この圧倒的に押し寄せる闇の前では、まったくなんの役にも立たない。
……暗黒だ。
眩い光が消え去り、今度は鬱蒼とした闇が支配する。
キリクはじっとその場に立って、唇を噛みしめた。背中を汗が伝っていく。爪が食い込むまで、拳を強く握った。
「ひ……い、いや」
モリス嬢は水晶の中央でしゃがみ込んでいた。腰が抜けてしまったのか、立ち上がることも出来ないでいる。その彼女に向かって、周りを囲む水晶から闇の触手が伸ばされつつあった。
蛇が床を這いずるように、どんどん迫ってくる。
「いや……いや……こないで」
モリス嬢が幼子のように首を振り、泣きながら懇願する。今や完全に恐怖に顔を引き攣らせ、彼女は後ずさった。しかし後ろからも横からも、その闇はじりりと距離を縮めてくる。
獲物を狙うように。
「あ……あ……あっ」
とうとう闇がモリス嬢を捕らえた。
彼女の震える身体がだんだん黒く染まっていくのを、誰もが息を詰めるようにして見つめている。
足から腰へ、腰から胸へ、胸から頭へと、闇に呑み込まれ、侵食されていく様は、呼吸をすることも忘れるような恐ろしさがあった。
闇という生き物が、神女を喰らいつくそうとしている。
──モリス嬢の全身を、すっぽりと闇が包み込んだ。
さっきの光があっという間に収まったのと同様に、今度も消え去るのは早かった。
一呼吸のうちに暗闇がすうっと薄まり、人の形をした黒い物体が、またモリス嬢の姿として見えるようになる。魂を抜かれたように茫然として、最前となんら変わりない格好で座り込んでいた。
はっはっと喘ぐように息をしている。涙と汗にまみれた顔に、髪の毛がへばりついていた。
スルスルと闇がまた床の下へと沈んでいく。押し潰されるような圧迫感もなくなって、誰もが細い息を吐き出した。
そこはまた、薄暗いだけの部屋に戻った。
「……さあ、これで儀式は終了した。成功だ。素晴らしい。モリスよ、そなたは大役を果たしたぞ」
紗幕の向こうの声は満足そうだった。
「皆も喜べ。新しい栄光の百年のはじまりだ」
部屋の中にいた人々がざわめいた。どの顔も、ホッとしたように笑っている。
彼らはそれから、正面を向いて膝をつき、深々と叩頭した。紗幕のあちら側に向かって、口々に祝いの言葉を出す。キリクもまた、膝をついて頭を下げた。
「──女神アリアナの名の許に」
朗々とした声に合わせて、キリク以外の全員の口から同じ名が出された。
もう誰も、水晶に囲まれて座り込んでいる、哀れな娘のほうには視線を向けもしない。その場に捨て置かれ、自分の喉を手で押さえながら顔を青白くしている彼女を、見ることもない。
その目が、最初は驚愕を、やがて絶望を浮かべはじめても、気にする者はいなかった。
彼女がどんなにそれを誰かに伝えたくても、もうそうするすべがない。口を何度も開けたり閉じたりしても、怒りも、恐れも、嘆きも、訴えることは出来ない。
誰かを罵ることも、悲鳴を上げることも、慰めることも、笑い声を立てることも、何ひとつ。
ただ、掠れたような呼気だけが、虚しく吐き出されるだけ。
顔をくしゃくしゃにして、モリス嬢は大粒の涙をぼろぼろと落とした。
「……っ」
その喉からはもう、泣き声すら出ない。
「果たして、五人目の神女は誰かな、キリク」
機嫌よくかけられた言葉に、キリクは無言で頭を下げ続けていた。
***
宮殿の外に出ると、空が白みはじめていた。
昼も夜も好きではないキリクにとって、闇が薄まり、眩しい朝陽が顔を覗かせようとする、この曖昧な狭間の時間が、最も気持ちが落ち着く頃合いだった。
同じ昼と夜の間でも、これから暗くなっていこうとする夕方は嫌いだ。窓から外を眺めることしか出来ないニーアが、やって来る暗闇を怖がっているのではないかと、不安でたまらなくなる。苦しい夜を乗り越え、明るくなってくると、ああこれでニーアも少しは安心するだろうと思って、キリクもようやく息がつける気分になるのだ。
いつもは。
──ニーアは今頃、どうしているだろう。
ベッドの中で眠っているだろうか。本当は、すぐにでも行きたい。でも、彼女を起こしてしまうことは出来ない。それに、今はダメだ。きっと、キリクの精神状態が正常でないことに気づいて、また泣かせてしまう。
顔が見えないのに……いや、顔が見えないからこそ余計に、ニーアは変化に敏感だ。こちらが不安定だと、ニーアのほうがさらに不安定になる。
だからいつも、キリクはニーアと扉越しの会話をする時には、細心の注意を払っている。話題にも十分気をつけている。話の内容によっては、ニーアを心配させることになってしまうから。
だが、ニーアを不安にさせないような、しかも誰かに聞かれても問題ないような話題など、そう都合よく毎回見つかるわけではない。特にキリクの場合、「人には言えないこと」ばかりが掃いて捨てるほど胸の内に溜まっているので、その中から選り分けて探すだけでも、相当な難事業だった。
結局、身近な人間のことに話が集中しやすくなる。
キリクの場合、カイトとクーだ。
二人がまたバカな喧嘩をしていたとか、カイトの剣の稽古に無理やり付き合わされて迷惑しているとか、クーが茶器を扱う手つきが雑すぎて見ていられない──とか。
つい、あれこれ喋っているうちに、こちらの熱も入ってくる。おおむね「まったくあの二人には苦労する」という話になるのだが、はっと気づくとニーアの返事が途切れていたりして、焦ってしまうこともたびたびだった。
しかし、「ごめんね」と謝るキリクに、扉の向こうのニーアは必ず、いいえ、と答えるのだ。
聞こえないくらいに小さな声で、もっと聞きたいです……と。
もしかしたらそれは、キリクを気遣ってくれてのことかもしれない。しかし、その時のニーアの声には、いつものような悲しげなものは含まれていない。
むしろ、ほんの少し嬉しそうでもある。
顔は見えないけれど──いや、見えないからこそ、キリクにだって感じられる。顔が見えたら、またあの幼い頃のような愛らしい笑みを浮かべていてくれるのではないか、と思える声。
普段はほとんど一言しか発してくれないのに。
もっと聞きたい、と思うほど実のある内容ではない。はっきり言ってしまえば、中身などないに等しい。それでもニーアが聞きたいと言うのなら、きっとそこには何かの理由があるのだろう。
時々、思う。
あの二人のことを口にする時のキリクは、一体どんな声で、どんな口調で、どんな顔をしているのか。
意識して作っている時以外、自分にはそれがよく判らない。
「…………」
キリクは目線を下に向けて、自分の右手をじっと見つめた。
クーは時に唐突に、キリクやカイトの手を取る。
彼女のその行動を意味不明だとキリクはからかうが、本当のところ、そこに何の意味もないわけではあるまい。
見た目よりもずっと大人びて、賢いところもある娘だ。きっと、彼女なりの意志表示のつもりなのだろう。素直ではない上に意地っ張りな面もあるクーが、言葉にはしないだけで。
そこから伝わる体温は、今もまだしっかりとキリクの記憶に残っている。
温かく力強い、自分を引っ張ろうとする手。
……でも。
僕は、君のその手を握り返す資格があるのかな。
薄闇の残る空を眺めてから、キリクはひとつ息を吐いて、歩き出した。
──それでも、立ち止まるわけにはいかない。
(Ⅵ・終)




