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会場には、昨日とは比較にならない程大勢の群衆が集っていた。バスはヴァッケン・オープン・エアへの門を目指して蠢く人々を、避けるように止まったり動いたりを繰り返し、一体誰が乗っているのかとバスを覗き込む観客を蹴散らして、実に遅々として進んで行く。
「うわあ。」ミリアは車窓を眺めながら感嘆の声を上げた。「人がいーっぱい! みんなみんな、一人も残らずメタラーだわよう!」観客は当然のことながら、揃いも揃って黒いメタルTシャツで統一されているのである。あたかもそれは、自分の意志を表明するための堅固な鎧であるかのようであった。
ともかく、今までのメタルフェスとは段違いの規模と集客である。リョウもただただ言葉を喪って、バスの前後左右に蠢く観客たちを眺めていた。昨日と同じ場所であるのに、やはりこれだけの人が集まると、全くその様相は異なって見える。紛れもなく世界一の舞台であった。
やがて昨日の実に三倍もの時間をかけて、バスはどうにかステージ脇に到着した。
四人は昨日とは違った緊張感を以て、再びヴァッケンの土に足を下ろした。
まだスタートまで一時間はあるというのに、ステージ前からは期待と興奮に満ち満ちた歓声が次々に上がっている。
「おい、凄ぇな。」シュンがリョウの横腹を突く。「お前、こいつら黙らせられるか?」にやりと笑ったその一瞬間の次に、リョウは「黙らせるだあ? ……走らせ、頭振らせ、絶叫させ、大暴れさせんだよ。」と噛み付くように言った。そのまま不敵な笑みを浮かべながらステージへの階段を上って行く。
この、耳朶を弄ぶ歓声が数時間後には自分に向けられるのだ。そう思うとリョウはとてもではないが、胸を激しく打つ鼓動を収めることなどできやしなかった。
階段を上り切ると、既にステージ脇ではオープニングを飾るバンドがスタンバイを済ませていた。その中の数人がLast Rebellionの到着に、喜び勇んで走って来た。いずれも惑うことなくミリアの元へ、である。男たちは何やら大仰な手振り身振りで、どうやら一緒に写真を撮ろうと声を掛けている。ミリアはにっこりと微笑んで男たちとカメラに納まった。
「あいつ、……やっぱ凄ぇ人気だな。つうかあいつら、南米のバンドじゃん。何で地球の裏側に住んでる奴がミリア知ってんだよ。」シュンが少々の嫉妬を滲ませながら言った。
「……あいつら、あれが人妻だってわかってんのかねえ。」アキが遠い目をして呟くように言い、「人妻……?」とシュンが繰り返して噴き出した。
「人妻だろが。」
「人妻、なのか。」シュンは腕組みをしながら考え込む。「……にしては随分色気ねえな。胸とかぺたんこだし。」
「それ以上言うな。リョウの妻だ。」アキがこっそりと囁いた。
「おい、そろそろ始まるみてえだぞ。」リョウがステージを見ながら告げた。
地元ドイツのバンドである。だからこそ観客たちは先程から大きな声援を送っていたのだ。
金髪のフロントマンがにわかに天を劈くようなハイトーンボイスを上げ、同時にメロディアスなギターが鳴り響いた。まだ客席後方は人の入りがなかったが、それでも一気に相当数の前方に押し寄せていた観客たちが大きく揺れた。
リョウはほうと長い溜息を吐いた。
ジャーマンメタル特有の泣きのメロディがこれでもかとばかりに押し寄せる。リョウはじっとその展開に耳を澄ませた。ここで生まれた曲にはやはり説得力がある。このステージで演ずることの必然性がある。リョウは闘争心に火を点けられたような気がした。
「かっこいいのねえ。」いつの間にやらミリアがすぐ隣に来ていて、そうはしゃいだ声を上げた。「いかにも、ジャーマンだわねえ。」
「いい音だな。」リョウもリハ以上に思える音作りに感心する。「バランスもいい。」
「こんなにしてくれんだったら、リョウの曲、絶対お客さんに届く。」
「まあ、お前がミスらなけりゃあな。」
ミリアは目を見開く。「ミス、ミスなんて、する訳がないわよう! どんだけ、どんだけ、練習してきてると思ってんのよう!」
「っつうのは冗談だとして、……お前、体調はどうだ。顔色は朝よかマシみてえだけど。」
「ヴァッケンの空気吸ったら、すっかり治っちまったわよう。」
「やっぱ悪かったんか。」
ミリアはマズい、とばかりに肩を竦めた。「ちょ、ちょ、ちょっとだけね。ほら、飛行機に長いこと乗ってたから、疲れっちまったのよう。そう、言ったじゃないのよう。」
リョウは静かにミリアを見下ろした。
「ここにも、ドクターが待機してるみてえだからな。いざとなったら遠慮すんなよ。俺に言え。」
「へ、へえ、そうなの。でもお医者さんのお世話なんてなんなくって大丈夫だわよう。だってもう元気平気へっちゃらだもの。」ミリアはリョウの全てを見透かすような目線から逃れるように、機材の置き場へと向かい、そそくさと自分のギターを取り出した。そしてすぐに愛おしそうに爪弾き始める。何せここには愛する人々の名前が記されているのだ。
そこを通り過ぎるバンドマンたちが、何やらミリアに話し掛けていく。ミリアは笑顔で一々それに答える。
――大丈夫そうだな、とリョウは安堵の溜め息を吐いた。
それよりも、あと二時間後には出番が来る。その頃にはもっとも客足も増えているであろう。地平線の先までを埋め尽くす観客相手に、遂に自分のミュージシャンとしての最大の夢が叶うのだ。リョウはそう思うと身震いがした。ここからの一瞬、一瞬を全て心に刻んでおこうと思った。




