73
やがて飛行機は気流に乗り、シュンが見ていた映画が二本目に入り、アキもテトリスに飽き、マインスイーパーにも飽き、仕方なしに映画を観始めた矢先、夕飯が呈された。
チキンのステーキとサラダ、コンソメスープにデザートのリンゴである。しかしミリアはちらと一瞥したきり、口を付けようとしない。
「お前、食わねえのか。」リョウはフォークを袋から出しそう言った。
「あんまし、食欲がないのよう。」
「でも、食わねえと。」
ミリアは渋々フォークを取り、リンゴに突き刺し一口齧った。瑞々しい香りが口中に広がっていく。
「どうだ、旨いか。」
ミリアは小さく肯いた。
「ちゃんと肉も食えよ。」
「……リョウにあげる。」
「俺じゃねえよ、お前が食うんだよ。」
「だって、食欲、ないもの。……緊張してんのかな。」そう言ってミリアは微笑んだ。
「緊張だあ? んなデリケートな人みてえなこと言ってたら、ぶっ倒れるぞ。」
「大丈夫。」ミリアはリンゴだけをしゃりしゃりと音を立てて食べ切ると、フォークを置き目を閉じた。「ステージは、やれる。」
リョウは心配そうにミリアを見詰める。長い睫毛が落とした影は目の下に薄ぼんやりと陰らせ、どこか儚げに見えるのをリョウは不安をもって見詰めた。
やはりどこか悪いのではないか。無理をしているのではないか。病院に付いていけばよかった。実はそこで重大な宣告を受けていて、ミリアは一人、何かとてつもない隠し事をしているのではないか。リョウはひたすら不安を募らせた結果、ミリアの手を握り締めた。
「何?」
「俺の力をやるから。元気になれ。」
どんな迷信かと、ミリアは思わず噴き出した。そしてしっかと握り締められた拳を見下ろす。
「……リョウの元気がどんどん入って来る。」自分に言い聞かせるように言った。
「だろ。俺の元気は余り余ってっから、少しやる。」
「うん。」ミリアはその熱い手を握り返した。ハンブルクまではあと5時間に迫っていた。
それから睡眠を取り、再び朝食を食べ、ハンブルク空港に着いた四人は迎えに来ていたアーティスト専用バスを発見して驚愕した。黒塗りの車体の脇には、でかでかと骸骨の絵柄と共にヴァッケン・オープン・エアのロゴが躍っていたのである。
「凄ぇ車だな!」リョウは思わずそう感嘆の声を上げ、凝視した。
「ヴァッケンのためにわざわざ作ったんか! やるなあ!」シュンも腕組みしながら讃嘆する。
その隣でミリアが盛んにカメラのシャッターを切った。「すんごいのよう! こんなのって見たことない!」
「Last Rebellionの皆さん! 長旅お疲れ様です!」と運転席から勢いこんで降りて来たのは、その流暢な日本語にこの上なく見合った、日本人男性だった。
「え。日本人?」シュンは思わず挨拶を忘れた。
「ええ、日本人です。いやあ、久々ですね、日本からのヴァッケン出場者は! 皆さんのいらっしゃるのを、本当に楽しみにしてましたよ!」
そう精悍な笑顔を見せた男は、遠藤と名乗った。年の功三十ぐらいの、日照時間の少ないドイツに住んでいるというのに日焼けていて、いかにも健康そうな男であった。
「へえ、遠藤さんは、」ミリアは後部座席に乗り込むと、そうすぐに気安く運転席に話し掛けた。「ドイツにずっと住んでるの?」
「そうですねえ、もう、なんだかんだ言って五年ぐらい経ちますかねえ。早いもんです。」
「ふうん。そんでずっと運転手やってんの?」
「ええ。元々ジャーマンメタルとか、このヴァッケンに憧れてやって来たバンドマン崩れだったんですけど、やっぱこっちに来たら言葉もわかんないし、なかなかメンバー見つけて音楽活動をするっていうのが難しくて……。でもヴァッケンにかかわる仕事がしたいってあれこれバイトを繋ぎに繋いで、ようやく、この仕事に辿り着いたんですよ。」
「へえ、頑張ったのねえ。」
「いやいや、音楽の夢を諦めて、それでもここにいられる方法に無理矢理しがみ付いただけですから。……でも、こうやって大好きなメタルに間接的にでも携われているのから、幸せですよ。」
「世の中色んなメタラーがいるのねえ。」
「そうですね。僕の知り合いでは、大学教授やってるメタラーの方もいますしね、千差万別。」
ミリアは珍し気に車窓に顔を近づけ、その風景を眺めた。「……ここが、ドイツっていう国なのねえ。」ミリアは、油断をしていると次々に過ぎ去ってしまう、まるで映画の中のような古い石造りの街並みを眺める。「全然メタルって感じがしないわよう。」
「ヴァッケンに入ればポスターや看板がたくさん出てきますよ。」遠藤が笑顔で答える。
「ヴァッケンってみんなメタルTシャツに革ジャン? 学校ではメタルの授業? 挨拶はみんなしてメロイックサイン?」ミリアが矢継ぎ早に尋ねる。
遠藤は噴き出した。「普段は全然そんなことありません。小さな田舎町ですから。農業主体のお年寄りの多い町ですよ。でもこの時だけは、全世界からメタラーが集結してきます。壮観ですよ。」
「へえ、そうなんだあ。……毎日メタル・デイだったら老後はリョウとここに引っ込もうと思ってたのに。」
勝手にそんなことを考えていたのかとリョウは目を見開いた。
「もう、お客さん、だいぶ来てんの?」
開催日は明日から三日間である。
「そうですね。ホテルはほんの少ししかありませんが、そこは既に去年のヴァッケンが終わってから、すぐに予約で満杯になっていて。会場内のテントエリアには、もう今日あたりから大分テントが立ち並び始めたようです。そこでは色々な言語が飛び交っているようですよ。メタルがあれば言語が通じなくたって、すぐに仲良くなれます。」
「すってきー! いいな、テントエリア。ミリア、キャンプやりたいの。小学校のサマーキャンプ以来だもの。」
意外にミリアはアウトドア派なのだなあ、とリョウは他人事のように思う。
「アーティストがテント組んでいたら、周りはびっくりですよ。とりあえず朝から晩までサイン攻めですよ。」遠藤はそれを想像し、噴き出した。
「そう? リョウは知られてるけど、ミリアはそうでもないのよう。」
「そんなことないですよ。」遠藤は苦笑する。「日本人の小さな女の子が物凄いギターを弾くのだと、大変な噂になっています。私もLast Rebellionの送迎を命じられた時には、周りの運転士仲間から、女の子のサインを貰って来てくれとさんざ言われましたからねえ。」
「小さな女の子じゃあないわよう。もう、成人してるし。」ミリアはあはは、と笑った。
「そうですよね。」
「俺らと一緒にいるから、小っこく見えてんじゃねえの。」シュンが言った。「実際お前、そんなチビじゃねえよな。」
「そうだわよう。」ミリアは今更ながら男三人を順繰りに見詰めた。「180センチだのの中で、163センチだから小っこく見えるだけ。社長からはねえ、ステージモデルでは使えないって言われてるけど、普通の女の子よりは背、高い方だわよう。だから『決して小っこくありません』って注意書き入れて、サインしてあげる。」
「ありがとうございます。」遠藤は微笑む。
「でも遠藤さん、サイン色紙あんの? ミリア一枚ぽっきりも持ってきてないわよう。」
「あ、実は勝手に、用意させて頂きました。……もし、頂けるんでしたら後ろの色紙に、お願いします。私の分と、同僚の分と、メタル仲間の分と……。」
ミリアは言われるがままに恐る恐る後部座席を覗いた。するとそこには色紙がトートバッグにぎゅうぎゅう詰めに入れられているのである。
「んまあ、こんなにあるわ!」
「ライブが終わってからで結構ですので……。」幾分厳しい顔をしたリョウを見ながら遠藤は消え入るように言った。
「お前は目立つルックスしてっかんなあ。」シュンが欠伸をしながら言った。「それも俺らにとっての武器っつうことは否めねえけどな。ま、サインぐれえ書いといてやれ。うまくいきゃあ、来年も来れるぞ。」
「武器? ミリア、武器なの?」
「そうそう。お前が小学生の頃、初めてステージに立った時にゃあ、客の誰もが大口あんぐり開けて、この世の終わりみてえな面してたかんなあ。俺、あんな観客の顔見たの初めてで、うっかりリフ刻みながら笑っちまったもん。」
「そうだったの?」
「おい、リョウ、覚えてるだろ? こいつが初めてステージ上がった時のこと。」
「……さあ。」
「もうボケたか。そうそう忘れらんねえだろ、あの風景は。精鋭たちの価値観揺るがしといて無責任にさっぱり忘れましたもねえもんだ。」
「価値観揺るがす?」ミリアは眉根を寄せて聞き返す。
「そうそう。俺らはメタラーだと思ってたが、アイドルファンだったんかっつって自問自答してた奴、結構いたんだぞ。」
「ミリア、アイドルじゃないわよう。」
「でも女のガキがステージ上がるっつったら、つまりそういうことじゃねえか。」
「ううーん。そうじゃないんだけど。」ミリアは首を傾げる。
「まあ、でもお前は最初っから何だか知んねえけど、バリバリ弾けたしな。しかもリョウとそっくり同じ音出して。小っちゃい女の子がなあ。……ありゃあ、まさに新生Last Rebellionの出発に相応しいステージだったよ。……ああ、あれから十五年も経つんか。早いなんつうどころの騒ぎじゃねえ。」
リョウも自ずとミリアと共にステージに立ったことのことを胸中に甦らせていた。自分もミリアも、このライブを逃したら後先がないものと思い込み切迫していたから必死であったが、今思えばよくもあんなにとんでもないことを思いつき、実践したものである。ミリアもよく自分の暴挙とも言える提案に応え、切ったものだ。あんな小さな女の子が徹夜をしてギターの練習をして、屈強な男ども相手にステージでギターを弾き切り――。リョウは類稀なる奇跡を思い起こし、溜め息を吐いた。
「絶対リョウの隣にいるって決めたんだもの。」ミリアは当然の如く言った。「絶対。」
「その決意でヴァッケンにまで来たんだもんなあ、大したもんだよ。」シュンはそう言ってミリアに微笑みかけた。
そんな話をしている内に、次第に車窓からの風景は鄙びて来た。広大な牧場に馬や牛の姿が見える。そしてやはりどこまでも広大な麦畑――。
「道、間違ってない?」ミリアは牛の鳴き声を耳にした時、遂にそう訊いた。
「間違っていませんよ。あと一時間程度で着きます。そろそろです。」
「ヴァッケンって田舎なんだよなあ。だってあのライブ会場だって、普段は牧場なんだろ?」シュンが言った。
「そうですよ。七万人も呼べるスペースなんて、そうそうありませんよ。ヴァッケンは普段は本当にのどかな、メタルのメの字もない穏やかな農業地帯です。ヴァッケンが開催された最初の年は、村人たちが世界中から押し寄せる黒い服に身を包んだメタラーたちと、突如始まる恐ろしい音楽に驚愕して、悪魔に乗っ取られたなんて大騒ぎするご老人も多くいましたが、今じゃあ皆さん至極協力的なものです。地元の店もヴァッケンに向けていつもの何倍も商品を仕入れて下さったり、ヴァッケン仕様の特注品を発売してくださったり、飾り付けも黒基調にスカルだのなんだの取り入れてメタル仕様にしてくれていますからね。事務局が地元の方々にご挨拶がてらお配りしたメタルTシャツを着用して、農業に勤しんで下さる方も多いんですよ。」
ミリアは骸骨の黒いTシャツを着用しながら、トラクターだのコンバインを操る老人の姿を脳裏に思い描き、思わず噴き出した。「おっもしろい! 早くヴァッケン見てみたいわよう!」
「もうすぐですよ。」遠藤はそう言ってアクセルを踏み込んだ。




