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茫然と立ち尽くすリョウに、宗は更に奥の部屋へと案内した。施設長室と書かれた部屋である。
「さあさ、ここに座って。今お茶を持って来るから。」応接室めいたそこは、日当たりがよく、その分革張りの古びたソファは幾分色あせていた。硝子戸を備えた棚には、四半世紀も昔の野球大会の盾が飾られていた。
ミリアは膝に手を置いて行儀よく座ると、「リョウは、ここでギターと出会ったのね。」と感慨深げに言った。
リョウはまだ焦点の定まらぬ目で、何やら考えごとをしているらしかった。
「リョウはここに来られて、良かったね。ここに来られたから、ギターと出会えたのね。」
「……ああ。」ようやく現実に戻って来たかのように肯いた。
再び宗が入って来て、二人の前に湯気立つ茶を置いた。
「こんなタイミングなのは辛いことだが、リョウジ君に会えて本当に嬉しいよ。政木君も同じ気持ちだろうよ。もう、あの時にいた職員はここにはほとんどいなくなってしまってねえ、……でも、あの時はみんなしてリョウジ君の心のケアができないか苦心したものだから、きっとあの時の職員たちにリョウジ君が、こんなに立派になって戻ってきてくれたと言ったら、みんな挙って大喜びするよ。」
「済みません。……正直、ここに世話んなったっつうことを自分で、あまり、正視できてなくて。」
「そうだろう。」宗は意外に微笑んだ。「施設出身だなんて堂々と言える子は稀だよ。大体はここを出た途端、忘れてしまう。否、……忘れようとする内に本当に忘れてしまう、と言った方が正しいかな。やっぱり親のいる家庭で育っていないと偏見の目で見られることが多いし、そもそも、……理由があるとはいえ、親に面倒を見て貰えなかった子たちだ。心に深い傷を負っている。だからここで職員や友達に心を開ける子っていうのも、稀だ。……思いつく限りではアイミぐらいかな。最初っから私たちに本音でぶつかってくれたのは。」
「アイミちゃんって、ここでどういう風に暮らしてたんですか?」ミリアが訊ねた。宗に驚いたように見つめられ、恥ずかし気に身を捩る。「ミリア、……アイミちゃんの普段の姿は全然知らなくって。……昨日、アイミちゃんのお友達に学校での様子聞かして貰って、初めてそういうの、知ったの。もし、良かったら教えて貰えませんか。昔のアイミちゃんのこと……。」
宗は哀し気に微笑んだ。「ありがとう。……アイミのことを少しでも知ってくれる人がいれば、アイミも喜ぶだろう。ましてや、アイミが大好きだったというあなたに。」そう前置きをすると、宗は次のような話をした。
アイミが生まれたのは小さく古びたアパートの一室であった。母親はアイミが生まれる三ヶ月程前まで水商売をしていて、夫はいなかった。経済的に厳しかったためか、アイミを妊娠してから、検査に通院した形跡はなかった。そうして遂に自宅で出産を迎えることとなったのである。
生まれた赤子を見て、母親は初産ではあったが、その子がただならぬ状況にあるのをすぐに悟った。産声を上げないどころか顔が青紫になっていて、呼吸もしていなかったのである。母親はさすがに恐怖を覚え救急車を呼び、アイミは即座に集中治療室に運ばれることとなった。母親は健康そのもので、産後の処置を受けるとすぐに、助産師からアイミの病状について告知されることとなった。
生まれつき心臓の弁が機能しておらず、即刻手術に入ったものの、失敗する可能性が極めて高く、成功してもこのまま集中治療室での長期入院が必須であるとのことであった。母親はそんな子供は育てられないと確信する。もともと、生まれたらどこぞにやってしまおうと考えていたのである。計画性のなさゆえ、そのためには一体どうすればいいのか調べてもなかったが……。
助産師は生活の基盤を整えるために、役所と繋げ、どうにかこの母子が生きていけるよう苦心したが、母親は子どもの手術費や入院費はおろか、自身の治療費も払わずに、ある日突然病院から行方をくらました。アパートにも戻ることはなかったし、そもそもアパートの契約者はこの母親でさえなかった。だから、それ以降、どこで何をしているのか、知る者はない。
病院が施設に連絡をしてきたのは、赤子の手術が無事に成功し、集中治療室には入っているものの、順調に回復の兆しを見せるようになってきた頃合いだった。病院の要請を受け、当時の施設長と共に、宗は病院へと向かった。そこで初めて、アイミと対面したのである。
アイミは全身チューブで繋がれ、胸部には包帯がぐるぐる巻きにされていた。しかし施設長と宗を見ると、にっこりと微笑み、あたかも「ようこそ」とでもいうように親し気に手を伸ばしたのである。その瞬間、施設長と宗はこの子を受け入れることを決めた。そして日々回復を祈り、度々見舞いに訪れては、退院できるその日を心待ちにしたのである。
アイミは非常に人懐こい子だった。小児がん患者の多数入院している小児病棟で、度々看護師の目を盗んでは同じく入院中の小さな子の所へ通った。無菌室に入っている幼子の所に行っては、ガラス越しに自分の作った折り紙だの絵だのを見せて勇気付けた。ベッドで退屈そうに寝ている幼子の元へ行っては、お話をしてやったり、絵の付いた手紙を手渡したりした。アイミは子どもたちに人気だった。親が滅多に来られずに寂しく入院生活をしている子たちにとっては、アイミは姉であり親友であり、過酷な治療の支えであった。自分も心臓に欠陥を抱えたまま、どうしたって運動はおろか、院内を長く歩き回ることさえ危険だというのに、アイミは子どもたちの笑顔を見るため、身を潜めてあちこち歩き回ったのである。
「アイミ。このままでは退院できなくなってしまうよ。病院の外に出て、みんなと一緒に勉強したくはないのかい?」
宗が注意を促すと、「だーって。」いつもの言い訳が始まる。「だーって、ずーっと寝たっきりって、つまんないじゃない。点滴も注射も痛いし。だからアイミが面白い絵を描いていってあげるとさ、みんな喜ぶの。」寝た切りで詰まらないのも、点滴や注射で痛い思いをしているのも、自ずと自分だけはそこから排除されてしまうのである。
「でも、アイミだって無理をすると、いつもそうなってしまうじゃないか。現に今だって。」宗はベッドに繋がれたアイミを哀し気に見下ろす。「アイミが勝手にあちこち歩き回るから、心臓が参ってしまっているんだよ。」ベッドの下には、足を下ろした瞬間ブザーの鳴る、特殊なマットが敷かれている。しかしそのシステムを熟知しているアイミは、調子が悪ければ命じられたように、トイレだ点滴が終わっただと看護師を呼ぶが、調子が良いとマットには足を下ろさず、椅子に渡り、ベンチに渡り、結局はブザーを鳴らさぬまま外へ出て行ってしまうのである。
「だーって。」アイミは顔色が悪いまま満面の笑みを浮かべ、「小っちゃい子って可愛いんだもの。アイミ、小っちゃい子たちと一緒に暮らしたいなあ。」
宗は無反省のアイミの姿にさすがに苦笑して、「じゃあ、アイミは大きくなったら保母さんになったらいいよ。」と言った。
「ホボサン?」
「そう。保母さんっていうのはね、お仕事をしているお母さん方から子供をお預かりして、代わりにお世話をしてあげる人のことだよ。」
アイミは大きな眼を更に大きく見開いて、「へえ! へえ! そんなのがあるの?」と興奮し出した。
「いけない、いけない。アイミ、深呼吸なさい、ほら、すう、はあ、すう、はあ。」
アイミは一応それに従って、再び自身を落ち着かせると「ねえ、アイミ、ホボサンになる! そんで小っちゃい子のお世話する人になる!」と宣言した。
「そうか、そうか。じゃあ、勉強をしなけりゃいかんな。いつまでも無理をして入院を長引かせていては、なれない。元気になって病院を出て、しっかり勉強をするようにならないと。」
「わかった。」アイミは微笑んだ。幾分、頬には赤みが差してきたように思われた。「もう、これからはあっちこっち行かないようにする。」
とは言ったものの、時折は失敗してブザー付きマットを鳴らしたり、無菌室の前で看護師に発見されてしまうことも何度かはあったが、無事に九歳を迎えた夏、週に一度の通院と引き換えに、初めて退院を許されたのである。
「ねえ。どこにあんの? アイミがこれから暮らすおうちって。」
「ここから車で三十分ぐらいだよ。」
「ねえ、そこにも小っちゃい子いるんでしょう?」
「ああ、いるさ。一番下の子は0歳。それから2歳、3歳。……アイミ、面倒を看てやってくれるか?」
「当たり前じゃん!」アイミは鼻を膨らませて言った。
それからアイミは医師が危惧していた発作を起こすこともなく、毎週職員に連れられ通院をすることで無事に成長し、十八歳の退所の日を迎えたのである。しかし、その日を迎えるまでも、断じて東京に行くと言い張るアイミと、一番アイミの病状を解っている病院に通院できる範囲に住むよう言い張る職員との間では、毎日のように言い争いが繰り広げられた。やがてこの諍いこそがアイミの心臓に負担をかけるということに気付いた職員側が渋々折れ、東京でアイミの治療ができる病院を探し出し、そこに通院するという約束を守らせることで、何とか上京を了承したのである。
「アイミ、運動、風呂はともかく、他にも絶対に鼓動が早まるような真似はしてはいけないよ。」
「わーかってるって。」高校を卒業したその日に髪を茶色く染めてきたアイミは、そう機嫌よく答えた。
「東京には、様々な誘惑がある。アイミ、君は保育士になるという夢を叶えるために、上京するんだ。そこを忘れちゃあいけないよ。」
「わーかってるって。」
宗はしかし心配そうな顔を崩すことはなかった。生後一か月の頃から知る子を卒業させるのは、我が子を送り出すも同然である。
「お前は他の子と違って、体のことでは心配なんだ。だから、……必ず電話をくれよ。元気だよ、という一言でいいから。」
「電話するよ。だってここはアイミの家だもん。……だから、二十歳んなったら成人式、ここに戻って来るし、私がさ、結婚する時は宗さんに紹介するし、子どもが生まれたら宗さんに名前付けてもらうんだから。」
宗は呆気に取られた。
「アイミに親も叶わないぐらい目一杯愛情注いでくれて、本当に感謝してる。だからアイミは大丈夫。宗さんに育てられたんだから、間違うはず、なくない?」そう悪戯っぽく笑ったのが、今も宗の胸に褪せることなく、一番上等の額縁に入れられたようにして真ん中に飾られているのである。




