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いつもの聴き慣れたSEが流れ出す。しかしそれより二十分も前から、リョウは既にステージ脇でKingVのネックを握り締めていた。客の期待感が、熱気が、悠長に楽屋になんぞいさせないのである。それに引っ張られるようにして、時を同じくしてそのすぐ脇にはシュンもアキもミリアもいた。
暗がりでメンバー全員が息を潜め、身を固くしている様なんぞ端から見れば滑稽以外の何物でもなかったが、しかし当の本人はそんなことを感ずる余裕さえなかった。四人はこれから始まるツアーの集大成を完璧に成功させるべく、じっとSEと客のざわめきを聴きともなく聴いていたのである。
リョウはステージ後方に掲げられたバックドロップを見上げていた。ホールに合わせて作られた、巨大で真新しい、今回のツアー用のそれではない。ライブハウス用の小さな、それでいて年季の入った、少々色褪せた所のある御旗である。最早二十年も前に、初めてワンマンが決定した時に大喜びで発注したそれは、成功も失態も含め、数え切れない程のライブを後方から見守って来た。そして今、数々の海外ツアーの凱旋とも称される、全国ホールを舞台としたツアーの最後の追加公演を静かに見守っている。
本当の意味での故郷を持たない自分が故郷に錦を飾るとしたら、こういうことになるのか、とリョウは少々勘違いした感慨に耽って苦笑を漏らした。
「リョウ、あと三分だ。」シュンが暗闇の中で携帯で時間を確認して言った。
今日はリョウの命により、開演時間と同時にステージに上がることと決められたのである。一分でも待たせておけば、何が起こるかわからない。開場と同時に満杯になった客席を見て、リョウはそう結論を出したのであった。
「そうか。」リョウはステージを楽し気に眺めながら答えた。「もう、何つうか、……これでマジでツアー最後だな。」
「長かったような、短かったような。」シュンが肩を顰めて呟いた。
「今まで見たことねえ風景を、山ほど見たな。」アキがそう言って苦笑を漏らした。
「それもこれも、今日で終いだ。」
「お終いなんかじゃない。」ミリアが力強く言った。「だって、だって、これからヴァッケンに行くんじゃない。最後なんかじゃないわよう!」
三人は思わず顔を見合わせて噴き出した。--そうだった。これからはヴァッケンに向けて進んでいくのだ。これはゴールではない。新たなゴールへ向けてのスタートだ。男たちは改めてそう確信する。
リョウはシュンの合図を待たで、アキの背を押し、アキが悠々とステージへ躍り出た。歓声が地から轟いた。次いでシュン、ミリア。歓喜とも痛苦ともつかない、物凄い絶叫が浴びせられる。そして最後にリョウが出て行く。聖地は王の再来を湛えた。その帰還に歓喜した。
リョウは客席を見下ろしながら、その風景に思わず息を呑んだ。
ここはもはや単なる故郷、ではなかった。もっと熱く、もっと暴れ出したい欲求が渦巻いていた。一音一音に対する執念、創造される世界への希求。かねがね客は己らの鏡であると位置づけるリョウは、これが今の自分たちか、と暫し感慨に耽った。
その時アキの一小節に及ぶドラミングが鳴り、次いで三人の音が一分の狂いもなく重なった。世界が始まっていく。その輪郭を形作る、音の粒子が集まって来る。その筈であった。
その瞬間リョウが見たのは、信じ難い世界の崩壊であった。
後方の扉が開け放たれ、一気に黒い塊が雪崩れ込んでくる。塊、ではない。それは人であった。観客、ではない。暴徒――。
人の上に人が重なっていく。それに耐えきれずに後方から人が次々に倒れ込む。苦し気な手が何本も伸びる。明らかな痛苦による絶叫がこの空間を満たしていく――。
リョウは吐くべき歌詞を喪い、マイクから一歩、離れた。自ずと、リフを刻む手も止まった。シュンも、アキも、一気に音を生み出していく意気を喪失していく。世界が散じていく。それどころではないのである。人が、倒れていく。人が、創り上げられようとしていた世界から零れ落ちていく――。
最後にアキがスティックを落とした時、そこを満たしていたのは観客の悲鳴だけだった。
ステージ端から「戻って来い!」と響いた怒声は、有馬のそれであった。
リョウははっとなって茫然と立ち尽くすミリアの肩を掻き抱き、ステージ端へと走り去った。




