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万華鏡  作者: 夕月 悠里
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世界は、灰色でできていた。少なくとも、ルカ・アークライトにとっての世界はそうだった。


工業都市アイロングレイ。大陸の西端に位置するこの街は、巨大な工場の煙突が墓標のように林立し、そこから吐き出される煤煙ばいえんが常に空を覆っている。太陽は分厚い雲の向こうで窒息し、地上には年中、鉄の味がする冷たい雨が降り注いでいた。建物の壁は煤で黒ずみ、路地裏の水たまりは油膜で虹色――いや、濁った玉虫色に光っている。ここでは、色彩という概念は贅沢品だった。市民が身につける服は汚れの目立たない灰か茶色。咲く花といえば、工場の排熱に耐える白くひょろ長い「煙突草」くらいのものだ。


そんな色のない街の片隅、下層区画の路地裏に、ルカの住処兼工房はあった。看板には剥げかけたペンキで『アークライト硝子細工店』と書かれている。ガラン、と真鍮のドアベルが鳴った。


「……いらっしゃい」


ルカは作業台から顔を上げずに言った。手元では、赤熱した硝子棒が飴細工のように形を変えている。入ってきたのは、常連の初老の男だった。


「よう、ルカ。頼んでた『義眼』はできてるか?」

「できてるよ。そこに置いてある」


ルカが顎でしゃくった先の棚には、精巧なガラス玉が一つ、布の上に鎮座していた。男はそれを手に取り、光にかざして満足げに頷いた。


「相変わらずいい腕だ。お前のじいさん譲りだな」

「……どうも」


男は代金の銀貨を数枚置くと、そそくさと出て行った。この街では、事故で体の一部を失う労働者は珍しくない。ルカの主な収入源は、そうした人々のための安価な義眼や、壊れた窓ガラスの修繕だった。


ルカはふぅ、と息を吐き、バーナーの火を弱めた。十七歳。煤で汚れた亜麻色の髪に、ガラスのように透き通った――しかし、どこか虚ろな灰色の瞳を持つ少年。彼には、夢があった。いや、夢というほど大層なものではない。ただの「渇望」だ。本物の『色』が見たい。絵本に出てくるような、突き抜けるような青空。燃えるような夕焼け。目が眩むような花畑。この灰色の牢獄で生まれ育ったルカにとって、それらは御伽噺の中だけの存在だった。


作業を終えたルカは、工房の奥にある木箱を開けた。そこには、一ヶ月前に亡くなった祖父の遺品が詰め込まれている。祖父はかつて、上層区画の貴族に仕える一流の硝子職人だったらしい。しかし、晩年は酒に溺れ、何も語らずに逝った。ガラクタばかりの箱の中で、一つだけ異質な輝きを放つものがあった。真鍮製の古びた筒。表面には複雑なつたの彫刻が施され、手のひらにずっしりと重い。万華鏡だ。ルカはそれを手に取った。振ると、カシャカシャと乾いた音がする。


「……じいさんの隠し財産か?」


期待半分、諦め半分で、ルカはその覗き穴に右目を当てた。そして、工房の薄暗い天井を見上げた。筒を、ゆっくりと回す。


ヒュン。息を呑む音が、狭い部屋に響いた。


そこには、宇宙があった。いや、宝石箱をひっくり返して、光の魔法でかき混ぜたような、圧倒的な色彩の洪水があった。ルビートレッド、サファイアブルー、エメラルドグリーン、トパーズイエロー。見たこともない鮮烈な色が、幾何学模様を描いて展開し、収束し、また弾ける。灰色の天井が、黄金のドームに変わった。煤けた壁が、七色のステンドグラスになった。


「なんだ、これ……」


ルカは震える手で、万華鏡を回し続けた。視界の中では、世界が再構築されていた。汚い作業台が、王宮のテーブルのように輝き出す。窓の外の陰鬱な雨粒さえも、一つ一つがダイヤモンドの雫となって降り注ぐ光景に見えた。


これが、『追憶の万華鏡メモリア・カレイドスコープ』。祖父が残した、禁断のアーティファクト。


ルカは万華鏡から目を離した。途端に、世界は色を失い、冷たく湿った灰色に戻った。吐き気がするほどの落差。まるで、楽園から追放されたような喪失感。もう一度。もう一度だけ。ルカは麻薬に溺れるように、再び万華鏡を目に当てた。


それから数日、ルカの生活は一変した。仕事は最低限しかせず、暇さえあれば万華鏡を覗いて過ごした。路地裏のドブネズミさえ、このレンズを通せば愛らしい光の精霊に見える。酔っ払いの罵声も、天使の合唱のように視覚化される(この万華鏡は、なぜか音さえも色として認識させた)。空腹も、寒さも、孤独も、この筒の中には存在しなかった。



そんなある雨の午後。ルカの工房の前に、一台の豪奢な馬車が止まった。下層区画には似つかわしくない、漆黒の馬車だ。御者台の男が降りてきて、恭しくドアを開ける。降りてきたのは、一人の少女だった。年齢はルカと同じくらいだろうか。濡れたアスファルトに触れそうなほど長い、純白のドレス。その上から、深い藍色のケープを羽織っている。髪は夜空のような黒。そして、その瞳は――包帯で覆われていた。


少女は従者に手を引かれ、ルカの店に入ってきた。湿った空気が、ふわりと花の香りに変わる。


「……ここが、アークライト硝子細工店ですか?」


鈴を転がすような、美しい声だった。ルカは慌てて万華鏡を隠し、作業着の埃を払った。


「あ、ああ。そうだけど……貴族のお嬢様が、こんな掃き溜めに何の用だ?」


少し刺々しい言い方になってしまったのは、彼女があまりに綺麗すぎて、自分の惨めさが際立ったからだ。


少女は微笑んだ。包帯の下の表情は読めないが、口元は穏やかだった。


「私はセレス。セレスティア・ヴァン・アイロングレイ。この街を治める領主の娘です」


領主の娘。雲の上の存在だ。ルカは思わず直立不動になった。


「その……セレス様が、義眼のご用命ですか?見たところ、目は……」

「いいえ。義眼ではありません」


セレスは首を横に振った。


「噂を聞いたのです。この店には、亡き先代が残した『世界を美しく変える硝子』があると」


ドキリ、と心臓が跳ねた。万華鏡のことだ。誰が漏らした?あの義眼の男か?


「……ただの噂だよ。うちはただの貧乏な硝子屋だ」

「嘘ですね」


セレスは一歩、近づいてきた。


「あなたの声の色……焦げ茶色に揺らいでいます。隠し事をしている時の色です」

「声の、色?」

「私には、光が見えません。生まれつき、闇の中で生きてきました。でも、音や匂いには色があるのです」


彼女は胸元に手を当てた。


「でも、それは本当の『光』ではありません。父様は言います。この街は素晴らしい、産業の光に満ちていると。でも、民の声は灰色で、雨の音は黒い。……私は、本当の世界の色を知りたいのです」


彼女の切実な声に、ルカは言葉を失った。彼女は求めているのだ。僕と同じものを。この灰色の絶望の中で、一欠片の美しさを。


気がつけば、ルカは隠していた万華鏡を取り出していた。


「……保証はしないよ。これが見せるのは、真実じゃないかもしれない」

「構いません。暗闇よりは、偽りの光の方がマシですから」


ルカはセレスの手を取り、万華鏡を握らせた。彼女の細い指が、真鍮の筒に触れる。


「覗いてみて。包帯の上からでも、きっと見えるはずだ」


セレスは恐る恐る、万華鏡を目に当てた。ルカが横から手を添え、ゆっくりと筒を回す。中の宝石たちが、カシャカシャと音を立てて踊りだす。


その瞬間。セレスの唇が、小さく開いた。


「あ……」


彼女の手から力が抜ける。包帯の隙間から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「見えます……。光が、色が……踊っている……」

「何が見える?」

「花です。宝石でできた花が、咲いては散り、また咲いている。……ああ、なんて……なんて美しいのでしょう」


彼女は夢中で万華鏡を回した。その様子を見て、ルカの胸に奇妙な感覚が広がった。自分が初めてこれを覗いた時と同じ感動。それを共有できる相手がいるという喜び。そして、自分の作ったものではないが、彼女を笑顔にできたという、職人としての誇りのようなもの。


「ルカ」


セレスが顔を上げた。包帯越しだが、彼女が真っ直ぐに自分を見ているのがわかった。


「お願いがあります。私を、外へ連れて行ってくれませんか?」

「外?この街の?」

「はい。この万華鏡を通して、街を見てみたいのです。父様が誇るこの街が、本当に美しいのかどうか」


無茶だ。領主の娘を連れ回すなんて、誘拐扱いされかねない。だが、万華鏡を握りしめる彼女の指は白く、震えていた。それは拒絶を恐れる震えだった。


「……五分だけだ」


ルカは作業着のフードを被り直した。


「雨が強い。風邪を引いても知らないぞ」

「はい!」


セレスは花が咲いたように笑った。


ルカは従者を適当な理由で店先に待たせ、裏口からセレスを連れ出した。冷たい雨が降る路地裏。しかし、二人の間には、万華鏡という共通の魔法があった。ルカがセレスの肩を抱き、視界を共有するように万華鏡を覗かせながら歩く。


「見て、あそこ。ただのゴミ捨て場だけど……」

「まぁ……!まるで、星屑の丘のようですわ」

「あっちの工場の煙突。黒い煙が出てるだろ?」

「いいえ、あれはシルクのリボンです。空に向かって、銀色の龍が昇っていくみたい」


二人は笑い合った。汚い水たまりは鏡の湖に、錆びついた鉄塔は黄金のオベリスクに変わった。灰色の街アイロングレイが、二人だけの魔法によって、お伽噺の王国へと書き換えられていく。


その時、ルカは気づいていなかった。万華鏡の中で踊る宝石の粒が、最初よりもほんの少しだけ、数を増していることに。そして、セレスの包帯の下から流れる涙が、頬を伝う前にキラキラと光って消えていることに。


それは、「対価」の始まりだった。美しい幻影を見せる代償に、この万華鏡が何を喰らっているのか。それを知るには、二人はまだ幼すぎた。

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