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1)プロローグ

新作です。よろしくお願いいたします。





 侯爵令嬢のオリハは今年十八歳。結婚できる年齢となった。

 オリハが奇妙な夢を見たのは、初夜に夫であるクルトに殴られ気を失ったベッドの中だった。

 最愛の夫に、しかも初夜に殴られるなんて惨めで最悪な体験ではあるが、結果としては悪い出来事ではなかった。

 あんな男との初夜など、そもそも避けられれば良かったのだが恋に溺れたオリハは愚かだった。


 オリハには三年前から婚約者がいた。完全に政略的なものだった、相手のクルトにとっては。

 事業の提携に伴う政略結婚の多くはそれぞれの家の子息と子女を互いに人質に出すようなものだ。事業の契約だけでなく婚姻のさいにも契約を交わす。

 オリハの実家ノアーク侯爵家は裕福だった。そのうえ、オリハは魔力が高く、数多の貴族家から「妻に」と求められた。

 高い魔力を持つ貴族は相手も高い魔力を持っていたほうが子が授かりやすく、それに魔力持ちの子が産まれるからだ。

 国としても、魔導士が多くいることはそのまま国力に繋がるために貴族名鑑には魔力量も載る。

 オリハはそれで、伴侶を希望する貴族たちに目を付けられていた。

「自分は皆に求められている」とうぬぼれていたのだろう。

 一目惚れしたクルトもきっと好きになってくれると信じて疑いもしなかった。

 ディメス伯爵家のクルトは美男で、オリハの初恋の相手でもある。見合いの席で彼を見て惹かれて恋に落ちた。

 彼を真実の愛の相手だと思い込んだのだ。馬鹿としか言い様がない。


 オリハはずっと家庭教師について勉強していたが、王立学園の卒業証書はあったほうがいいだろうと入学した。成績は良く、入学試験は首席だった。

 けれど、「ビッチ」などと身に覚えのない噂が流れていることを同級生に聞かされて、学園に通うのを止めた。箱入り娘のオリハには耐えられなかった。初日で脱落したのは気弱すぎるとしか言い様がないが、それが許されるくらいにオリハは箱入りだった。

 今まで通りに家庭教師に学び、試験だけ受けて卒業した。それなのに、なぜかオリハはドミニクという女を虐めたことになっていた。ちなみにドミニクはクルトの浮気相手でオリハのいとこだった。

 結婚式は夫に睨まれながら終わった。恋人のドミニクを虐めたオリハをクルトは許さなかった。披露宴でもクルトはにこりともしなかった。

 オリハの父であるノアーク侯爵もこめかみをぴくぴくさせていた。父が激怒あるいは憤怒状態であることを、オリハはあまり気付いていなかった。今思い返せば「もしかして、そうかな」とわかる。ついでに、兄や弟たちも父と同じだったかもしれない。

 でもオリハは愛する夫が不機嫌なことだけが気がかりだった。

 そんな波乱の初夜。

 オリハは隅々まで磨かれて夫婦の寝室にいた。

 寝室には媚薬のお香が焚かれていた。新婚夫婦の寝室には焚かれるものだ。昔からの定番だという甘ったるい香りが寝室中に充満している。

 お香のせいか頭がぼうっとしていた。

「このお香、効きすぎてる」

 体が熱く疼いている気がした。初心者のオリハになんというお香を焚くんだ。そろそろ夫に慰めてもらいたい。駄目ならもうお香を止めて欲しい。

 ぼやけた頭でオリハは「どちらにしよう」と考え続けていた。

 睨み付けてくる夫は怖かった。愛しいと思う気持ちが萎えるくらい怖い。でも、効きすぎたお香が苦しい。

「どうしよう」

 涙がじわりと滲んでくる。

 涙を拭おうと手を上げて、ふと気付いた。

「あ、これ」

 今朝、父がオリハの腕に填めてくれた腕輪だ。

「母の腕輪」

 真珠と金細工の腕輪は、父方の祖母から母へと継がれたものだった。とても良いものだ。真珠には寿命がありだんだん色が悪くなったりするのだが、腕輪の真珠は加工されてすぐに保存魔法が施されたため半永久的に輝きがもつという。真珠自体もこの上ないほどに上等なものだが、その加工にもまた手間と費用がかかっている。金細工も精緻で美しい。

 母のお気に入りで、大事にしていたと聞いている。母の肖像画の手首にはこの腕輪がいつも描かれている。

「お兄様の奥方に贈られると思っていたのに」

 母はオリハが二歳のときに亡くなった。ゆえに、母の姿は肖像画でしか知らない。

 蘇る母の面影に、オリハの媚薬による熱がなぜか和らいだ。

 母の白い手首にこの腕輪はとても似合っていた。

「私も母みたいに似合ってるかな。私の腕も母に負けないくらい白いけど」

 母に撫でられたときに、きっとその手首にはこの腕輪が輝いていただろう。兄のミコトは言っていた。

「母はオリハをいつも抱きしめて『可愛い私の宝物』と頬ずりしていた」と。

「お母様」

 オリハは急に母に申し訳なく感じた。

 こんな不幸な結婚をして母はなんと思うだろう。

 腕輪を撫でると、冷たい金の手触りが母の涙のような気がしてならない。

 初夜だというのに遅くなっても夫は来ない。一人きりの初夜だ。

 なにも悪いことはしていない。ドミニクなんて見たこともない。母の姉の娘だとは知っている。伯母はローエ子爵家に嫁いでドミニクを生んだ。

 オリハの母は伯爵家の娘で、父キアヌが見初めて玉の輿に乗った。でも、伯母は違ったわけだ。伯爵家から、格下の子爵家に嫁いだのだから。ドミニクがオリハを嫌う理由だ。

 オリハの噂など、すべてドミニクの嘘だ。

「そんなこともわからない夫なんて」

 と、ふとそんな想いが過った。

「あ、私、なんで」

 今までそんなこと考えたことがなかった。恋に溺れたオリハはクルトに惚れ抜いて理性で判断できなくなっていた。

 見込みなどないというのに。クルトはそもそも華やいだ女性が好きなのだ。

 それなのに、結婚して彼に尽くせばクルトに愛されるはずだと信じていた。

「私は本当に愚か」

 そのとき、ドアがいきなり開いた。入ってきたのはクルトだった。

 クルトはオリハを見るとあからさまに舌打ちをした。

 おそらくクルトは、父親の伯爵に言われてこの部屋に来た。

 それで、媚薬のお香が充満した部屋を不愉快に感じて舌打ちした、と。

 お香の効果でぼんやりしながらも冷静な部分でそれがわかる。

「貴様などと初夜を過ごすつもりはない」

 鋭い刃のような言葉がオリハに突き刺さる。

 オリハの恋心は、母の腕輪が少し削いでくれた。けれど、残らず消え去ったわけではなかった。

 ずっと好きだった彼に、憎まれている惨めな新妻。

 笑いそうになった。あまりにみっともなくて、愚かで。

 クルトが踵を返そうとするのをオリハは咄嗟に、彼の服の裾を摘まんで止めた。話をしなければ、とオリハは思った。

 いつものオリハならクルトを引き留めるなど決してしなかっただろう。きっと、一人惨めに初夜を過ごした。

 こんなに媚薬が効いた体で、夫のいない初夜などオリハに耐えられたかはわからないが。オリハは実家から侍女や侍従、護衛を連れてきているので彼らが治癒師を呼ぶなり薬を用意するなりして助けてくれただろうけれど。

 だが、オリハはいつにないことをした。クルトを引き留めるなんて婚約以来、初めてだ。

 クルトは目を見開いてオリハを見た。

「ま、待ってください、私は」

 これからのことを話さなければならない、それだけが頭にあった。

 けれどクルトはオリハが初夜を夫に強請ろうとしたと、そう思ったらしい。

「近寄るな! 穢らわしい!」

 クルトはオリハを振りほどこうとし、その手はオリハの頬を打った。

 体格の良い男の容赦ない力で打たれ、オリハの体は枯れ枝のように後ろに倒れた。

 ガツン、と遠い意識の向こうで嫌な音がした。

 目の前が暗くなる。

「オリハ!」

 クルトの焦ったような声。

 オリハはそれきり気を失ってしまったのでその後の騒ぎは知らない。

 後から聞いた話だ。

 オリハのことを心配していたオリハ付きの侍従は、ドアの向こうで待機していた。護衛たちもだ。

 ディメス伯爵家の執事や侍女長らも、伯爵夫妻が案じていたためにクルトが夫婦の寝室に入るまでは控えていた。

 そんな中で、クルトはオリハの待つ寝室に入った。ドアは閉められていなかった。

 二人の不穏な会話は漏れ聞こえていた。

 クルトの怒鳴り声ののち、オリハが打たれる音も聞こえていた。

 オリハの侍従らと護衛が殺気だった。

 クルトの焦った声とともに、侍従と護衛は「何事ですか!」と部屋になだれ込んだ。

 そこで見たのは、こめかみ近くの生え際から血をだらだらと流して気を失ったオリハの姿だった。

「貴様!」

 侍従が伯爵家子息を「貴様」呼ばわりしたことは不問に付された。

「すぐに治癒師を!」

 と誰ともなく声が上がり、場は騒然とした。

 護衛の一人はノアーク侯爵に急を知らせた。ノアーク家の家族は披露宴ののち遅くなったので近くの宿に宿泊していた。父たちが王都の屋敷に帰らず宿に泊まったのは「色々と腹が立った」のでディメス伯爵は頼らず、オリハが心配で近くの宿を選んだという。これも後から聞いた話だ。

 キアヌは子息たちとともに駆けつけてきた。

 その頃にはオリハは手当を受け終えて寝かされていたが、頬は腫れ上がり、頭には痛々しい包帯が巻かれていた。

 侍従は証拠保全のために治癒師に頬の打撲の痕はそのままにしてもらい、生え際の傷は患部が頭なので念入りに診察を頼んだ。出血のわりに深刻なものではなかったのは幸いだった。

 オリハの悲惨な有様をノアーク侯爵家の家族たちは全員、怒気を溢れさせながら見た。


 それからほどなく、ディメス伯爵家の応接間では関係者一同が対峙していた。

 一人、場違いな男性がいるが、彼は証人になってもらうために無理を言って連れてきた神官だ。結婚式のときに世話になった方でもある。神官は精霊石を持っている。嘘をつくと濁る石だ。これほど信頼できる証人はいないだろう。

 すでに夜中を過ぎ披露宴の明くる日になっていた。

「離婚だ」

 キアヌが冷淡に告げると、ディメス伯爵夫妻は沈痛の表情で項垂れた。

「ま、待ってください、これには誤解があります」

 クルトはさすがにこの結果がディメス伯爵家にもたらす影響を考えられないほど無能ではなかった。

 ディメス家の事業は昨今、国が進めている魔導車の開発に関わるものだった。

 魔導車は馬車とともにこれまでも国中を走ってはいた。馬車と魔導車とどちらにもメリットとデメリットがあり、どちらを使うかは民間の判断に任されていた。

 そこに、国がてこ入れをすることになった。

 馬車も急になくなるわけではないが、馬車では不便なところもある。例えば、魔導車のほうが安全に走れる魔獣の多い地域などだ。人と物を安全に運ぶために魔導車が走る時代になっている。

 そのため魔導車の開発に欠かせないものや魔導車の魔石補給の拠点の整備など、早急に整えるべき事業が幾つも必要になった。

 ディメス伯爵家が取り組もうとしているのもそうだ。魔石補給の拠点を作り、街道の整備をしようとしていた。

 ノアーク侯爵家もそれに関わろうというわけだ。

 だが、ノアーク侯爵家としては自分の領地の街道もあり、古くから関わる他の貴族家でも魔導車関連の事業を興そうとしているのだから提携先は幾らでもある。

 ディメス伯爵家を選んだのはディメス伯爵がいち早く着手し、事業計画も良さそうだからであり、愛する娘の婚家にもなるからだ。

 すでに両家が手を携えて小さな街道整備事業は進んでいる。ごく小規模なもので、お試し事業みたいなものだ。もう九割方は完了している。こののち、今回の事業の反省も踏まえて大規模事業へと進む計画をしていた。

 オリハとクルトの婚姻が滞りなく済めば話を進めると、そういうことになっていた。

 もはや風前の灯火ではあるが。

 ノアーク侯爵家の豊かな領地には魔鉱石の鉱山が幾つもある。魔獣の出る森では魔獣から魔石を採ることもできる。魔鉱石に比べると小粒ではあるし安定供給とも言い難いが、底を突くことなく採ることができる。どちらもノアーク侯爵領には豊かにある。資産もある。

 新事業には欠かせない提携相手だった。

「誤解とはなんだ? オリハと会うたびに『いとこのドミニクを虐げる性悪ビッチめ』と罵ったことか」

「え?」

 ディメス夫妻が俯いていた顔を上げてマヌケ面を晒す。

「どういうことだ」

 伯爵は息子の顔を凝視した。

「そ、それは、オリハはいとこのドミニクを毛嫌いし、学園では彼女の衣服にインクをぶつけたり」

「なにを言っている。オリハは学園には通っていない。家庭教師について試験のときだけ学園の自習室で受けていた」

「え? どういう」

 今度は息子のクルトが呆けた顔となった。

「今言った通りだ。オリハは入学初日に、身に覚えのない『ビッチ』などという罵りを受けてから、屋敷で家庭教師に習っていた」

 侯爵は冷淡に答えた。

「だ、だが。ドミニクは嘘など」

「貴様がどこの誰にどんなデマを吹き込まれたのか知らんが、学園に一度でも問い合わせればわかることだ。我が家の誰にどんな真偽判定の手段を使って調べてもかまわんがオリハは生粋の箱入りだ。どこでビッチな行いをできるというのだ」

「よ、夜中に抜け出し、て」

 クルトはあやふやに言い出した。

「だから、どこの誰に吹き込まれたと言っている。まぁ、貴様がドミニク・ローエと浮気していた事実は把握していた。この婚姻は端から間違いだった。慰謝料の請求を楽しみにしているがいい」

「だ、だが、しかし」

「クルト、もう、止めろ」

 父親に力なく諭されるも顔面蒼白のクルトは必死に言いつのる。

「怪我をさせる、つもり、は」

「ジル、部屋の前で控えていたのだろう。オリハが暴行を受けたときのことを話せ」

 侯爵に命じられ、ジルと呼ばれたオリハの侍従は「はい」と一歩踏み出した。

「聞こえてきた会話は幾らもありませんでした。クルト殿がオリハ様の待つ寝室に入ってすぐに『貴様などと初夜を過ごすつもりはない』と、クルト殿の声が聞こえました」

 ディメス伯爵夫妻は再度、項垂れた。

「それで、オリハ様が『待ってください』と、引き留めるようにお答えになられ、すぐにクルト殿が『近寄るな! 穢らわしい!』と怒鳴られて、誰かが殴打される音と、倒れる音、それからクルト殿がオリハ様の名を呼ぶ声がいたしましたので部屋に護衛とともに踏み込みました」

 侍従は淡々と告げた。

 ディメス伯爵夫妻の顔から血の気が失せた。

「なるほどな。我が娘が『穢らわしい』とな」

 キアヌのこめかみに血管がぴくりと浮き出た。

「そ、それは、つい、うっかり」

 クルトはよほど狼狽えているのか、意味のない言い訳を垂れ流した。

 離縁の書類は朝のうちに用意されることとなった。



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