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後編

 翌週、僕は進路相談が終わる頃合いを見計らって、次の活動について相談をしに先輩を探しに行った。


 だが、なぜか教室を見渡しても、他の三年生に聞いてみても、一向に居場所がわからない。


 僕は仕方なく校内を地道に探し回ることにした。連絡先を交換しているのだから、電話なりメッセージなりを送ればいいはずなのだが、困ったことに先輩は、驚くほどスマートフォンを見ないのだ。そのため、用事があるときは連絡を待つよりも自分から本人を探しに行ったほうが早い。


 それにしても今日は全く見当たらない。いつもならそろそろ見つかってもいい頃合いなのだが……。


 部室、科学室、地学室に、体育館や多目的室など、先輩が過去に訪れていた場所はほとんど周った。そろそろくじけそうだ。



 これでいなかったら今日は諦めようと、最後に屋上へ続く階段を上る。

 ギイギイと耳障りな悲鳴を上げる扉を開けて、辺りを見渡すが、それらしい人影は見当たらない。


 ぐるりと囲まれた緑のフェンスとこじんまりとした物置小屋。もしあの人が意図的に人目を避けているのだとしたら、隠れるのは……。


 僕はあまり期待はせずに物置小屋に近づいてみた。



 すると、いるではないか。

 先輩が物置小屋の影に溶け込むように、体を丸めて座り込んでいた。思わず心臓が跳ねてしまった。


「えっと、先輩……?」


 声をかけるが反応を示さない。すぐ側にかがみ込んで、


「先輩」


 今度ははっきりと呼んでみる。すると先輩はわずかに顔を上げ、僕を視界に捉えた。


 目が合った。その瞬間、僕は思わずかけようとしていた様々な言葉を、ぐっと飲み込んだ。


 猫みたいなキラキラした目。いつも星空を楽しそうに見上げる目。


 それが今は分厚い雲に覆われて、輝きを失っていた。雨は降っていないことに密かに安堵するが、初めて目にした彼女の様子に、僕はすっかり当惑してしまった。


 この人に出会って、一年と少し。僕が先輩に抱いているイメージは、『星が大好きな、明るくおおらかな人』である。そんな彼女が、黒い髪をだらんと垂らして、頼りなく震える体を両手でしっかりと抱きしめて、「くげ」と小さく僕を、何かにすがるかのように呼ぶのだ。


 空も見上げないで、うずくまって、いつものハキハキとした声もすっかり落ち込んだまま、少し困ったような表情でポツポツと話すのだ。


「久下、わたし、わたしなあ、星になりたいんだ」

「……知ってますよ」

「……星に、……」

「はい、だから、知っていますって」


 うわ言のように呟く先輩の意図がわからず、僕はますます困惑した。


「わたしは…………」


 ただでさえ力ないのに、だんだんと小さくなっていく先輩の声を聞き逃すまいと、僕は耳を近づけた。


 すると今にも消え入りそうな震えた声で、だがはっきりと、彼女の切実な思いが聞こえた。


「行きたいんじゃないんだ」


 と、一言。

 ただその一言で、彼女が何を言われたのかは、おおかた予想がついた。


「わたしは星に、本当に、……あの星に成りたくて……」


 そう絞り出すように付け加えると、何か込み上げてくるものがあったのか、先輩はまた顔を腕の中にうずめてしまった。


 宇宙飛行士というのは、星の数ほどある職業の中でもひときわ実現が難しい。

 選抜試験に受かる確率は当然のように一パーセントを下回る。どれだけ勉強に時間をかけたとしても、あらゆる努力を尽くしたとしても、選ばれるのはほんの数人だけ。

 そのほんの数人の中に彼女が入れる確率は、いったい、どれだけ低いのだろう。


 まして彼女は三年生だ。高校三年生、一八歳。どれだけ彼女が本気で周りの説得を試みたとしても、いつまでも夢を見てはいられない、そろそろ現実を見ろと、そう言われてしまうだろうことは想像に難くない。


 そんなふうに、先輩の大切な『妥協案』である宇宙飛行士は、いとも簡単に否定されてしまったのだろう。


「ふふ、久下も思うだろう。馬鹿みたいだって。『星に成る』なんて、くだらないって」


 さっきまでとは一変、先輩はパッと表情を明るくして笑った。


「でも本当なんだ。本気で思ってる。こんな、小学生でも言わないようなことを、高校三年生にもなってまだ願ってる。願わずにはいられないんだ」


 そう行って、先輩は右の手のひらを、ただまっすぐと空に向けた。さっきまで目をそらしていた空をじっと見つめて、そこに大好きなものがまだ映っていなくとも、一心に手を伸ばした。


「星は、自分自身の力では輝けない。彼らがあんなに美しく尊くいられるのは、太陽のおかげだ。でも、だからなんだっていうのだろう。


一人じゃだめなら二人でいい。


この世界はわたしたちに自立を求めるが、わたしはそれにうんざりしている。甘い考えかもしれない、逃げているだけかもしれない、それでも、あれはわたしの理想の全てなんだ」


 それを聞いて、僕は初めて先輩の『夢』の真意を感じた。先輩はわかってるのだ。星になんてなれない。願いは叶わない。


「だからせめて、一番近くに、宇宙に、行こうと……」


「……先輩」

「なあ、いっそ笑ってくれ、久下。あいつらにあれこれ言われるのは気に食わないが、おまえからなら、諦められるかもしれない!」



「はい、言質取りました。じゃあ言わせてもらいますけど、先輩」

「え、そ、そんなにあっさり頷かれると、反応に困るんだが……」


 本人がお望みなら、とおもむろに姿勢を正す。戸惑う先輩に、僕ははっきり告げる。



「あなたは星になっています」



 一言一句、はっきりと区切って伝えると、先輩はぽかんとした。猫みたいな目がまん丸くなっている。

 心底困惑した様子の先輩に、僕は少し笑った。


「な、なに、なんだ、急にどうした」


 別に急ではない。あなたは知らないだろうが、これは僕があなたに初めて会った日から変わらない認識なのだ。


 愛ではない、恋でもない。だがあなたは僕にとって、まさしく夜闇を照らす一等星だ。



 あなたはとっくに星になっている。

 当の本人は、これっぽっちだって気づいてはいないようだが。



「僕はね先輩、あなたの信念が好きなんです。あなたのせいで僕は、自分の夢を諦められなくなったんだ」


「おまえ、一丁前に夢があったのか……」

「僕をなんだと思ってるんですか」


 空気を壊すな。


「だからですね、あなたにへこたれられると困るんです。ちゃんと責任取ってもらわないと」

「……そんなの、一方的すぎるだろ」


 先輩は不満そうだ。


「でもいいか」


 猫みたいな目がきゅーっと細められた。 


「おまえが言うなら、それでいいか」


 そう言って、どこか吹っ切れたように笑う先輩は、やはり僕には、紛れもなく星に見えるのだった。




 ああ、あれから、何年が経っただろう。


 僕は一介の会社員として、至極平凡な日々を送っている。星は今でも好きだ。


 天体観測部は結局三年の半ば頃に無くなってしまい、十分に活動ができなかったため、その反動だろうか、わざわざキャンプ場に宿泊して天体観測をする、などといったことをしている。

 終いには少し値の張る天体望遠鏡にまで手を出してしまう始末だ。しかも割と最近の話である。


 初めて都会に出て色々と気を揉んだのも、今ではいい思い出だ。

 星が見えない夜がものすごく嫌で、精神安定剤として、狭いアパートの壁に簡易プラネタリウムを貼り付けるなどの奇行を起こしていた。先輩に知られたら笑われてしまうだろう。


 そうだ、先輩といえば。


 あの人が今どこで何をしているのか、実は僕は全くわからない。宇宙飛行士にはなれたのか、今もまだ星になりたいと思っているのか、僕は知らない。

 彼女が高校を卒業してからは一度も会えていないのだ。例によって連絡も取りづらいし。


 そんな状況なものだから、空を見上げる度に考えてしまう。


 この果てしなく広がる星々のどこかに、ひょっとしたら彼女が降り立っているのではないか……。

 猫みたいな目をキュッと細めて、地上で忙しなく働く僕を楽しそうに眺めているのではないか……なんてことを。


 もし本当にそうなら、いい年して連絡を返さないことは大目に見るしかあるまい。


 僕は既読のつかないメッセージを笑って眺めた。


『いつ空いてますか』

『先輩』

『星見に行きませんか』

『いい加減メッセージ見てください』

『おい』

『ちょっと』

『せめて見ろ』


 以下略。

 これ以降も一方的なやり取りが延々と続いている。


 やれやれと息を吐いてスマートフォンをポケットにしまおうとしたとき、ピコンと通知音が鳴った。なんというタイミング。


『今週末で』


 差出人に驚いて、一度スマートフォンを落としてしまったというのは、彼女には内緒である。



 今宵のベガは、さぞ綺麗に見えるのだろう。

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