前編
「あ〜星になりたい」
何度目かのつぶやきとともに、先輩は屋上のコンクリートに転がる。
満天の星空を見上げ、たいそう機嫌が良さそうだ。
「また言ってる」
少し呆れたふうに肩を竦めてみせると、先輩は猫みたいな目をキュッと細めながらカラカラと笑った。
「言うさ、綺麗なんだもの。ほら、アークトゥルスだ。今日はよく見えるぞ〜」
「あーく……ああ、麦星ってやつですか」
「古風だなぁ」
麦星、というのはどうも日本固有の呼び名らしい。麦の収穫時期によく見えることから、この名前がついたのだとか。もっとも、この辺りの麦の収穫時期はとうに過ぎてしまっているのだが。
橙色の一等星、うしかい座の麦星……ああ、アークトゥルスだったか。特徴のある明るい星とはいえ、よくこれだけ賑やかな星々の中から素早く認識できるものだ。
まったく、この人の星に対する情熱にはつくづく感心させられる。
だが僕だって負けていない。これでもこの学校の『天体観測部』副部長なのだ。
「先輩、スピカはどれ?」
「ん、スピカ。スピカは少し南西に下った辺りの……、……久下」
トントン、と人差し指で隣を示される。おまえも寝転べ、ということだろう。
おとなしく従い、先輩の横にゴロンと横たわると、夜風に冷やされたコンクリートが背中から体温を奪ってゆき、薄く鳥肌が立った。
夏はまだ来たばかりだ。もうしばらくは肌寒い夜が続くのだろう。
先輩は僕が天を仰いだことを確認すると、コンクリートを指していた人差し指を今度は大空に向けて続きを話す。
「あれだ、あれ。白い星だ。無垢な少女が身に纏う純白のワンピースのように白い星」
「なんですかその例えは」
やけに文学的な表現をする。
そういえば昨冬の天体観測でも、こいぬ座のプロキオンという星に対して『街行く女性の左手の薬指で控えめに輝くダイヤモンド』なんて表現をしていた。
プロキオンとスピカはどちらも白色の一等星だ。地球から眺めたところで違いなんてこれっぽっちもわからないだろうに、異なる表現が出てくるということは、この人には区別がついて見えるのだろうか?
あれこれ思いながら、先輩の指の先を辿ってそれらしい白い星を探してみる。
「あ、もしかして、あの少し大きい……」
「そうそう、それだ。ふふ、綺麗だろう」
うっとりと星を見つめる先輩に、僕はいざ満を持して勉強の成果を発揮する時が来た。
「アークトゥルスとスピカで、春の夫婦星って言うんでしょ」
「お、そうだ。……よく知ってたな」
いつもよりまん丸くなった先輩の目を見つめ、僕は少しだけ気分が良くなった。この物知りの先輩のこんな顔を見たいがために、僕は日々星の勉強をしている。
僕は胸を張って言った。
「副部長ですから」
「うーん、まあ他に部員がいないからなあ」
苦笑いをされてしまう。
天体観測部は昨年度に引き続き、三年生の先輩と、二年生の僕、計二人しか所属していない。キラキラ青春生活を夢見て部見学にやって来た新入生たちには、我が部はまるで見向きもされなかった。
このままでは来年を待たずに廃部になってしまう、なんて通告も来ている。せめて先輩が卒業するまでは保たせたいものだが……。
と、思い悩む僕の隣で先輩が大きく息を吐いた。腕時計に目をやると、時刻はまもなく二十一時を回ろうとしていた。
「あ〜、帰りたくない。帰れば勉強が待っている。天文学以外やりたくない」
「しっかりしてくださいよ受験生。先輩はやる気さえ出せればすごいんですから、頑張ってください。宇宙飛行士になるんでしょ」
「いやぁどの道浪人は避けて通れないだろうし……」
「そういう問題じゃないですよ」
まったく、と呟きながら体を起こし、うだうだと虫のように蠢いている先輩に代わって、僕は後片付けを開始することにした。
毎回用意しているのにほとんど覗くことのない簡易的な天体望遠鏡を分解し、観測を初めて早々に投げ出された星座早見盤を拾い上げると、ふと、天の川を挟んで描かれている二つの星が目に入った。
こと座のベガとわし座のアルタイル。別名、織姫星と彦星。日本人なら誰もが知る、七夕を代表する星だ。どちらも一等星で、今宵も夜空でまばゆい光を放っている。
「七夕か……」
今夜は幸いにも晴れているが、七夕当日に星を眺めようと思うとなかなか難しい。梅雨の時期に被ってしまっているため、仕方ないといえば仕方ないのだが。
「先輩は、七夕の日に天の川見たことありますか?」
「いやあ、さすがにないな。毎年曇りだ。もっとも、七夕でなくとも星々は美しいからな。それで十分さ」
あっけらかんと言い放つ先輩とは対照に、僕は少し不満だった。
今年は先輩といられる最後の年。ただでさえいつ廃部になるかわからないのに、こんな『天体観測大推奨』みたいなイベントを素通りできるほど、僕はこの部が嫌いではない。
ダメ元だとしても、せっかく天体観測部に所属しているのだから、一度くらいやってみてもいいのでは……。
「あっ流れ星だ!」
突然、先輩はガバッと起き上がり、勢いよく夜空を指さした。
「ほらっ流れた!」なんて子供のようにはしゃぎだす先輩を見ていると、もう来年にはこの人がいなくなるだなんて、嘘のように思えてくる。
なんだか来年も再来年も、ひょっとしたらもっとずっと先の未来でも、この人はここでこうして夜空を眺めているような、そんな気持ちになる。
おかしな話だ。先輩は夢を叶えて、宇宙に行くはずなのに。
「帰りましょうか、先輩」
「え〜」
僕は不満げにうめき声を上げる先輩をやっとの思いで帰路につかせた。七月七日の密かな企てを心にしまいながら。
「ということで、天の川見ませんか」
「……この前見ただろう」
七月六日の放課後に、僕は先輩に自分の考えを伝えてみた……が、案の定、あまりいい反応はもらえなかった。
しかしめげずに必死の攻防戦を続けること小一時間。苦労の甲斐あって、僕は見事先輩と約束を取り付けることに成功したのだ。
……だというのに、一体どうしてこの空気の読めないだだっ広い大空は、こんなにも薄暗くどんよりと鼠色に染まっているのだろうか!
「まあその……そんな顔をするな」
先輩にまで気を使われる始末である。
「だから言っただろう、毎年こうだと」
「……それは、そうなんですけど……」
あなたと見たかったんだ、とは言うに言えず、僕は大きく息を吐いて部室の机に突っ伏した。
先輩は人の気も知らず、頬杖をついて窓越しに空を見上げている。
「織姫は彦星に会えただろうか」
雲の向こうに思いを馳せているのだろうか。先輩は呟いた。
僕も七夕伝説の概要を頭に浮かべてみる。
仕事をしなかったが故に引き裂かれ、一年に一度だけしか会えなくなってしまった彼らは、一体どんな気持ちで毎年天の川に向かうのだろう。
「……思えばあの話って、織姫と彦星からしてみればずいぶんと勝手な話じゃないですか?」
織姫は一生懸命はたを織っていただけ。
彦星も真面目に牛を世話していただけ。
二人とも今の生活にやりがいを感じて満足していただろうに、遊び呆けて仕事を放り出すようになってしまったのはすべて、勝手に余計な計らいをした神のせいではないのだろうか。
愛を教えたのは神なのに、愛を引き裂いたのも神だった。
考えれば考えるほど、神が大戦犯のような気がしてならない。
「まあ、子供向けの話だからなあ。そうだ、更に現実的な話をしてしまえば、一年に一度だけ会う、というのは実は不可能なんだぞ」
「えっ、そうなんですか」
「地上からだと近く見えるが、実際は約十五光年離れているからな。たとえ光の速さで移動できたとしても、会えるのは十五年に一度ってわけだ」
「へえ……」
さすが先輩、天文学的な話に関しては詳しい。
それにしても十五光年だなんて、全く想像ができない。
一光年ですらいまいちピンとこないのに、そんなに長い間離れていて、果たして二人はいつまで一途にお互いを思っていられるのだろう、なんて無粋なことをまた考えてしまう。
先輩が言うようにこれは子供向けの話なのだから、高校生があまり茶々を入れるべきではないだろう。
「大事なのは、いかに子供たちが星空を見上げるきっかけを作るかじゃないだろうか」
「きっかけですか」
「そうだ。星空というのは、すごいものだ。無限の可能性を秘めている。子供時代に興味を持って見るのと見ないのとじゃあ、その後の価値観が大きく変わると思わないか?」
「……そういうものですかね?」
「んー、……さあね」
先輩は時折ずるい。こちらに思っていることを話すだけ話して、あとは知らんぷりだ。
なんというか、逃げるための手段をたくさん持っているような感じがする。のらりくらりと、己の核心には決して触れられないように避けているような。
さらにそれを境に会話が途絶える。部室内は一変、静寂に包まれた。
いつの間にか外では雨が降り始めていたようで、雨粒たちだけが言葉を交わしている。
「……やることなくなったな」
「ですね」
先輩も同じことを考えていたらしい。
「あ、それじゃあ来週の活動日でも決めませんか?」
僕はひらめいてポケットからスマートフォンを取り出した。カレンダーのアプリを開いてスケジュールを確認しようとしていると、先輩がなんだか気まずそうな声を出した。
「ああ〜、それなんだが……来週はちょっと進路相談がびっしり入っていて、難しそうなんだ。悪いが再来週まで待ってくれ」
珍しく遠い目をしながら先輩は言う。僕は他人事とは思えない単語の響きに思わず身震いした。
「うわ、進路相談……嫌な響きですね……」
「ふふふ、覚悟しておけよ久下……今におまえのところも本格的に始まるぞ……」
夜空と同じくらいどんよりとした様子で恐ろしいことを言われるものだから、僕も一気にどんよりとした気分になってしまった。人の心はないのか。
部屋の空気が過去最高に暗くなったので、今日は解散することにした。
僕はわがままに付き合ってもらったお礼をしっかりと言って、先輩と別れた。




