7.
「えー!!」
目の前で口を大きく開けたまま董子が驚いた表情をしている。それと同じくらい峻も董子の出した声の大きさに驚いていた。峻としては別段に特別なことを言ったわけではなかったからだ。
「い、今なんて?」
あれだけの反応を示していて、峻の言葉が聞こえていないわけがないのだが、董子は探るような視線と共に聞いてきた。
「いやだから、俺の部屋で勉強しようって言っただけなんだけど」
「……いいの?」
「いいも悪いも、俺の部屋くらいしか勉強ができるところがないから」
「そ、そうなんだ」
董子は苦笑いを浮かべる。なぜかとても複雑な表情をしているように峻には見えた。
「さ、行こうぜ」
「うん」
峻がもう一度誘うと、董子はやっと頷いて峻の後に続いた。
峻の部屋に入ってからの董子はなにがそんなに珍しいのかきょろきょろと部屋の中を見渡していてまったく勉強に集中できていないようだった。
「董子」
「えっ!? なに!?」
「はは、そんなに反応されるとこっちが困るよ」
「ごめん……」
しゅんとして小柄な体をさらに小さくする董子に峻は苦笑する。
「どうしたんだよ。そんなに俺の部屋を見たって面白いものなんてないぞ」
「あ、えっとー、私って男の人の部屋に入るのって初めてだからなんだか緊張しちゃって」
「緊張することないのに。ただの部屋だよ」
峻は笑いながらイスを回転させると自分の勉強机の上にある教科書に目を落とす。そんな峻の背中を見ながら董子が呟いた。
「……『ただの』じゃないよぅ」
その声は峻には聞こえない。董子は拗ねたように口元をとがらせると、机に向かう峻の背中からベッドの枕元へと視線を移す。
「あっ」
そこで董子はあるものを見つけて思わず声を漏らしてしまう。峻の枕元にある本棚に小説などに混ざって似つかわしくない女性向けのファッション誌があったからだ。
「どうした?」
漏れた声を聞きつけた峻が振り返っていた。
「え、あ……」
峻は困惑顔をしている董子の目線の先とベッドの枕元を結ぶと立ち上がって本棚の中を覗きこむ。
「あー、そういうことか」
中を見た峻は董子とは逆に納得した顔をして、本棚のファッション誌を抜き出した。
「奈亜のやつ、持ってきた本は持って帰れって言ってるんだけどな」
峻は呆れたように本をベッドに放ると、そのまま座り込む。部屋には董子が勉強するために出した簡易のテーブルがあり、董子とはそのテーブルを挟んで向かい合う形だ。
「……奈亜はこの部屋によく来るの?」
「あぁ、毎日来るよ」
「そっかぁ、そうだよね」
董子が声のトーンを落として目を伏せる。
「どうした?」
峻が董子の顔をしたから覗き込みながら言う。董子の声が沈んでいるのを感じ取ったのかその顔は少し心配そうだ。
「なんでもないよ。……ねぇ、桐生君」
「ん?」
「私、負けないから」
董子は瞳に強い光を宿すと峻に向かって言う。その真意は董子にしか分からない。峻はその言葉をそのままの意味で受け取る。
「あぁ、テスト負けるなよ」
「うん。あははは……ハァ……」
「なんでため息?」
「内緒だよ」
董子はクスリと笑った。どこか呆れているような表情だった。
「何度も言うけど、董子なら大丈夫だ。それにあいつも今日ばかりは苦戦中だろうしな」
「そうなの?」
「あいつは数学とかは天才的だけど、暗記系は苦手なんだよ。どうしても一夜漬けじゃ限界があるからな。記憶ってやつは」
「……すごいね。桐生君ホントに奈亜のことなんでも知ってるんだね」
董子は少しだけ皮肉交じりにそう言ったつもりだった。鈍感な峻はこれくらいの皮肉はまったく気づかずにながされてしまうはずだと思ったのだ。しかしその言葉は峻の心に突き刺さった。
「いや、俺はあいつのこと全然分かってないよ。分かってるつもりになってるだけだ」
峻の脳裏にあの夕日の教室が蘇る。あの時自分が発した言葉が、今は本当に滑稽に感じた。
「……あいつは俺のことどう思ってるんだろうな」
峻は寂しげな表情で呟いた。
「うー……思い出せない……この年号ってなんだったっけー」
奈亜が机に倒れ込んで頭を抱えている。もともと暗記系の教科が苦手なのかあまり捗ってはいないようだった。そんな奈亜に脩一が声をかけた。
「愛沢さん、少し休んだら? 一気に詰め込もうとしてもうまくいかないよ」
「うーん、そうする」
奈亜はぐっと体を伸ばすとそのままの格好で後ろに寝転がる。
「このままじゃ峻に勝てないー……」
「勝負してるのってたしか藤宮さんじゃなかったっけ?」
「そう! でもこれは峻との勝負でもあるから!」
「ははは、愛沢さんはホントに峻と仲良いね」
脩一が言うと、奈亜はぴょこんと起き上がった。
「まぁ、悪いわけはないけどねー。ねぇ、私と峻ってそんなに仲良く見える?」
奈亜は体を乗りだすようにして脩一に尋ねた。脩一は奈亜が近づいてきた分体を引いて答える。
「実際、すごく仲良いじゃん。それも幼馴染の絆ってやつ?」
「ま、まぁねー! えへへっ」
奈亜はとっても機嫌がよさそうに微笑んだ。体を左右にゆらゆらと揺すって今にも鼻歌でも歌いだしそうだった。
「それに毎日この家に来てるくらいだし」
脩一が気を利かせて言ったつもりのその言葉。しかしその言葉を聞いて奈亜は揺すっていた体をぴたりと止めた。そして脩一に気まずそうな視線を向ける。
「えっと……私、両親がいないんだ。だからこの家にお世話になってるの。毎日いるのはそういうこと」
「あ……ごめん」
奈亜の予想外な答えに脩一は慌てて謝罪する。
「別にいいよー。もう七年も前のことだし……」
奈亜が困ったような表情で脩一を見た。脩一はどう反応していいか分からずに無言のままだった。
「そう、なんだ」
口から出るのはただの相槌だけだ。しかし脩一は心の中で聞いてみたいと思った。奈亜のことをもっと知りたいと思う気持ちが湧いてきたのだ。
「愛沢さんのご両親はどうして……その……」
「……事故だったの。自動車の事故」
奈亜はそこで一旦言葉を切った後、再度口を開く。
「私ね、その時はどうすればいいか分からなかった。……ただ泣いてるだけだった。通夜の間も、お葬式の間もずっと。でもその間ずっと峻がいてくれたんだ。私の手をずっと握ってくれていたの」
奈亜は自分の右手を愛おしそうに見つめる。当時のことを思い出しているのだろう。
「でね、私に言ってくれた。『ずっと一緒に居てくれる』って。『ずっとお前の幼馴染でいる』って……あの時の峻はとっても優しかったな」
奈亜は目を閉じる。脩一にはその目の端に光るものが見えた気がした。奈亜はそれを隠すように目の辺りを拭った。
脩一は二人の結びつきの強さを知った。しかしそれと共にある考えも心の中に浮かぶ。
(ずっと一緒にいる……ずっとお前の幼馴染でいるか……でもそれってある意味)
その考えが頭の中でまとまろうとした瞬間、ドンッという音が室内に響いて考えが霧散してしまう。
脩一は驚いて奈亜を見ると、ムッとした表情で不機嫌な顔をしていた。
「あー! そう考えると腹が立ってきた! あの純真な峻はどこにいったの!?」
「あ、愛沢さん?」
「浅田君もそう思わない!? だって今の峻はあんなだよ! 無遠慮、無愛想、無関心! 私を怒らせるのだけは天才! 私がずっと一緒に居てあげたのにどこであんなにひねくれた性格になったんだろ!」
頬を思いっきり膨らませて奈亜が喚く。脩一から見れば、奈亜は言うことはすべて反対だと言わざるを得ないのだが、それはあえて口に出さないことにした。
「……お前が俺のことをどう思ってるのかはよーく分かった」
その時背後から声がした。脩一が振り向くと、部屋のドアが開いていて、峻の顔が覗いている。
「いくらお前でも少しは頑張っているだろうと思って差し入れを持ってきた俺が馬鹿だった。よくまぁそれだけの罵詈雑言がスラスラと出てくるな!」
「ちょっと盗み聞き? サイテー! スパイじゃない!」
「お前のスパイをして俺になんのメリットがあるんだよ!」
「うっさい! スパイは逮捕の上、公開処刑よ!」
「……現在進行形で歴史を勉強しているやつの言葉とは思えんのだが」
二人の会話を頭越しに聞きながら、脩一は二人とも少しは素直になればいいのに……と心の底から思った。




