遅い行軍
馬謖達が成都へ向かった2週間後、蜀軍は長安目指して行軍を開始した。当然、魏からも防衛のために軍が出る。敵は、司馬懿将軍が向かってくるという情報が届いた。司馬懿は、蜀軍を撃退した戦功で大将軍と大都督という軍事の最高の地位に任じられた。実際、魏軍で孔明に敵対できるのはこの人しか居ない。当然の人選である。司馬懿の行軍は異常に早く騎馬のみの部隊を作り、先行しているらしい。地の利を得ようと必死になっているのであろう。それに対して、孔明はゆっくりと進んでいる。いつもの半分とはいわないが、非常に遅い速度での行軍である。(李厳の反乱が気になって思い切った行軍ができないのか?はじめて負けたのだ。しかも続けて2回、気弱になっていても仕方が無い)劉禅は心の中で心配し、孔明を呼んで聞いてみようかと思った。あれから李厳の反乱を鎮圧したという報告は届いていない。
(ええい、色々考えても仕方が無い。軍を動かしているのは臥龍孔明だ。信じて進むのみ)劉禅は腹を括った。結局、5時間の行軍ののち幕営の指示が出た。しかも、1時間ごとに休憩を入れているので、普段の半分しか進んでいない。劉禅は、何度か孔明に遅い行軍の意図を聞きたいと思ったが、孔明を信じればいいと自分に言い聞かせ尋ねなかった。
翌朝、9時から行軍が始まった。これも物凄く遅い。普通は、やや暗いうちからの行軍開始である。またもや、のろのろと進む。休憩を取り。午後になる、と突然物見の兵が
「先に敵影です!」と知らせてきた。急いで出てみると、200騎位の騎馬がこちらに向かってくるのが遠くに見える。孔明が、
「討つな、討ってはならぬ。あれは味方だ。攻撃した者は、死罪にするぞ」と全軍に厳命を伝えた。続いて
「馬岱将軍、騎馬隊を率いてあの1隊をこちらにお連れしてこい。また、離れて後ろから来る者は敵である。攻撃してよろしい」
次に
「王平将軍、盾兵を率いて、あの1隊をお守りしろ。1兵たりとも近づけてはならん。
次に張苞将軍と関興将軍」
はっと二人が進み出る。
「歩兵を率い左右から包囲するように大袈裟に動け、敵はしばらく留まったのち去るであろう。決して追い討ちをかけてはならん。その後はそこに待機し変あれば急ぎ知らせよ」
各将軍達は、急いで指示に従う。さらに、すべての将軍を集めろ、陛下の椅子をお持ちしろと次々と命じる。これぞ我が諸葛亮だと劉禅は嬉しくなる。やがて豪華な椅子が用意された。
「陛下、先日お話した逸材が参りました。そこにお座りになってお目通りを願います。」
孔明が慇懃な態度で劉禅に求めた。劉禅は、一つ頷くと、
(どのような男だろう)劉禅はうきうきして椅子に座った。程なく馬岱が一人の男を伴い現れた。男は劉禅の前に平伏し、
「陛下、ご機嫌麗しゅう。今回は臣の降伏を受け入れて下さいまして感謝の言葉もありません」
「面を上げよ」
劉禅が言うと、男は顔を上げた。年の頃は孔明と同じくらいか。髭には白いものが多く混じっている。座っている姿からも特徴のある猫背であることが伺える。ただ、眼光は鋭く、猫というよりは狼のような印象を与える。まてよ、おおかみ・・・、狼顧の相!
「汝、名を何と申す?」
「はっ、司馬懿仲達と申します」
劉禅は開いた口が塞がらなかった。司馬懿仲達、魏の大将軍ではないか。孔明と並び称される魏の大才・・・。あまりの驚きに劉禅はしばらく動けなかった。すると孔明が、
「陛下、司馬懿殿は戦国の世では珍しく一族愛を第一に考えるお方です。先日、司馬懿殿のご子息達を捕虜にした時に、蜀に寝返って欲しいと頼んだところ・・・、まあ、頼むというか脅したのですが・・・」ここで孔明はころころと笑った。
「承諾してくださいまして、本日のお目通りとなった次第でございます」
劉禅は何度もうんうんと首を激しく上下に動かして頷いた。興奮のため目が血走っている。やがて、椅子を持ってくるように命じ、司馬懿に座るように促した。恐れ多いと辞退する司馬懿を、劉禅は自ら手を取り椅子に座らせた。劉禅自体もちょっと体を動かしたことで気持ちが落ち着いた。
「汝の名前は雷鳴のように朕の耳に入っている。まさか、ここでこのような出会いがあろうとは夢にも思わなかった。」
「臣も同じ思いでございます。失礼ですが、倅の師は元気にしておられましょうか?情けないとお思いでしょうが、気になって話しが頭に入りませぬ」
司馬懿は孔明に尋ねた。孔明は小さく頷き、ここへと命じると兵に囲まれた司馬師が司馬懿の前に現れた。
「父上」
司馬師が司馬懿の前に平伏する。司馬懿はその息子の肩に手を置いて、「生きていたか。良かった。本当に良かった」といって涙を流した。司馬懿は椅子に座りなおすと、
「孔明先生のお約束、万が一にも違える事は無いと思っておりましたが、師の顔を見てようやく安堵いたしました」
「お互いに、戦乱の策士ですから、ご心配に及ぶのも無理はございません。必要とあれば殺します」
「同感です」
孔明と司馬懿の目と目があった。
「でも、良く魏を抜けられたものじゃ。どうやったのじゃ?」劉禅が司馬懿に尋ねる。
「はい、これもすべて孔明先生の策でございます」
司馬懿はそういうと懐から書簡を取り出し、劉禅へ進呈した。劉禅は受け取るとそれに目を通し始めた。
以下全文を記す。
(漢の丞相、諸葛亮これを記す。まず、ご子息方を捕らえたことお詫びする。どうかお許しいただきたい。御長男、司馬師殿は丁重にお預かりいたしておりますゆえ、どうか御心配なさらぬように申し上げる。さて、曹家の世が続き30年が過ぎている。果たして中原の民は幸せなのだろうか?我には幸せとは思われぬ。魏は、度重なる飢饉に民は食べるものが無く、自分の子供を食う者まで現れたと聞く。しかし、魏帝曹叡は民を助けないばかりか、自分の欲望の赴くまま建造物の増築、改築、または毎晩のように開かれる宴のため民に重税や労働を課す。帝を恨む声、世に満ち満ちて天にまで昇ると聞く。君の思う皇帝とは何だろうか。我が思う帝は天が民を救うために遣わした高貴なる人であると思っている。それゆえ民から税を集め、命を下す資格がある。だが君の皇帝曹叡はどうであろうか。お世辞にも皇帝の資質があるとは申せぬ。このような者を懸命に補佐しても君の大才を溝に捨て、名声に泥を塗るばかりではないだろうか。それを我は惜しむ。それに比べ我が主劉禅は、勇敢英明、善良な知識人から教えを受け、皇帝とは何かを絶えず模索しておられる。また、ご自分を律し、精進することこの孔明も頭が下がる思いである。君は仕える者を間違えたのではないか。例え間違えたと気付いても、義理深い君の事、先帝からの恩を思うかもしれないが、我聞く、先帝曹操は、君の才を恐れ司馬家の存続を条件に無理やり仕官させた。また、取って代わられることを恐れ、君の容姿を狼に例え重用してはいけないと申し送ったと聞く。これはたぶん事実であろう。なぜなら、その功績、能力に対しての君が受けている待遇は余りにも低く惨めなものだからだ。また、このまま曹家の世が続き蜀の脅威がなくなれば、司馬家の存続も危うくなるのは君も感じているはずだ。魏にとってこの世は曹家だけのためのもの、我亡き後司馬家は邪魔でしかない。どうか、我が主劉禅の元に駆けつけ、我と共に民の幸せを追求する国を目指していただきたい。おいでいただいた後のことは、我が命に代えてもご心配の無いように保証させていただく。もしも可とするのであれば、2度の戦いに白馬に乗って先頭に現れよ。我は2度大敗し兵を引く。君は急ぎ一族を集め、3度目の軍に合流して欲しい。)
君の友 孔明 伏してここに記す
この文は劉禅の心に染みとおった。特に(我が主劉禅は勇敢英明)の部分は繰り返し読み返した。劉禅はため息をついて書簡から目を離した。
「だから丞相は2度も負けたのか。あの時の鈍重な用兵はおかしいと思った」
「はい、そのおかげで臣は魏の大将軍と大都督になり、自由に兵を動かせる身分になりました。そのため一族を率いて、何とかここに参上することができた次第にございます」
うーん、劉禅は唸った。たったこれだけの文面でこうも鮮やかに一族を連れて投降してきた司馬懿はさすがに見事である。
「このような大才が朕の下に駆けつけようとは夢のような心地がする。昔、先帝は臥龍鳳雛を陣営に迎えたときに、「恵まれ過ぎている。慎まねばならん」と自分を戒めたというが、朕もその心境である。いや、朕には先帝ほどの才も素質も無い。慎むどころではすむまい。敬わねばなるまい。敬わねばなるまい」
劉禅は嬉しそうにそういった。
すると、張苞からの伝令が届いた。孔明の予想通り、敵は暫く留まった後、撤退を始めたらしい。孔明は口元に白羽扇をあて、
「司馬懿殿、この後はどのようになるとお考えか?」
と微笑を湛え彼を試すように質問した。司馬懿は孔明の方に向き直って
「はい、今戻っていった者から、後に控えている軍に私の話が伝わりましょう。私の後を引き継ぐ者は孫礼、堅実な戦をする男にございますれば、要地に陣取り、洛陽への指示を仰ぐでありましょう」
「して、我が軍はどのように動けば?」
「孫礼は、おそらく陳倉に陣を構えましょう。彼は堅実な名将、負けないことを第一に戦をされるとなかなか手強い。本来ならばじっくり構えて策を練り、損害を最小限にして戦いたいところではございますが、なかなか状況がそれを許さない」
ここで司馬懿はにやりと笑った。どうやら、李厳の反乱のことを彼は知っているらしい。これには孔明も驚いたが、孔明はそれを悟られないように小さく悠然と頷いた。司馬懿は続ける。
「策はあるにはございますが、到底受け入れられるものではないでしょう。ここは一度お戻りになって、力を蓄え出直すのが良策と存じます」と頭を下げた。
孔明は下を向き考える仕草をした。長い沈黙、孔明にしては長い間考え下を向いている。やがて顔をきっと上げるとおもむろに劉禅の前に拝跪した。
「陛下、お願いがございます。司馬懿殿に大将軍の職を与え、軍の半分を掌握する権限を与えて頂とう存じます。」
劉禅は、孔明の突然の提案に驚き、うわずった声を上げてしまった。
「な、なに、大将軍とな」
「はい、司馬懿殿の才能、名声は大将軍に相応しい者、決して分不相応ではございません」
「しかし、大将軍は昔からの宿将がなる者、いくら大才のある者でも今会ったばかり・・・」
孔明は、劉禅の話を断ち切って、
「陛下、今は国家存続の時、蜀の中原奪還は今この時に掛かっております。臣ももう若くはありません。ここにいる司馬懿殿も私とそう歳は違わないはず、今です。今を逃したら先帝からの大望を臣は果すことができぬかもしれません」
答える孔明の顔は決意に満ちた表情をしていた。しかし、劉禅は決断できない。まあ無理も無い。さっき会ったばかりの者に10万の兵を与えろという方が無理である。
「陛下、もし司馬懿殿が裏切ったとあれば、この孔明は自らを害し、霊魂となって司馬一族を祟り潰しましょう」
孔明は額を地に付けて深々と拝躓する。それを聞いて司馬懿は孔明の頭の速さに驚くとともに深い恐れと尊敬を抱いた。孔明が提案していることはまさしく彼が考えに考えて出した結論と同じであった。またそれを実行することの決断力、(我、到底この人に敵わず)と心の中で唸った。
そして司馬懿も同様に、
「孔明先生のこの信頼を受けてなぜ背けましょうか。決して背く事はございません。また、大将軍の職は不才の臣には過ぎた職務と思いますが、孔明先生のご推挙を受けて一死を持って粉骨砕身これにあたる決意でございます。どうか臣をご信頼あって大任を任せられますよう」といって孔明の隣に平伏する。
(司馬懿が裏切って、孔明が自害する・・・)
その想像をしただけで劉禅は震えた。
「う~~~~~~~ん」劉禅は唸った。
「司馬懿よ、少し聞きたい。蜀の脅威がなくなると司馬家の存続が危うくなると丞相の書簡にあったがどういうことか?」
「はっ、魏において司馬家は度々お家取り潰し寸前までの状態になっております。しかし魏で・・・、いやこの中華において孔明先生に対抗できるのは、大言のようでございますが臣一人でございます。それゆえ魏帝曹叡は私のことを害することが出来ずにいます。しかし孔明先生が居なくなれば、曹叡は目障りな司馬家を即刻取り潰しましょう」
「なるほど・・・、司馬懿よ、心配するでない。朕はそのようなことは中華の民に誓っていたさぬ。その功に相応しい恩賞を与え、重く用いるであろう。・・・今一つ聞きたい」
「はっ、何なりと」
「そなたにとって大事な物・・・、つまり譲れないことはなんじゃ?」
「家族の安寧にございます。または民の平和とも言えましょう。民の平和無くして我が家族の安寧は無い。つまり第一に譲れないものは民の平和にございます」
その言葉を聞き、劉禅の脳裏には李星彩が浮かんだ。
「良い。とても良い。もし、朕がそちの願いに背くものになったら、朕を倒しに来い!」
言い放ち劉禅は立ち上がると腹を括った。
「分かった。相父のいう通りにする。元々は相父が造った国、最後まで朕は付き合うぞ!」
孔明は顔を上げると、
「恐れ多い。恐悦至極に存じます」
と頭を下げ続けた。その肩は震えていた。
こうして蜀軍20万は、第1軍10万を孔明が率い、子午谷から長安を目指し、第2軍を司馬懿が率い陳倉にいる孫礼にあたる事にした。劉禅は孔明の軍に従いたいと思ったが、成都から李厳の謀反を鎮圧したという連絡もないので成都へ帰ることを決めた。劉禅が幕宿で休んでいると、行軍の準備が整ったという連絡が届いた。劉禅は急ぎその場へ向かう。やがて孔明、司馬懿の姿が見える。二人は急いで劉禅の前に拝跪した。
「陛下、ご機嫌麗しゅう。」
「うむ、二人とも国の存亡が掛かっておる。よろしく頼むぞ」
「はっ」
「よいか、万が一敗れても朕が控えておる。決して無理をせず、体を労わってくれよ」
「ありがたきお言葉」
二人は立ち上がると向かい合った。
「孔明先生、別れる前に一つお聞きしたいことがございます」
「何ですかな?」孔明が首を傾げる。
司馬懿は言いにくそうに
「山上での対陣、なぜ水が切れなかったのか?それだけがわかりませぬ。その・・・分からないと考えこむ質でしてな。すっきりして戦場に向かいたいと思いまして・・・」
それを聞くと孔明はホロホロと笑って、
「司馬懿殿をしてもわかりませぬか?」
「お恥ずかしいがとんと分かりませぬ」
「私もそれを聞いた時には度肝を抜かれました」
「ちょっとお待ちください。あの山上の陣は孔明先生の策ではございませんのか?」
「いかにも」孔明は嬉しそうに頷き、
「あの策は、我が陛下の策にございます。司馬懿殿、あの山上に居た兵は100名です」
それを聞いた司馬懿は目を見開き驚いた。
「・・・声になりませんな。たったの100名?さすがに我が君は英雄であらせられる」
3人は声を合わせて笑った。ただし、(今更怒りに任せてとはいえぬ)と劉禅の顔は引き攣っていたが、
「長安に先に達するのは孔明先生でしょう。私もすぐに参りますので暫しお待ちください」
「司馬懿殿、我々は同じ志を持つ友ではありませんか。先生はやめましょう」
「ならば字で・・・」
司馬懿は大きく深呼吸をしてから
「孔明、ご武運を!」
「仲達、長安で待つ。遅れずに来いよ!」
二人は肩を叩き合って、笑いながら別れた。
「成都のことは朕に任せい。魏の攻略は頼んだぞ」
「陛下直々の御親征、孔明、露ほどの心配も致しておりませぬ」
劉禅が嬉しそうに頷く。
二人はそれぞれの軍を率いて行軍を開始した。その姿が小さくなるまで劉禅は見送っていた。
「本当に頼もしい、あの二人が敗れるところは想像ができぬ。よし、朕も行くとしよう。皇帝旗を掲げよ」
蜀の未来は明るい。劉禅は颯爽と愛馬清流に跨り、成都を目指し走り出した。
成都へと戻る劉禅のお供は姜維と司馬師。その二人が各隊から選りすぐって集めた1000騎の騎馬隊がついている。姜維が先頭を走り、その後ろを劉禅、劉禅の隣を司馬師が護衛する。
「馬謖達から何の連絡もないのはおかしいのう。姜維よ、何か聞き及んではおらんか?」
「いえ、臣は何も聞いてはおりません」
「司馬師はどうじゃ?」
「いえ、何も・・・」
劉禅は馬上で腕を組み考える仕草をした。
「あの者たちが向かって2週間以上になる。滄海や趙兄弟がおるから大丈夫だと思うが心配だのう。急ぐとするか」
劉禅は速度を上げた。
次回は「成都へ向かい」です。楽しみにしていてくれたら嬉しいです。では!




