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手錠  作者: 夕月 悠里
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その手錠は、この世のどんな宝石よりも美しく、そしてどんな刃物よりも恐ろしかった。地下牢の淀んだ空気を切り裂くように、凛とした足音が響く。松明の揺れる明かりが、鉄格子の中に差し込まれた。鎖に繋がれていた男、グレイ・アルスターは、乱れた前髪の隙間から訪問者を見上げた。


「……まさか、姫様自らがおいでなさるとは」


乾いた唇で皮肉を紡ぐ。だが、鉄格子の向こうに立つ少女――この国の第一王女、アイリス・ルミナスの瞳は、冷徹なまでに凪いでいた。彼女の手には、ビロードの布が敷かれた盆が握られている。その上に鎮座しているのは、透明な輝きを放つ拘束具。


「グレイ。貴方には『硝子の審判』が下されました」


アイリスの声が、地下牢の石壁に反響する。


「目的地は、北の霊峰にある『真実の鏡』。そこへ辿り着くまでの間、貴方は私とこの手錠で繋がれます」


グレイは息を呑んだ。硝子の手錠。それは、魔術大国ルミナスに伝わる、最も残酷で、最も美しい処刑道具だ。硬度を持たず、通常のガラスと同じ脆さで作られた手錠と鎖。もし移動中に鎖が砕けたり、手錠にヒビが入ったりすれば、即座に強力な呪いが発動し、繋がれた二人の心臓を止める。生き延びる条件はただ一つ。互いの呼吸、歩幅、そして意思を完全に同調させ、硝子を割らないように目的地まで歩き続けること。


「……正気ですか。俺は国王暗殺の嫌疑をかけられた大罪人だ。そんな男と命を繋ぐなど」

「貴方が本当に父を殺したのか。それを確かめるための旅でもあります」


アイリスは牢の鍵を開け、静かに中へ入ってきた。彼女はグレイの左手首を掴み、冷たい硝子の輪を嵌めた。カチリ、という硬質な音が響く。続いて、自身の右手首にも同じものを嵌める。二人の間には、わずか三十センチほどの、細く透明な鎖が渡された。


「立ちなさい、騎士グレイ。少しでも乱暴に動けば、私たちは二人とも死にます」


その言葉は脅しではなかった。グレイが僅かに腕を引いただけで、硝子の鎖はキシリと悲鳴を上げたからだ。


「……御意」


かつての近衛騎士団長は、深いため息と共に立ち上がった。こうして、世界で一番脆い絆に繋がれた、二人の決死行が始まった。


第一章:砕け散る世界の中で


王都を抜け、北へと続く街道は「水晶の荒野」と呼ばれていた。かつての大戦で魔法が暴走し、大地そのものが結晶化した不毛の地だ。地面は鋭利なクリスタルで覆われ、歩くことさえ困難な場所である。


ジャリ、ジャリ。水晶の砂を踏む音が、静寂の中に響く。グレイとアイリスは、まるでダンスを踊るように慎重に歩を進めていた。グレイが右足を出す時、アイリスも同時に右足を出す。腕の振りも、呼吸のタイミングも合わせなければ、鎖に負荷がかかる。


「……歩幅を少し広げてください、姫様。日が暮れます」

「無茶を言わないで。私の足の長さと貴方のそれは違うのです」


アイリスが少し苛立ったように言い返した瞬間、彼女のブーツが結晶の突起に躓いた。


「あっ」体が前のめりになる。


普通の状況なら、グレイが腕を引いて支えるところだ。だが、今はそれができない。急に引っ張れば、その衝撃で硝子の鎖が砕ける。


グレイは瞬時に判断した。支えるのではなく、自らも同じ方向へ倒れ込むのだ。彼はアイリスの転倒速度に合わせて体を沈め、地面に手をつく寸前で彼女の体を抱き込むようにして、滑り込むように着地した。キィィン……。鎖が地面の水晶に触れ、高く澄んだ音を立てた。だが、割れてはいない。


二人は重なるようにして荒野に転がっていた。至近距離で視線が絡む。アイリスの碧眼が、恐怖で見開かれていた。


「……死ぬかと思いました」

「俺もです。心臓が止まるかと思った」


グレイは苦笑し、ゆっくりと体を起こした。もちろん、アイリスの動きに合わせて。


「姫様。貴方は俺を疑っているから、動きが硬いのです。心が拒絶すれば、体も拒絶する。この手錠はそういうものです」


アイリスは土埃を払いながら、グレイを睨みつけた。


「当然です。父上の寝室から短剣を持って出てきた貴方を見て、どうやって信じろと言うのです」

「俺は……現場に駆けつけただけだと言っても、信じないでしょう」

「ええ。だからこそ、この手錠なのです。古代の魔術師は言いました。『硝子は魂を映す』と。もし貴方が真に潔白で、私を守る意志があるなら、この脆い鎖は決して砕けないはずだと」


それはあまりに理不尽な精神論だった。だが、この国では魔術こそが法であり、絶対だ。グレイは空を見上げた。空の色さえも、水晶の反射で白く濁って見えた。目的地である霊峰までは、あと三日の道のりだ。



二日目の夜。二人は岩陰で身を寄せ合って野営をしていた。手錠は外せないため、眠る時も隣り合わせだ。焚き火の爆ぜる音が、気まずい沈黙を埋めていた。不意に、グレイが鋭く息を吸い込んだ。


「……姫様。起きてください」

「何です、か……」

「敵です」


闇の中から現れたのは、全身を黒衣に包んだ数人の男たちだった。手には曲刀が握られている。王の死に乗じて姫の命を狙う反対派の刺客か、あるいは単なる野盗か。


「硝子の手錠か。好都合だ。動けまい」男の一人が嘲笑いながら切りかかってきた。


絶体絶命だった。剣を抜くことさえ、この手錠をしたままでは困難だ。回避行動をとれば鎖が割れる。受け止めれば衝撃で割れる。アイリスが息を呑み、身を竦ませた。


「姫様、俺に命を預けてください」グレイが耳元で囁いた。

「私の動きを完全に模倣するのです。鏡のように」

「無理です!戦闘なんて!」

「できます。貴方は私が教えた剣術を覚えているはずだ」


刺客の刃が振り下ろされる。その瞬間、グレイは動いた。アイリスも、反射的にそれに従った。かつて、幼い彼女に剣の稽古をつけた日々が、体に染み付いていたのだ。


二人は同時に半歩右へ踏み込み、体を捻った。刃が鼻先を掠める。グレイはそのまま回転の勢いを利用し、アイリスの手首ごと自分の右腕を振り上げた。二人の腕の間にある硝子の鎖が、遠心力でピンと張る。グレイはその鎖を、あろうことか敵の首に引っかけた。


「なっ!?」男が驚愕する。


鎖を引けば硝子が割れてグレイたちが死ぬはずだ。だが、グレイは引かなかった。アイリスの動きと完全に同調し、二人の腕を「一つの巨大な輪」のように動かして、男の体勢を崩したのだ。柔術に近い動き。硝子に負荷をかけず、相手の重心だけを奪う神業。男が地面に倒れ込む。


「次!」グレイの号令に、アイリスの迷いが消えた。


二人は一人の人間のように舞った。右へ、左へ。踏み込む足音は一つに重なり、呼吸は完全にシンクロする。硝子の鎖は月光を浴びて煌めき、まるで二人の間を流れる光の川のように見えた。それは戦闘というよりは、死と隣り合わせの舞踏ワルツだった。


最後の一人を蹴り飛ばし、刺客たちが逃げ去った時、二人は肩で息をしながら立ち尽くしていた。硝子の手錠には、ヒビ一つ入っていなかった。


「……信じられない」アイリスは自分の手首を見た。


「あんなに激しく動いたのに」

「心が合っていたからです」


グレイは汗を拭い、アイリスを見た。


「貴方は俺を拒絶しなかった。俺の動きを信じ、委ねてくれた。だから硝子は割れなかった」


アイリスは言葉を失い、グレイを見つめ返した。その瞳から、以前のような冷徹な疑念は消え失せていた。繋がれた右手から伝わる、彼の脈動。それが嘘偽りのない、騎士としての鼓動であることを、彼女は肌で感じていた。



三日目。吹雪く霊峰の頂に、二人は辿り着いた。そこには、古代遺跡のような祭壇があり、中央に巨大な氷の鏡が鎮座していた。『真実の鏡』だ。二人の体は冷え切り、疲労は限界に達していた。それでも、手錠は透明な輝きを保ったままだ。


「……着きましたね」


グレイが膝をつきそうになるのを、アイリスが支えた。今度は自然に、鎖を意識することなく。


「グレイ。鏡を見る前に、私はもう答えを知っている気がします」


アイリスは静かに言った。


「父を殺したのは貴方ではない。これほどの信頼と調和を持てる人間が、王殺しなどできるはずがない」

「姫様……」

「ここで鍵を開けましょう。鏡になど問う必要はありません」


アイリスは懐から、手錠の解除鍵を取り出した。


だが、その時だった。祭壇の影から、拍手が響いた。


「素晴らしい。まさか本当に『硝子の審判』を乗り越えるとは」


現れたのは、宰相のバルドだった。その後ろには、武装した私兵たちが控えている。アイリスの顔色が蒼白になる。


「バルド……どうしてここに?」

「簡単なことです。グレイを犯人に仕立て上げ、この危険な旅路で貴方たちが野垂れ死ぬのを待っていたのですよ。ですが、思ったよりもしぶとい」


バルドは歪んだ笑みを浮かべた。


「王を殺したのは私だ。そして今、ここで姫が『脱走した大罪人グレイ』に殺されたとなれば、私が国を憂いて新王となる大義名分ができる」


やはり、そうだったのか。グレイは歯噛みした。だが、状況は最悪だ。疲労困憊の二人に対し、相手は万全の兵士たち。しかも、まだ手錠は繋がれたままだ。


「やれ」バルドの合図で、兵士たちが一斉に弓を構えた。


「姫様!」グレイはアイリスを庇うように前に出ようとした。だが、硝子の鎖がそれを阻む。可動域が足りない。


「……グレイ」


アイリスが、決意を秘めた瞳で彼を見た。彼女は鍵を地面に捨てた。


「え?」

「割ります」彼女は短く告げた。


「手錠を割れば、呪いが発動します。でも、呪いが心臓を止めるまで数秒の猶予があるはず」


「何を言って……っ!?」

「その数秒で、貴方は自由になる。バルドを討ちなさい」

「そんなことできるわけがない!貴方が死ぬ!」


「二人とも死ぬよりはマシです!私の命を使って、国を守りなさい!これは王女としての命令です!」


アイリスは叫ぶと、持っていた短剣の柄を、二人の間にある硝子の鎖へと振り下ろそうとした。


パリン。


乾いた音が、雪山に響いた。だが、それはアイリスが叩き割った音ではなかった。兵士の一人が放った矢が、偶然にも、二人の間の硝子の鎖を射抜いたのだ。


硝子の破片が、ダイヤモンドダストのように舞い散った。手首の輪が砕け散る。絶対の死の呪いが、解き放たれた。


「しまった!」バルドが叫ぶ。


「呪いが発動するぞ、下がれ!」


グレイとアイリスは、その場に崩れ落ち――なかった。心臓を掴まれるような激痛が来るはずだった。だが、何も起きない。ただ、手首が軽くなっただけだ。


「……なぜ?」


アイリスが呆然と呟く。グレイは、砕け散った硝子の破片を見て、理解した。


「共鳴、していたんだ」


彼は静かに言った。


「伝説には続きがある。『二人の魂が完全に共鳴した時、硝子の手錠はただの飾りとなり、呪いは祝福へと変わる』と」


この数日間の旅で、二人の魂はあまりにも深く繋がりすぎていた。互いの痛みを共有し、呼吸を合わせ、命を預け合った結果、硝子の手錠はもはや彼らを縛るものではなく、二人の絆そのものに変質していたのだ。絆が物理的な形を失っても、魂の繋がりは消えない。だから呪いは発動しなかった。


「……あ、ありえん!」


バルドが後ずさる。グレイは立ち上がった。その体から疲労は消え失せ、凄まじい気迫が立ち昇っている。手首にはもう枷はない。だが、背中にはアイリスの視線という、何よりも強い力が宿っていた。


「罪の精算をしよう、バルド」


グレイが抜剣し、雪原を疾走した。それは一方的な戦いだった。枷から解き放たれた近衛騎士団長の剣技は、稲妻のように宰相の野望を切り裂いた。



事件の後、グレイの無実は証明され、バルド一派は捕らえられた。王都に戻ったアイリスは、女王として即位した。戴冠式の日。バルコニーに立つアイリスの傍らには、再び近衛騎士団長の白マントを羽織ったグレイの姿があった。


「……手首が、少し寂しい気がしますね」


アイリスが小声で呟く。彼女の視線は、かつて硝子の手錠が嵌められていた自分の手首に向けられていた。


グレイは苦笑し、一歩近づいた。そして、人目につかないように、そっと彼女の小指に自分の小指を絡めた。硝子よりも脆く、しかし何よりも強い絆。


「俺たちには、もう硝子は必要ありません」


グレイが囁く。


「目には見えなくとも、俺の魂は常に貴方と共にあります。貴方が右へ進めば俺も右へ。貴方が躓けば、俺が支える」


「……ええ」


アイリスは頬を染め、小指に力を込め返した。


「でも、歩幅は合わせてくださいね。私の足は貴方より短いのですから」


二人は顔を見合わせ、小さく笑った。その笑顔は、水晶の荒野で見せたどんな表情よりも、美しく輝いていた。硝子の手錠は砕け散ったが、二人の間にある「透明な鎖」は、永遠に彼らを繋ぎ続けるだろう。

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