第10話 三十八歳の通信簿
その日の東京の空気は、誠一にとって少しだけ違って感じられた。
空はいつもと同じように高く、ビルはいつもと同じように無機質にそびえ立っている。だが、彼の目に映るその全ての風景が、どこか色鮮やかに、そして意味を持っているように見えた。
月に一度の約束の日。
娘の光に会う日だ。
彼は、新宿のデパートの地下食品売り場で、少しだけ不器用な手つきでケーキを選んでいた。色とりどりのフルーツが宝石のように飾られたショートケーキ。濃厚なチョコレートの香りがするザッハトルテ。そのあまりにも平和で、そしてどこまでも幸福な光景の中で、彼は先月までの自分をぼんやりと思い返していた。
あの頃の自分だったら、きっと娘の好きなケーキ一つ、ろくに覚えてはいなかっただろう。ただ義務のようにこの場所に立ち、一番値段の高いものを何も考えずに買っていたに違いない。
だが、今の彼は違った。
彼は真剣だった。
(…光のやつ、最近は抹茶のスイーツにハマってるって言ってたな)
彼は、ショーケースの隅に一つだけ残っていた美しい緑色の抹茶のモンブランを見つけ出すと、店員にそれを指差した。
そのささやかな、しかし確かな変化。
それが、彼がこの一ヶ月で手に入れた最も尊い「成長」だったのかもしれない。
◇
彼が、元妻と光が暮らす都内の閑静な住宅街にあるマンションのインターホンを鳴らすと、すぐに聞き慣れた、しかしどこかよそよそしい声が応えた。
「…はい」
「…俺だ。誠一だ」
「…ええ、分かってるわ。どうぞ」
重いオートロックの扉が、ゆっくりと開かれる。
そのあまりにもビジネスライクな、そしてどこまでも他人行儀なやり取り。
それが、彼と元妻との今の距離感を雄弁に物語っていた。
玄関のドアを開けてくれたのは、元妻の佳子だった。
彼女は、その美しい顔に一切の感情を浮かべることなく、ただ事務的に彼をリビングへと通した。
「光なら、もうすぐ帰ってくるわ。お茶でも淹れる?」
「ああ、頼む」
そのあまりにも短い会話。
その後に続く、重い、重い沈黙。
誠一は、その気まずさに耐えきれず、リビングの窓から外の景色を眺めた。
ここから見える風景は、彼がまだこの家に住んでいた頃と何も変わっていなかった。
だが、その風景の中に、もう自分の居場所はない。
「――あら」
その重い空気を破ったのは、佳子の素っ頓狂な声だった。
彼女は、キッチンでお茶の準備をしていた手を止め、その大きな瞳を、信じられないものを見るかのように誠一のその全身へと向けていた。
「貴方。運動でも始めたの? 少し痩せたわね」
そのあまりにも意外な、そしてどこまでも他人事のような一言。
それに、誠一はふっとその口元を緩ませた。
そして彼は、この日のためにずっと考えていたその衝撃の事実を、告げることにした。
それは、彼なりのささやかな、そして最後の見栄だったのかもしれない。
「ああ。仕事、辞めてな」
「え?」
佳子のその美しい眉が、わずかにひそめられた。
「冒険者、始めたんだ」
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
そして、その静寂を破ったのは、佳子の心の底からの、そしてどこまでも冷徹なため息だった。
「…はぁ。あなた、馬鹿じゃないの?」
◇
「――ただいまー!」
その重苦しい空気を救ってくれたのは、一つの太陽のような声だった。
玄関のドアが、勢いよく開かれる。
そしてそこに、第一新星高校の真新しい制服に身を包んだ光が、その笑顔と共に飛び込んできた。
「あ! お父さん! 来てたんだ!」
彼女は、その手に持っていた学生鞄をその場に放り出すと、一直線に誠一の元へと駆け寄ってきた。
そのあまりにも無邪気な、そしてどこまでも温かい光景。
それに、誠一のそのささくれ立っていたはずの心が、じわりと癒されていくのを感じた。
「――えーーーーーっ!?」
誠一の、そのあまりにも唐突な告白。
それに、光のその大きな瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれた。
「お父さん、冒険者始めたの!!!!」
彼女は、その場でぴょんぴょんと飛び跳ね、その興奮を全身で表現していた。
そのあまりにも純粋な、そしてどこまでも熱狂的な反応。
それは、先ほどの佳子のあの氷のような反応とは、あまりにも対照的だった。
「すごい! すごいじゃん! え、じゃあクラスは!? ビルドは何???」
彼女は、矢継ぎ早にその専門的な質問を叩きつけてきた。
そのあまりにも生き生きとした、そしてどこまでも楽しそうな表情。
それに、誠一は最高の、そしてどこまでも誇らしげな笑みを浮かべて答えた。
「ああ。ポイゾナスコンコクションで、フラスコ投げだよ」
「えー! 良いなー!」
光は、その顔を羨望の色に染め上げた。
「フラスコ投げビルド、今、初心者の間で一番アツいって言われてるやつじゃん! いいなー! 私も早くダンジョン潜りたいのに!」
彼女はそう言うと、その小さな唇を不満げに尖らせた。
「私、第一新星高校に入ってダンジョン冒険者部に入ったのに、最初に少しダンジョンに入っただけで、あとはダンジョンの座学ばっかりだよ」
「え、そうなのか?」
誠一は、その意外な事実に驚きの声を上げた。
「そうだよ!」
光は、その不満を堰を切ったように語り始めた。
「第一新星高校以外に行った子は、もうダンジョン入りまくってるらしいし! うちの学校、『基礎が大事』とか言って、モンスターの生態学とか、ダンジョン物理学とか、そんなのばっかり! 最初が肝心とはいえ、ダンジョンの座学ばかりはつまんないよー!」
そのあまりにも贅沢な、そしてどこまでも学生らしい悩み。
それに、誠一は腹を抱えて笑い出した。
「ははは! 確かにな!」
彼のその温かい笑い声。
それに、光はその頬をぷくりと膨らませた。
「でも、お父さんはいいなー! もうダンジョン潜ってるんでしょ? どう? 楽しい?」
「ああ」
誠一は、頷いた。
「ダンジョン潜り始めて、調子が良いよ。それに、ギルドにも入ったんだ。月詠に」
「えっ!?」
光のその大きな瞳が、再び信じられないというように大きく見開かれた。
「月詠に入ったの!? 良いなー! 日本最強ギルドじゃん!」
彼女の、そのあまりにも純粋な、そしてどこまでも尊敬に満ちた眼差し。
それに、誠一のその心は、これ以上ないほどの誇らしい気持ちで満たされていた。
「今は、家もそこだよ」
「家がギルド島って事!? 良いなー! 一度行ってみたい!」
「ああ。飯も美味いし、無料だしで、いい所づくめだな」
誠一がそう言って自慢げに笑うと、光のその羨望の色は頂点に達した。
「えー! お父さんだけ良いなー!」
彼女は、その場でジタバタとその悔しさを表現した。
「第一新星高校のギルド島、まだ連れて行って貰ってないしなー! 早く行きたいし、勉強もしないと!」
彼女はそう言うと、はっとしたようにその顔を上げた。
そして、その瞳には、新たな、そしてどこまでも力強い決意の光が宿っていた。
「…そっか。勉強しないと、ダメなんだ」
彼女は、そのあまりにも単純な、しかしどこまでも重要な真実にたどり着いたのだ。
そのあまりにも健気な、そしてどこまでも愛おしい娘の姿。
それに、誠一は、その小さな頭を不器用な手つきで、しかしどこまでも優しく撫でた。
そして、彼は言った。
その声は、もはやただの父親ではない。
同じ道を歩む一人の「先輩」としての、温かい、そしてどこまでも力強いエールだった。
「――ああ。勉強は大事だからな。勉強しな」
その言葉に、光は最高の笑顔で頷いた。
「うん!」
そのあまりにも温かい、そしてどこまでも尊い父と娘の時間。
それを、キッチンから佳子が、その無表情の、しかしその奥にほんのわずかな、そして確かな温かい光を宿した瞳で、静かに見つめていた。
彼女のその凍てついていたはずの心が、ほんの少しだけ溶け始めた、そんな気がした。
斎藤誠一の、新たな人生。
それは、彼が失いかけていた最も大切な「絆」を、再び紡ぎ直すための物語でもあったのだ。




