氏真の決断
場面を遠江三河決戦中の今川と徳川の戦いに戻します。
今川氏真は、自分が家督を継いだ後、急にうるさくしゃしゃり出てきた祖母を疎ましくも思いつつも、頼りにしていました。駿河の国衆は今川の血筋を引くものも多く、氏真の言うことよりも寿桂尼の言うことの方が響く者も多かったのです。その寿桂尼が死んだ今、また裏切る者が出るかも知れないという不安にかられました。今川館には信頼できる朝比奈泰朝がいますのですぐにどうこうなるわけではないでしょうが居ても立っても居られない状況になっていました。岡部正網に後を託し駿河へ戻ろうとした矢先、そこに、
「武田軍が駿河へ攻めて参りました。お味方は薩埵峠に陣を敷き待ち構える模様」
と、早馬の知らせがありびっくり仰天です。すぐさま重臣を集めて軍議に入りました。集められたのは、岡部、一色、由比、井伊、小笠原の各将です。
「武田が裏切って駿河へ攻めて参ったそうだ。彩が嫁いだというのにあの役立たずめが。すぐに北条へ援軍を頼み全軍で武田討伐へ向かう」
「お屋形様、お待ちください」
岡部が口を挟んだ。
「なんだ岡部、昨日は余だけで戻るつもりであったが状況が変わった。今すぐ戻らねば駿河が危ないのだ」
「申し上げます。まずこの戦はどうされるのです。せっかくのこの機会をここまで攻めておいて諦めるのですか?それに全軍で駿河に向かえば家康は追ってきます。そのまま遠江を荒らされてしまいますぞ」
それを聞いて一色は、
「そうは言っても岡部殿。お屋形様のご意見も分かるであろう。家康を倒して戻るか、今すぐ戻るか、いや、抑えを残して戻るのが最善かと思われまする。全軍で戻れば家康と武田に挟まれる事も考えねばなりますまい」
一色は話しながら妙案を思いついたようで抑えを残す事を提案してきました。井伊は黙っています。軍議に出ているとはいえ格が下なのです。氏真は、皆の顔を見て、遠江は遠江勢に守らせ駿河勢が戻るのがいいと思いつきました。
「井伊、小笠原はここに残り徳川を食い止めよ」
それを聞いて井伊直虎は叫びます。
「お待ちくださいお屋形様。小笠原殿と井伊勢だけでは到底徳川の軍勢に立ち向かえませぬ。犬死をしろというご命令か?」
それを聞いた小笠原は、
「井伊殿に同意いたす。ここで食い止めるのは無理でござる。曳馬まで引き、周囲の国衆と協力して事に当たりたいが如何?」
井伊直虎はそれでは不味いとさらに食い下がります。
「小笠原殿、それでは時間を引き延ばすことはできましょうが援軍を期待できません。お屋形様が武田を討って戻ってくるまでは持ちませんぞ」
「井伊殿は死を恐れておいでか?」
「何を申されますか。今川が生き残るにはここにいる全軍で徳川を倒してから駿河へ戻るべきだと考えます。それが一番可能性が高い」
確かに井伊直虎の言う通りだった。中途半端に駿河へ戻っても駄目だろう。議論を重ねたが結果は同じでした。
「お屋形様。ご決断を!」
岡部の声に促されて今川氏真は、
「小笠原の案でいく。一気に引いては徳川が追ってくる。余と岡部がまずは駿河へ向かう。その後を一色、由比が追って参れ。遠江は小笠原に采配を任せる。よいな!」
と決断を下し、駿河へ戻る準備を始めました。遠江各地へ伝令が飛びました。
「小笠原殿。ここに遠江の軍勢を集められましょうか?」
「井伊殿、ここへは無理でござろう。国衆は自分の土地を守ろうとするはずだ。我らが引いたとして徳川は浜名の湖は渡らず陸路を進むはず。井伊谷、二俣、伊耶佐、曳馬の国衆が地元で協力すれば持ち堪えられるのではないか」
「ですが、一つ気になる事があります。徳川と武田が組んで今川を攻めているとしたらどうなりましょう?」
「恐らくそうであろう。そう考えるのが筋というものだ。どう転んでも挟み撃ちだ、ここに活路を見出さねばならん」
直虎はカマをかけてみました。
「徳川へ下るのですか?」
「お屋形様次第ではな。駿河へ戻ってどうなるのか?そもそも駿河まで戻れるのかすら怪しいものだ。なあ、井伊殿。井伊殿のように氏真公を恨んでいるものはこの遠江には多くいる。無事に帰れればいいのう」
「私は自分の国を守りたいだけです。それこそ誰がお屋形様でもいい」
「本音が聞けましたな。井伊殿は伊耶佐へ引かれると思うがわしは曳馬へ引く。お互いに生き残ろうぞ。この後はもう井伊殿と話す機会がないかも知れん。ご武運を、な」
「ご武運を!」
井伊直虎は氏真を殺す機会を伺っていましたが実りませんでした。ここで氏真を殺すとそれこそ軍はバラバラになり統率が取れなくなります。桶狭間で今川義元が死んだ時の混乱の再発です。それはそれで井伊が生き残るのが難しくなると考え踏み切る事ができませんでした。生き残りさえすれば武田が助けてくれるはずです。死んだ許嫁の井伊直親は、謀反の疑いで殺されそうになり一時期武田領の伊那へ逃げていた事があり、井伊谷と武田には今までも縁がありました。これからの縁が続くためにもここで生き残らなければなりません。
そして、今川氏真と岡部は四千の兵を連れて陣を離れました。その様子を徳川の物見は見ていました。




