遺言
屋根の方から黒装束の男が現れました。左脇腹を抑えています。景勝派の直江信綱はこいつが犯人だと決めつけ捉えようと一目散に駆け寄ろうとしましたが誰かに足をかけられて転倒してしまいます。そのまま転がって黒装束の男の近くまで行ってしまいました。
「捕らえよ!」
景勝が叫び配下の者が駆け寄ろうとしたところ、黒装束の男は直江信綱を捉まえて忍者刀を喉元へ突きつけます。兵が一瞬動きを止めたのを見た男は顔の前に焙烙玉を持ち爆発させました。
事件現場の検証が進んでいます。黒装束の男の顔は爆発でぐちゃぐちゃになり元の顔はわかりません。所持品も身元を特定できる物はありませんでした。直江信綱は爆発に巻き込まれて重傷を負っています。
謙信は寝ているところをそのまま斬られています。甚内は手に忍者刀を持っていますが血痕はなく、相手と刀を合わせる前に斬られたように見えました。
事態は急速に変化していて、誰もが冷静さを失っていました。謙信が殺されて、その天井に忍びが潜んでいた。その忍びは自害しました。景虎派も景勝派もやったのはお前らだと言いたげで水面下でバチバチしています。
景勝を見ると、一息つけたのか落ち込んでいます。義理とはいえ父親を失ったのですから当然でしょう。景虎は腕を組み目をつぶり考え込んでいます。たまに笑みが浮かぶのが不気味です。そして、お互いの配下達は目を血走らせてにらみ合いです。
その異様な空気に危険を感じたのか、徳は
「お屋形様。時をおいてからの方が。このままでは………、」
勝頼は徳の目を見て徳の感じている不安を理解しました。徳の言う通り一度時間を置くべきか。
「各々方、謙信公が殺され、曲者まで現れた。曲者は身元がわからぬよう自害、なにやら出来過ぎのような感もあるが事実」
話しだした勝頼に重臣達が顔を向けます。怒っている、不安そう、悲しそう、色々な顔をしています。勝頼は話を続けます。
「謙信公を殺害したのがこの曲者なのか?それともこの曲者はただの見張りなのか?調べるには時間がかかるであろう。それに各々方のお顔を拝見するにだいぶ混乱されている様子。このような事態になり混乱しない方がおかしいゆえ時を設けたらどうかと思うが如何?」
景虎が目を開きました。そして勝頼に刃向かうように、
「武田様、これは上杉家の問題でござる。先程も申した通り口を挟まないでいただきたい」
しつこいな、こいつ。
「尤もでござる。余計な事をした事をお詫びする。では、謙信公の遺言をどうされるか決めていただきたい」
「本当に遺言状はおありなのですか?」
「余を疑うのか?」
「そのような大事な事をそれがしも景勝殿も知らされていない。それを信じろと言うのですか?」
仕方がない、奥の手を出すか。
「そう言うだろうと思っていた。北条高広殿、斎藤朝信殿、前へ」
北条高広、きたじょうと読む。ほうじょうと紛らわしいが景勝派だ。斎藤朝信は景虎派であり、この2人は上杉謙信が絶大な信用を寄せる上杉家の重臣でもある。景勝や景虎も頭が上がらない存在だ。
「やはり遺言状は信用されなかった。お二方より説明願いたい」
北条と斎藤は顔を見合わせてため息をついた。そして文句を言っている景虎に向かって景虎派の北条が、
「遺言状は存在いたします。それがしと斎藤殿が立ち会っております」
景虎が突っかかります。
「それは真か?それならばなぜわしが呼ばれんのだ。おかしいではないか?」
「お屋形様は倒れられた後でも跡目を決めませんでした。ただ、このままではお屋形様の死後に跡目争いが起きます。お屋形様はご自分の死後は勝手にやればいいと思っていたようです。ところがここにいらっしゃる武田勝頼様と徳様が越後を戦場にしたくないとお屋形様を説得されたのです。それがしと斎藤殿が呼ばれ、目の前で遺言状を書き、武田様にお預けになられました。お屋形様からはこの事は内緒にするようきつく言われておりましたので景虎様にもお話ししませんでした」
ここで斎藤にバトンタッチです。
「本来なら今日、一同を前にお屋形様がどちらに家督を譲られるのか発表するはずでした。その内容はそれがしも北条殿も知らされておりません。武田様もご存知ないはず。お屋形様は遺言状をしたためたあと封をして武田様へお預けになりました」
ここで景勝が、
「今日世継ぎを発表するのになぜ遺言状を?もしやこうなる事を予測されてか?」
「お屋形様はおっしゃいました。この戦国は何が起きても不思議はない、何が起きてもいいように備えねばならぬ」
その備えを使う事になるとは思ってはいませんでした。謙信も、そして勝頼もです。ですが今はこの遺言状こそが謙信の意志を伝える唯一の物になってしまいました。
勝頼はざわめいている連中を観察しています。誰が信用できるのか、見極めるいい機会です。遺言状に立ち会った2人の重臣は謙信から直接何かを言われていました。今は景虎派、景勝派に別れてはいますが川中島や他の戦を共に戦ってきた仲間なのです。謙信公を思う気持ちは同じでした。たださほど仲がいいわけではなく、自然と両派閥に別れていったのです。その事が身内の争いとなり醜くなる事を理解していても、避けられないと決めつけていました。謙信公が最後に言い残した事は、
『上杉の名を残せ、それには勝頼を頼れ』
でした。それを聞いて2人の心は揺らぎます。




