桶狭間へ向かって
太原雪斎、坊さんだが今川義元の軍師であります。父親は蒲原城主、当時は庵原と書きました。母親は興津城主の娘です。両親ともに今川家の重臣でした。そのご縁から今川義元の幼少期の教育係を勤めます。その後京都のお寺に移り修業の日々を過ごします。今川義元の兄、今川氏輝が死亡し、次男も同日に死んだため義元に家督相続の話が持ち上がります。ところが重臣がそれに反対して義元の異母兄に相続させようとし争いになります。それを雪斎がうまいことやって義元が家督を相続することになります。
幼少期の出会いがなければ違う歴史になっていたでしょう。
「ねえ、桶狭間は?」
「だ〜か〜ら〜、焦らないの!早い男は嫌われるよ」
「それ意味違うっしょ。最近は長持ち、じゃない。桶狭間!」
「ここからよ」
義元は家督を継いでから雪斎を軍師として取り立てます。そのおかげで駿河遠江だけでなく三河や尾張の一部まで支配しますが、雪斎はある意味目の上のたんこぶでもありました。義元をたしなめたり咎めたりする事も多かったのです。うるさいおっさんです。
義元は雪斎が死んだ時、心から泣きました。いくらうるさいおっさんでも人生の師匠でもあり今の自分があるのも雪斎のおかげとわかっていたからです。ところが、いざ雪斎が居なくなって見ると自分の視野が広がった事に気が付きました。今まで抑えられていた欲望が叶うようになったのです。おら、なんでもできるってばよ!ってな感じでしょうか。
「わしはどこにでも行ける。東、北は同盟国、行くなら西だ。西は領地切り取り次第。まず目障りな織田を倒そう」
義元は家臣を集め軍議を開きます。軍議では織田攻めに反対する者もいましたが、結局義元が押し切りました。人質として寺に置いていた松平元康を三河へ戻し先鋒としたのです。三河武士は強いと言われています。実際に戦いとなると鬼のような強さを発揮します。松平家を先鋒にしたのは譜代でないという理由だけではありませんでした。三河武士の強さを当てにしていたのです。
この時、駿府には乱破と呼ばれる忍びの者が多く滞在しておりました。武田家、北条家、上杉家、斎藤家、味方の松平家の忍びも潜んでいました。そして当然ですが織田家の忍びもです。今川義元が軍を率いて西へ向かう事はあっという間に広まりました。義元はそれをわかっていて放置していたのです。どうせ何も出来まい、何も困る事はないと。そしてその忍びの中に武田家にその人ありと言われた山本勘助がいました。
「山本勘助って片目の人だよね?なんかで見た」
「結構謎の多い人物でね。実在しないっていう学者もいるのよね。江戸時代になってからの書物には名前が出てくるんだけど、その前の書物には存在が確認されていないの。架空の人物じゃないかってね」
「でも勝頼が会ったって言ってたよ」
「私は実在すると思ってたから良かったわ、居てくれて。でね、勘助は駿府の出身なの。今川家のスパイとして武田家に取り入ったのよ」
「えっ?そうなの?でもなんだっけ、そうだ。武田24将に入ってるよ、確か」
「それも後からできた話だからね。24将も何パターンかあるのよ。ま、それは置いといて勘助は二重スパイだったと思うのよ」
今川義元が西上すると聞いた時に各武将はどう思ったのでしょう。
・北条氏康は長尾を相手にしていて勝手にしろというところでしょうか。
・斎藤義龍は織田の後には美濃が攻められると焦り策を練りはじめました。
・長尾景虎は気にしてません。
・松平元康は戦さの準備を始めています。
・織田信長はどこで出迎えるか、籠城か討って出るか悩んでいます。
・武田晴信は、これを好機と考えました。
武田晴信は今川家の娘を長男である義信の嫁にもらっています。これは単なる政略結婚で好きでもらったわけではありません。今川家と事を構えれば離縁して追い返す事になるでしょう。ですが今は信濃の攻略で精一杯、今川と戦う事は出来ません。それゆえの同盟、一時しのぎなのです。
自らが今川の勢力を削る事ができないのなら誰かにやって貰えばいい。晴信はそう考えました。武田信玄という武将がなぜ後の世に有名になったのか?天下に稀に見る知将だったからです。部下を上手に使う、人にやらせる、現代でも難しいこの課題を力と職人が主流のこの時代に実行していた、時代の先駆者でした。晴信の死後、勝頼が苦労したのは偉大な父の影響を受けた家臣の信頼を得る事でした。そうならないようにしないと同じ歴史の繰り返しになってしまいます。
「そのために俺と恵子がいるんだよね」
「私は関係ないけどね。ただ真実は知りたい、歴史を変えたいわけじゃない」
「いやそれじゃあ俺の勝頼が………」
「現代への影響がわからないの。まあ今のところは協力してあげる。で、武田晴信はね」




