■第三十四夜:瀉血の伽藍(しゃっけつのがらん)
これほど奇妙な夜明けを、船乗りも、法王庁の使節も、島民の誰もが体験したことがなかった。
赤く巨大な太陽が、暗い海から一瞬、血に染まった虹彩のような旭光を投げ掛け、そしてこんどは天に没するように真っ黒な雲に吸い込まれて消えた。
あたりは夜のように暗い。
ときおり遠雷があり、無数の霆が天地に走るのを人々は見た。
不気味なことは風は凪ぎ、波は鏡のように静まり返り、そこにただ音もなくしんしんと雪が降るのだ。
鳴動は収まっていた。
だが、船で洋上に逃れた者たちも、留まることを選んだ者たちも、一様に島の深部から轟きわたる怪物の断末魔にも似た叫びに、互いを抱きしめあい恐怖して震える。
そして、その恐怖を体現したかのように、ヒトの治めるいかなる国のものではない――すなわち夜魔の国の軍船が、その漆黒の躯体を洋上に落ち延びた人々の前に現した。
※
あらゆる妨害を踏破し、“聖母再誕”の儀が執り行われているはずの奥の院にアシュレたちが躍り込んだのと、エレとエルマが殺戮を一段落させたのは、ほとんど同時だった。
むせ返るような血臭にそこは満たされていた。
血溜まりが池をなし、切りとばされた四肢とさらされた臓物がまだ赫々と脈打ち、人体はしょせん巨大な糞袋であることを実証するように臓物特有の凄まじい臭気を放っていた。
その地獄・惨劇と対をなすように天からは光の粒が降り注ぎ、壁面にも柱にも無数に彫刻された天使の姿と相まって、天上の國の門が開かれつつあるように錯覚さえ起こす。
その相克。
相容れぬはずの対比が、眼前の酸鼻をいっそう極めて、鮮やかにする。
おのれッ、と口をつきそうになった型通りのセリフをアシュレは飲み込む。
かわりに素早く戦場を見渡した。
床に転がる者たちは戦闘員であると見てとれた。
カテル病院騎士団は、この儀式の間に《スピンドル》能力者を配していない。
そも、この区画に踏み込まれた段階で勝敗は決している、という考えだっのだ。
だからこそ、夜魔たちが都市部を襲撃したとき、あれほど迅速に対応できたのだとも言える。
首脳部さえ守れればよい、という支配者的思想とは根本的に彼ら、カテル病院騎士団は違う。
見れば毒に侵された儀式参加者たちに被害は少ない。
抵抗する戦士階級を徹底的に無残に殺して見せることで、残る人々から抵抗の意志を摘み取る。
一種の見せしめを土蜘蛛の刺客たちは行ったのだ。
もっともそれは殺害対象に女性や、子供をとらない、ということではなかった。
エレの最後の獲物は、年若い少年従者だった。
おそらくこの奥の院に詰める騎士に随伴していたのであろう。
そして、かなわぬと知りながら数秒という時間を稼ぐために突入した主人を追って、彼も飛び込んだのだ。
彼が握っていた剣を、エレが爪先でこじるようにして引き剥がしていた。
倒れ伏したその肉体がびくびくと痙攣し、そして事切れるのをアシュレは、たしかに見た。
エレがその禍々しい拗くれ剣の切っ先で描き出していた臓腑がぬらぬらと光っていた。
少年はあまりの痛みにショック死したのだ。
怒りに染まりかけた意識を、どこからか流れ込んだ氷の冷たさが制していた。
「わかっている」
だれとはなくアシュレは言った。
無意識のうちに〈シヴニール〉の切っ先がエレに向けられていた。
だが、タシュトゥーカのごとき巨体相手ならともかく、人体相手ではどれほど威力を減衰させても〈シヴニール〉は簡単に貫通してしまう。
エレの背後には屹立する水柱――その奥で完全にトランス状態にある四天使の模した側近たちとダシュカマリエは、いまだ儀式を進行中であり、その中心にはイリスの眠る繭のカタチをした台座があった。
エレはそこまで計算して、いまこの瞬間、弱者をいたぶる姿をアシュレにさらしているのだ。
撃てるものなら撃ってみろ、というそれは挑発だった。
そして、ふたりの凶手に操られたイズマがあの不可思議な水柱の正面に立ち、手を広げ、なにごとかなさんとしていた。
解呪か――事態を把握したアシュレの背中に冷たい汗が噴く。
「よくぞ〈ヘリオメドゥーサ〉:タシュトゥーカを退けたものだ。あれは年代記にあるだけでもおよそ数百年の長きに渡り地底湖のひとつにひそみ、近隣の氏族を支配したバケモノよ。我が神:イビサスの加護を受けた英雄に屈するまで、随分と同胞の血を啜り、肉をくらった怪物だったのだが――褒めてやろう」
尊大な態度で振り向きエレが言った。
嗜虐趣味でもあるのか、いやあるのだろうエレの唇は濡れて艶やかに光っている。
「正直、貴様ら人間を侮っていた。短命短慮な下等生物だとな。その件は謝罪しよう。ノーマン、そしてアシュレダウ、少なくとも貴様らふたりは英霊の列に加わってよい資格を有している」
正直、死なせるには惜しい――。
エレはくくく、と鳩の鳴くように笑った。
「どうだ、我が傀儡の列に加わらぬか? 末長くいたわり愛し、その英雄譚を伝える操り傀儡として奉じてやろうぞ」
土蜘蛛たちの風習に、自らの信ずる神に奉じる神楽があり、それは姫巫女たちによって繰られる生き人形――つまり、物語の登場人物本人を人形とした――によって再演される英雄譚があるのだとアシュレはイズマに習ったことがある。
「だが――そこな、コウモリの女はだめだ。淫靡な糞虫どもがうごめく沼に追い落とし、臓物のかわりにそれを摘めて、汚辱と恥辱のなかで飼い殺してやるから、そう思え」
エレの言葉は真情の吐露ではあっただろう。
しかし、イズマによる解呪が進行中の現段階ではそれは時間を稼ぐ手だてでもあったのだ。
口三味線、である。
アシュレは、それをばっさりと切り捨ててみせた。
「オマエたちの戯れ言につきあう気はない」
「長い舌だことだ。根っこから、ひっこ抜いてしまえ」
アシュレの断固たる態度に、シオンが乗じる。
ちらり、と視線をアシュレに流す。ノーマンが応じる気配があった。
初撃を仕掛けるから、非戦闘員を退去させよ、せめて作戦指揮所跡まで――アシュレははっきりとシオンの意図を汲み取った。
アシュレは思いきりよく〈シヴニール〉を地面に放り、聖盾:〈ブランヴェル〉を構える。
前衛をシオンとノーマンに任し、非戦闘員たちを誘導するつもりでいた。
刹那、足下に広がった血の池が、まるで風に吹かれたかのようにさざ波立つ。
いやそれは渦を巻いていたのである。
転移系異能の前兆。
「ようやくのご登場か。アシュレダウ……人間の聖騎士どの――じつは神楽はもう始まっているのだ。お楽しみあれ。我が神:イビサスもご照覧あれ。第一幕:水蛇退治の段に続きますのは、第二幕:夜魔の戦鬼の乱舞にて――」
エレがそれに気づき口上を述べるのと、漆黒の装甲に明滅する赤色のラインを走らせた影が転移してくるのは、まったくの同時であった。
その男は夜魔であり、同時に戦鬼でもあった。
ヴァイデルナッハ――ヴァイツ、とシオンが呼びかけるのと、その男が薄く笑うのは同時だった。
本来ならば、夜魔の貴種同士、名乗りも挨拶もあったであろう。
しかし、冷気を伴って突如現れた男に口上はなかった。
なぜならば、すでに男はなかば戦鬼であったがゆえに。
その言葉は戦技で表される。
舞踏家を思わせてヴァイツが一礼したかに見えた。
だが、それは繰り出される技への予備動作に過ぎない。
励起された《スピンドル》の律動が予兆として足元の血溜まりに伝播しなかったら、その一撃を防ぎきれたものかどうか。
気がつけば、どこかで上がった悲鳴を聞いていた。
受けた盾ごとアシュレは吹き飛ばされ、壁面に叩きつけられる。
凄まじい衝撃に息が詰まり、肺腑のなかにあった空気をすべて吐き出してしまう。
胸甲を着けていて助かった。
そうでなければ、背骨を傷めていただろう。
一瞬、意識がとびかけた。
どうにか体勢を立て直したアシュレの眼前で、激しい戦いが繰り広げられていた。
ノーマンが、ヴァイツの〈スローター・リム〉による一撃を〈アーマーン〉で受け止めていた。
そこへ打ちかかろうとするシオンを、エレが妨害する。
加勢に駆け出そうとして、アシュレは土蜘蛛にはもうひとり、姫巫女がいたはずだと思い出した。
姿を確認しようとするアシュレのかたわらで声がした。
「おさがしですか?」
恐いほど可憐な声。
いつのまにか、かたわらに女がいた。
小柄で、華奢な娘が、異国の巫女服に身を包んでいた。
エルマ――土蜘蛛の凶手の片割れ――そう感じた瞬間にはアシュレは跳び退っている。
距離をとり、構える。
正対するのはアシュレは初めての相手である。
だが、道すがらのノーマンの話によれば、武器と体術に精通した生粋の暗殺者である姉のエレとはいささか毛色の異なる、呪術に長けた妹であると聞き及んでいた。
水蛇のバケモノ=タシュトゥーカを召喚したのは彼女であり、召喚門を開くことはそれを維持するよりずっと難しい。
奥の院に向う道中に仕掛けられていた厳重な結界を打ち破ったのは、なるほど、このエルマであると推察された。
そして、ノーマンは付け加えたものだ。
エレに比してさえ、性格の著しい破綻を感じる――すなわち、異常性は姉を凌駕するであろう、とも。
アシュレは、反射的に腰のグラディウスを抜く。
カテル島に来てあつらえたもので、かつて愛用していた品になぞらえて前湾曲した造りにしている。
古代の馬上剣に倣ったもので、ファルカタという呼び名もあり、歩兵の用いた直刃のものと分けるためにサドルグラディウスなどという別称も存在する。
もちろん、《フォーカス》ではない。
そのため《スピンドル》を通せば一撃で砕け散るが、護身にはなる。
そもそも相手に強大な防護能力や、再生能力がないのなら鋼の刃は充分過ぎる殺傷性を持っている。
極論《スピンドル》エネルギーの通った刃で人体、あるいはそれに類する肉体を撃つことは獅子を使ってネズミを殺すようなものだ。
過大――オーバーキルなのである。
充分に訓練された戦士の繰り出す一撃は、《スピンドル》など不要と思わせるだけの説得力を持つ殺人技だ。
さらに突き詰めて言えば、多くの《フォーカス》は、ヒトが、もっとずっと強大な敵に対峙するための武器なのである。
「優しいお顔立ちをなさっているのね」
アシュレが引き抜いた刃の剣呑な輝きなど眼にも入らない様子で、おとがいに指を当て小首を傾げエルマは言う。
頬が上気して桜色に染まっている。
まるで恋する乙女のように身を震わせている。
アシュレは洞内にこだまする戦闘音楽との差異に、めまいを起しそうになった。
「お姉さまから、戦上手とおうかがいしてから、ずっと気になっておりましたの。ノーマンさま、アシュレさま。おふたりとも卑しい生まれにも関わらず、立派な騎士であると」
そのなかでも、エルマはアシュレさまに興味が湧きましたの――エルマは言う。
「これは――恋、ですよね?」
危険だ、とアシュレの本能が告げていた。
先ほどのエレとの会話でもあきらかなように、土蜘蛛の姫巫女たちは同胞、異種族の別なく優れた英傑、英雄たちを生きながらに捕らえて傀儡となし「神話」や「伝説」の再現を舞台で神楽として再演する。
そして、そのことを至上の悦びとする性情を持つ。
もぞり、とその姫巫女が脚をすり合わせた。
「じつは、エルマ、もう、がまんできませんの。単刀直入に申し上げます。わたくしのものになってくださいませんか? 痛くなどいたしません。きっとアシュレさまなら、旦那さまに続く、すばらしいお相手になってくださると思いますの。旦那さまは姉さまと半分こですから、さびしい夜もあるでしょうし、なにより、異種族の卑しい身分の男に力づくで奪われてみたくもあり」
先刻、まったくおなじ内容でシオンを罵倒したことなど憶えていたのだろう。
はっ、はっ、と桜色に吐息を弾ませて、ようやく告白したという感じでエルマは言った。
アシュレは断ち切るように刃を振り構えなおす。
「断る」
アシュレの動作は、背後に控える非戦闘員たちに、逃げろ、と指示したものだった。
それに気づき行動を起す気配があったが、鈍い。
進行中の儀式、同胞を、首長:ダシュカマリエを、そして、イリスを見捨てられないという思いが、彼らにはあるのだ。
志気の高さが、ここでは逆に足枷になっていた。
アシュレの苦しい心中などと関係なく、エルマの陶酔は加速してゆく。
「ああっ、そのつれなさが、エルマにはたまりませんの。姫巫女なのに、必死に告白したのに――すげなく袖にされた――こんなの、たまらなくないですか?」
切なさで、エルマ、どうにかなってしまいそうです。
ぞくぞくぞくっ、とアシュレには理解できぬ官能に身を震わせたエルマの右手に、どこから現われたのか奇怪な面があることにアシュレは気がついた。
「どうあっても、わたくしのものにはなってくださいませんの?」
そうエルマが訊いた。
アシュレの意識が自らの手にした面に向けられていることに、微笑み、わざわざゆっくりと、しっかりとそのディティールが捉えられるようにして、顔の横に並べて見せた。
あきらかに美貌、それも人間離れしたものであるのに、強烈な違和感がその面にはあった。
女、それも女神のものであろうその面からは、凄まじい執着、鬼気迫る怨念のようなものが立ち上っていた。
「これなるは、肉憑面:〈クローディス〉。自らの領域に英雄を迎えるべく降臨したにも関わらず、その男に恋をして同胞を裏切り、そして最後には愛した男に裏切られて狂い死んだ真騎士の娘の顔の皮で造られた《フォーカス》ですの」
ここには、その娘の怨念、晴らせぬ恨みつらみ、そして、そこまでされてなお尽きぬ恋慕の炎が練りつけられてありますの――滔々と謳うような韻律がエルマの語りにはある。
「アシュレさまが、そこまで固辞されるならば致し方ありません。古来より伝わる由緒正しくも、公正なる解決法――すなわち力づくにて、エルマ、アシュレさまを奪わせていただきます」
なにを言われているのか、にわかにはアシュレには理解できなかった。
ただ、すぐにもわかったことは自分の女運の悪さはここに極まっており、脳裏に浮かんだ映像は交尾を終えた瞬間に頭からメスに丸かじりされるカマキリのオスの姿だった。
「エルマは、エレ姉さまほどの戦闘力を持ちえません。でも、ほんとうに欲しいと願ったものをどうして諦めえましょう? エルマは諦めないコなのです。むかしから、そうでした。執念深い、と褒めていただいたものです」
ひくひく、と肉憑面の内側に襞が蠢くのをアシュレは見た。
その口上に気をとられ面の装着をエルマに許してしまったことをアシュレは後悔する。
肉憑面はその材料となったものの能力、精神性までも装着者に与える、恐るべき呪具だったのである。
むろん、その同調には適性があり、本来は時間をかけて行わねば着用者の心が壊れてしまうたいへん危険な《フォーカス》であった。
けれども、すでに壊れてしまった心の持ち主であり、そして姫巫女として高い資質を持つエルマにとっては、まるで自らの皮膚であるかのように馴染む感覚だったのだろう。
すなわち、麻薬の常習者がその魔力に取り込まれ依存するように、エルマもまた、いくつか所持するこの仮面の虜であったのだ。
そうやってしか、人格の平均を保てぬ娘でもあった。
言い換えればそれは、敵に回せば最悪の異常者ということでもある。
そのエルマが、なんの前触れもなく無造作に間合いを詰めてきた。
恐るべき加速力は「世界の怒りに仕えるもの」との異名を馳せる真騎士の戦乙女たちの真骨頂である。
残像を起すほどの速度。
しかし、エルマの手には獲物は――ない。




