■第二十六夜:転調
※
「さて、それは盲点だったな」
ヴァイツを追う追跡行の途中、小休止の間にシオンはヒラリを通じてノーマンと連絡を取った。
司令部の文字盤を使うやり取りである。
ノーマンが夜魔たちの種族的特徴について詳しいレクチャを乞うてきたからだ。
アシュレ相手にはしたことがあっても、ノーマンやカテル病院騎士団の面々に、シオンは自らの種について語ったことがあまりない。
敵対しているとはいえ、シオンのそれは同胞を「永劫の牢獄から解き放つ」という一種の救済であり、仲間を売るような真似は憚られたからだ。
そして、カテル病院騎士団の面々からすれば、夜魔とはいえ、気高く美しい――そして筆頭騎士であるノーマンが認めたほどの英傑に、それを問うということはできなかった。
なぜなら、それは「シオンの肉体や心の秘密」を問うに等しかったからだ。
騎士たる身としては、これまた憚られて当然であったのである。
それなのに、そこを曲げてノーマンが問うてきた。
よほどのことだ、とシオンは理解した。
そして、ノーマンが告げる情報のひとつひとつがそれを裏づける。
イズマが捕らえた月下騎士が吐いたというのだ。
「洋上艦にもうひとり高位夜魔がいるというのか……最悪の場合、拠点攻撃用の異能を使用する用意がある、と。
誇りをなによりも重んじる夜魔のことだ。
ギリギリまで使用はせんだろうが、敗戦、撤退が決定的となったならそのかぎりではないだろうな」
ノーマンの報告にぬう、とシオンが唸った。
「そうだ、ノーマン。
貴君らカテル病院騎士団が交戦した高位夜魔は、ハイネヴェイル家のヴァイデルナッハに相違ないだろう。
まるでヒトが考えるような軍隊の運用方法を、ずいぶん昔から研究していた小僧だよ。
実際にやられてみてわかったが、かなり厄介だ。
うむ、それだ、そう、ザベルザフト氏の腕のことだな。
そうだ。その推測は正しい。
夜魔は摂取した血肉から《夢》を得て自らを長らえることが出来る。
そして、高位夜魔はそこから同時に相手の記憶や感情すら読み取ることが出来る。
ヴァイデルナッハなら容易くそれが可能だろうな。
しかし、ダシュカマリエの引き篭もったあのエリアは何重にも結界や罠で守られていただろう。
……座標が割れたからといって簡単に転移で侵入できるものではない」
シオンは普通に受け答えしているが、実際にはシオン側からの発信はヒラリが文字盤の上を石を動かして行うため片言になる。
ノーマンがあらかじめ質問を答えやすく作成してくれていなければ、時間がかかって仕方がない方法だ。
戦闘中などには役に立たないだろう。
シオンが事態が落ち着くまで連絡をしなかった理由だ。
だが、その利点は圧倒的だった。
「イズマに占術はさせてみたか?
うん? 特定できない?
……なにか、対策を講じているのか。
それで、わたしも感知できないのか?
ふーむ。だが、間をおいて定期的に試みるよう伝言してくれ。
うん、うん。わかった。また連絡をくれ。
それから、そなた、ヒラリだからな。
カーミラなどではないぞ、わかっておるか?
悪名高き“染血の貴婦人”などではないからな!
しつこいぞ! 切るからな!」
なぜか会話の締めくくりでシオンが声を荒げたので、アシュレはびっくりしてシオンを見てしまった。
アシュレたちは、せり出した岩棚の下にいる。
雪と風を避けれるだけで随分と温かく感じるものだ。
おそらくここは、羊飼いたちが野宿するのに使うことがあるのだろう。
最近使われた形跡のある竃の跡が残されており、アシュレは火を焚くべきか思案していたところだ。
「まったく、ヒトの分身に勝手な呼び名をつけおってからに。
もすこし礼儀をわきまえている男と思っていたのだが、流石は朴念仁、デリカシーが欠けておる。
ま、仕事だけはキチンとしているがな」
あきらかにシオンはおかんむりで、アシュレはハラハラしてしまう。
どっかと音を立ててアシュレの横に座り込んだ。
大きな松の丸太だ。
ずっと座席として使われてきたのだろう。
その部分の表皮が削れ、へこみがついている。
松は西方世界ではやや珍しいが、東ファルーシュ海沿岸では、じつにポピュラーな植生だ。
表皮、松葉、松かさは素晴らしい火種となる。
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたもない。
あの男、ヒラリの名前を間違えて覚えておった。
重要な通信係であるあるから念を入れて覚えさせたのに、よりにもよって“染血の貴婦人”カーミラだと?
人間の侯爵に取り入り、一国を破滅させた女ではないかっ」
「夜魔:カーミラのお話ならボクも知ってる。
最初は恋人として取り入ったんだっけ。
たしか、最初は本当の恋だったんだよね?
でも、それが血の呪縛に抗えなくて、だんだん狂っていってしまう悲劇だ。
彼女が妃になった国には冬が居座り、春がこなくなったってお話。
人間の聖騎士が退治するんだったなあ」
あらすじを話すアシュレをじっ、とシオンが睨んだ。
あ、とアシュレは気がついた。
シオンは恋人として人間に取り入ったカーミラと自身の分身=ヒラリを呼ばれたことに、自身の行動を揶揄されたようで、それで腹を立てていたのだ。
「……それは、ノーマンが悪いなあ」
アシュレは苦笑してシオンの肩を持った。
「そうであろ? だのに、やつときたら何度も間違えおって。おまけにブーツに小石が入っただの、アシュレにヒゲを剃れだのと、なんの関係があるのか!」
「?」
いつのまにか話が本筋から離れていることにシオンも気がついたのだろう。
しばらくぶつぶつ言っていたが気を取り直して得た情報を話してくれた。
大きく分けると以下の三点だ。
ひとつ:近海にて隠行中の夜魔の艦艇から拠点攻撃が行われる可能性が大。
ひとつ:ザベルザフトの左腕から夜魔の首領が、地下中枢部で行われている儀式とその座標を入手、直接攻撃に打って出る可能性が激しく増大。
ひとつ:法王庁使節を緊急退避させる旨、公式に要請・伝達した。
「それで、ノーマンはボクらには、どうしろって?」
アシュレは干し肉をちぎりながら言った。
半分、シオンに渡してやる。
よく噛み口中でワインでふやかすようにして食べる。
「別命あるまで現状通り遊撃的任務を継続してくれ、と。日中の間にヴァイツたちを探し出すよう全力を傾けてくれ、と」
どうにも納得できない、という顔をシオンはしていた。
「妙な話だね、それ」
アシュレもそれには激しい同意を覚える。
「現在の逼迫した状況と、それによって取られた政治的判断にそぐわない、と言いたいのだろう? わたしも同じだ、アシュレ」
「ことの善悪は別にして、法王庁特使を洋上に退避させるってことは妙手だとボクも思った。
これには三重の意味があるからだ。
ひとつは実際に特使の安全を考慮することで後の責任追及を回避しやすくなること。
第二は退避する特使に洋上の夜魔が食いつけば、これを囮として双方の戦力を削ぐことができること。
第三は……その交戦に乗じて、双方を長射程攻撃で撃沈、全滅させることができること」
やはりじっとアシュレを見つめるシオンの瞳には、もう怒りはどこにもない。
汚くつらい政治的判断について、年若い騎士が必死に考えを巡らせたことを、シオンは瞬きせずに見つめていたのだ。
「そなたは強い子だ」
現実を直視する強さ、という意味でシオンが言った。
アシュレはその評価に、頬が熱くなるのを覚える。
努めて冷静たろうとする。
「でも、その決断を下したのが現在の司令官――つまり、ノーマンなら、どの局面においても駒としてのボクたちを外すことは難しいとわかっているはずだよ。
ヴァイデルナッハ――ヴァイツという夜魔は、ザベルザフト団長を一騎打ちで下すほどの手練れなんだ。
いくらノーマンに聖遺物:〈アーマーン〉の加護があるからといって、拠点防衛は簡単ではない。
陰の多い地下施設内では余計だよ。
それなら〈ローズ・アブソリュート〉のほうがまだマシだ。
フルパワーで能力を顕現させたら〈アーマーン〉の被害が周囲に及んでしまう。
ダシュカマリエ大司教や、イリスの命をノーマンが考えないはずがない。
それに夜魔の軍船を狙撃するにしても、法王庁の特使を巻き込むにしても、ボクの〈シヴニール〉ほど最適な《フォーカス》はないんだ。それなのに……」
「それなのに『帰ってこい』とは言わなかった。一度、顔を突き合わせて今後の策を思案すべき潮時だというのに」
シオンが言い、アシュレは頷いた。
「なぜかな?」
シオンの誰とはない問いかけを聴いた瞬間、ふっ、とアシュレには腑に落ちるものがあった。
そうか、と言葉がこぼれ落ちる。
「すでに敵が本営内にいる、とノーマンは言っているんだ」
「なんだと?」
どうしてわかる、とシオンが言う。
「シオンからの伝聞なんで、すぐにはピンとこなかったんだ。『ブーツの小石が気になって仕方がない』『ヒゲを剃れ』って、騎士たちが使う戦闘言語なんだ。隠語なんだよ。内通者が気になる。内通者を叩け、っていう。まいったな」
シオンが目を丸くして驚いていた。
ノーマンのあの態度は、つまり演技だったのだ。
「では“染血の貴婦人”カーミラの件は……」
「内通者に一服盛った、とでもいうところかな……わざわざシオンの神経を逆撫でして忘れないようにしたくらいだ。うまく、演じ切って、首根っこを押さえてくれ、という意味だと思うよ」
そういえば、とアシュレは言った。
「イズマはどうしてるんだろう?」
「ノーマンの得た情報はイズマが捕らえた月下騎士から引き出したものだそうだが」
「それ以外は?」
「土蜘蛛の凶手をひとり、傀儡にしたと報告があった」
ふたりは顔を見合わせた。
ぞくり、と背筋を寒いものが這い上がってきた。
外気のせいではない。
脊髄のなかに凍る間際まで冷やされたアルコールを流し込まれるような感覚だ。
予感がした。
それもひどく悪い。
※
その地下遺跡はアガンティリス王朝期のものであった。
カテル島に無数に存在する遺跡群のひとつ。
そこにヴァイツ以下、すでに二名となってしまった月下騎士たちは身を潜めていた。
月下騎士:アーネスト、そして、ヴァイツの少年従者、ソリンである。
いかに彼らの獲物である“反逆のいばら姫”:シオンザフィルがカテル病院騎士団との共闘体制を整えていたとはいえ、またここが敵地であるとはいえ、これはあきらかな大敗だった。
敵の結束、連携の巧みさ。
そして、すでに巡らされていた対策への情報収集を、己ら夜魔という種族の能力を過信し怠った指揮能力の欠如によるものだと、ヴァイツは素直に認めていた。
もとより夜魔は個人技に頼る傾向が非常に強い。
個人個人が、すでに充分に強力・強大な存在であるため、ほとんど個人個体であらゆる局面に対応できるかわりに、連携や協調という行動に対して、それを軽んずる傾向が極端だった。
それらは虚弱で貧弱な、家畜の考え方だいう考え方が、一般的だったのである。
だが、ヴァイツは「連携」という概念の有用性に着目した。
実際に敵として相まみえて、その強さ、柔軟性に舌を巻いた。
正直に言えば、感嘆したのである。
感服した。小気味よい、とさえ感じられた。
尊敬の念すら覚えた。
そして確信した。
やはり、ヴァイツ自らが考え続けてきた兵の運用方法は、夜魔の常識を覆す革新的なものであると。
この芽を絶やすわけにはいかないと。
だが、それとヴァイツ個人の戦いへの誇り、夜魔としての誇りは別の場所で計られるものであることも、誰よりも理解していた。
洋上で待機する艦艇:〈ローエンデニウム〉、そしてそこに座すもうひとりの高位夜魔:サージェリウスは「任務遂行が困難と判断すれば拠点攻撃にて、敵を殲滅する用意がある」と明言していたし、それをヴァイツも同意・了解していた。
強力な範囲攻撃が実行された場合、指定座標から数百メテル周辺は灰燼と化すだろう
けれども、すべてを灰にする前に、どうしても自身の落とし前だけはつけなければならない、とヴァイツは考えている。
それはここまで月下騎士団を痛めつけてくれたシオンザフィルとそれに加担する人間たち――カテル病院騎士団に対して、決定的な恐怖、拭いがたい夜魔への恐れを刻み込むことだ。
それは、ヴァイツの胸中を占める『未来へと続く生存への意志』とは真逆の――どちらかといえば、彼が嫌悪し逸脱しようとした古い夜魔の死生観に沿ったものであると気づいてヴァイツは笑った。
すこし、微睡んでいたのだろう。
太陽は中天をとうに過ぎ、時刻は夕刻へと向かいつつある。
種族的な特徴として夜魔の体内時計がズレることはありえない。
一片残らず平らげ尽し、我がものとしたはずの左腕がその継ぎ目から引き攣れるように痛んだ。
ヴァイツの病的なほど白い肌が、左腕の付け根、肩口から先で浅黒いそれに変じている。
敗退の記憶を留めるため、あえてザベルのそれを残し我がものとしたのだ。
カテル病院騎士団の団長であるザベルの斬撃。
そしてそこから《フォーカス》:〈プロメテルギア〉によって注がれた《スピンドル》エネルギーは強大のひとことに尽きた。
高位夜魔であるヴァイツが相手の血肉を嚥下したにも関わらず、再生にこれだけの時間を要したのは切断面から伝導された《スピンドル》の《ちから》が、その再生を害し続けていたからに他ならない。
一秒に満たない交差の間に、あの老齢の男は、これほどの《ちから》を練り上げたのだ。
目覚めると、傍らにアーネストがいた。
その向かいには少年従者:ソリンがいてヴァイツに体温を分かち与えるかのように寄り添っている。
ヴァイツの目覚めに気がついたのは、アーネストだった。
「閣下」
アーネストが寝室での口調でヴァイツに呼びかけた。
「お食事は、いかがですか? 紅茶も、ご用意していますけれど?」
言葉だけを聞けば、ここがガイゼルロンで、自分は愛人宅に泊った客人であるかのようにヴァイツには感じられた。
アーネストの声には敗戦の焦りなど微塵もなかった。
戦場に自らがいることさえ忘れてしまいそうな、優美で艶のある物腰だ。
身に纏うドレスさえ昨夜のものではない。
気がつけば、ヴァイツ自身の着衣も真新しいものに変えられていた。
煤煙の匂いが染みついた衣服はどこかで処分されたのだろう。
うっすらと、どこかシャンパンに似た薫り――オードトワレが薫る。
アーネストの趣味だった。
「いただこう」
そのせいだろうか、ヴァイツの返答には紳士然とした余裕が戻っていた。
アーネストが艶やかに笑う。
ソリンが目を醒ました。主人たちの間に醸された空気を感じ取り、こちらも優雅に伸びをして見せた。
気位の高い猫のように。
どこからか、ほんとうに香り高い紅茶と洗練された茶器一式が魔法のように現れた。
三名のヒトならざるものたちは、あくまで優雅にそれを楽しむ。
失われた戦友についてすら、微笑みとともに語る。
状況は絶望的で、これ以上の交戦は確実な死を彼らに呼び込むことが、わかり切っているというのに。
これだから、夜魔という連中はやっかいなのだ、とシオンが見たら諦めに似たため息とともに感想したはずだ。
またたく間に、彼らは戦意を回復させてしまう。
生まれついての貴族としての余裕――滅びに向かう道さえ優雅さとともに受け入れ、そこに際してさえ死力を尽すことができる――それは他種族には得ようとしても得ることのできぬ一種の特性なのだ。
しかし、その小さなお茶会の締めくくりにヴァイツが口にした内容は、アーネストを立ち上がらせ、ソリンが茶器を取り落としかけるほどには逸脱したものだった。
「ふたりは夜陰に乗じ、人間どもの船を奪取――〈ローエンデニウム〉と合流し、この戦域を離れること――これは厳命だ」
承服できません、と即座に叫び返したアーネストにヴァイツは微笑んだ。
「わたしは、諸君らふたりを生きて祖国に帰したい」
「いやです。帰り着いたとて、待つのは屈辱の日々。わたくしは、最後まで大隊長閣下とご一緒いたします。炎に散った戦友:カリサの形見――〈ガラハッド〉は、これでようやくひとつとなり、真の《ちから》を行使できます」
「ダメだ、アーネスト。わかってくれたまえ」
アーネストは首を左右に振った。
両手にはめられた金色の装具=鋭利な爪を模したガントレット:〈ガラハッド〉が鈍く光った。
「いやです、ぜったいに承服できません。
閣下、仰ってください、お命じになってください。
ともに反逆者:シオンザフィルの首を討ち取ろうと。
そのために命を捧げろと。
この島にあふれ返る家畜どもを鏖殺せよと。
残らず平らげよと。
そして、ともに死ねと。わたくし、なにも恐れてなどおりません!」
上座に座するヴァイツの足元に身を投げ出し、翻意を懇願するアーネストの涙にさえ、ヴァイツはかぶりを振った。
「アーネスト、キミが死を恐れているなどと、わたしは思ったことなどない。それにこれは重要な任務であると同時に、わたしの存在意義を賭けた《ねがい》でもあるのだ」
――《ねがい》? アーネストはオウム返しに訊いた。
上位夜魔とはあらゆる欲望を実力で勝ち取るだけの《ちから》に恵まれたものたちだ。
だから、彼らが《ねがう》ことなど、それは真夏に雪を見るような、それほど稀なことであったのだ。
「いま、《ねがい》と仰いまして? 閣下?」
そうだ、とヴァイツは頷いた。
「わたしの信じてきた道――夜魔の軍団に革新をもたらすであろう運用方法の確立――残月大隊という実験的な運用師団だけではなく、そこから解き放たれた、柔軟で普遍的な意味での改革。その実例をわたしはこの島で得た。それを貴君に託したい」
ああ、とアーネストは呻いた。
この方は、死ぬおつもりなのだ、と気がついて。
たったひとりで、敵陣に切り込んで。
胸を掻きむしられるような痛みがアーネストを襲った。
夜魔とて感情はある。
発露がヒトとは異なるだけだ。
「そんな、ズルイやり方で、わたくしを説き伏せることができるとお思いですの?」
きり、と黄金の爪が床板を掻いた。
それならば、力づくで組み伏せてでも、ヴァイツに翻意させるとアーネストの目が物語っていた。
ともに生還するという選択肢は脳裏にすらない。
アーネストもまた夜魔の貴族の子女だった。
欲したものは、実力で捥ぎ取る。
それが彼ら夜魔のメンタリティでもあったのだ。
だが、そのアーネストの前にヴァイツはひざまずき、手を取って告げたのだ。
「アーネスト、これは命令だ――わたしの血統を残してくれ。その血を、次代に繋げるのだ」
唐突なプロポーズに、完全にアーネストは虚を突かれた。
夜魔たちの不死性は、その肉体の圧倒的な復元能力によって維持されている。
それはその肉体が変化することを拒んでいる、と言い換えてもいい。
可塑性のない肉体に夜魔たちの精神は縛りつけられている。
ゆえに、個体の寿命が呆れるほどに長い。
彼らの肉体は、彼ら夜魔が、その記憶に留めるカタチに保たれる。
だが、これは逆に言えば子孫を残すシステムに致命的な欠陥を持った種であるとも言い換えることができた。
種の繁栄・存続のために=子を為すには“相手の記憶・精神”すら屈服、変容させねばならない――そういう欠陥を、だ。
夜魔たちの間では男女は同権と見なされている。
ゆえに女たちは容易にそれに応じようとはしない。
当然のことだ。
彼女らは男と同じ“支配者”として君臨すべき存在だと、自らを規定しているのだから。
だから“密通”が、なかばシステムとして正当化されていたのである。
道ならぬ恋に“ともに堕ちた仲であれば”という精神的な許しが、そこにはある。
相手に屈するのではなく、自分たちがが求めた“恋”に屈したのであれば、という論理的帰結だ。
それをヴァイツはアーネストに強いたのだ。
不意打ちに抱きすくめられ、アーネストは身を捩った。
それを受け入れることは、完全に心までヴァイツに屈することになる。
甘んじて征服を認めたことになる。
そのことに恥じらいを持つほどにはアーネストは貴族だった。
けれども抗えなかった。
カタチばかりの抵抗はあっさり見破られた。
本心では、どうして欲しいのかなど、わかりきっていた。
アーネストは泣いた
嬉しさからだけではない。ヴァイツの命に屈するとは、つまり、ヴァイツを見捨てて、この島を脱出するということだ。
この男は死ぬつもりなのだ。
あのヒトの老騎士の左手から得た――血の記憶、そこに記されたカテル島の深奥へ、ひとり赴いて。
不死者である夜魔の貴族の男が、死を覚悟することが、なにを意味するか。
それがわからぬアーネストではない。
忘れられないようにしてください、と懇願することしかできなかった。




