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■第三五夜:神の代理人の名のもとに


 ジゼルテレジア──この女はヒトとしての良心というものを、どこかに置き忘れて生まれてきたのではないか。

 かつて聖騎士パラディンに列されるより以前、そう呼ばれていたように。


 隊を預かる指揮官として、レオノールは思う。


 聖瓶:ハールートに認められ“聖泉の使徒”とより以前、聖騎士パラディンへと昇格を果たす前、ジゼルは陰ながら“人魚姫”と呼ばれていた。


 その名はイダレイア半島で一般的な悲恋の物語──童話メルヘンに由来するが、それはジゼルが人魚姫のように美しいから、というわけではなかった。


 人魚姫のごとく《魂》がない。

 つまり話が通じない、ヒトの心がわからない、という意味でそう呼ばれていたのだ。


 一般的にイクス教の教義では、魔の十一氏族を始めとした亜人種・魔性の者たちを「《魂》なき者ども」と定義している。

 そして当時のジゼルは意志疎通困難な相手への侮蔑を持って「《魂》なき者どもと同列」と陰口される存在であった。

 もちろんそれはジゼルが見せる天才性への嫉妬の裏返しではあるのだが、己の心の動きを客観視できる人間はそう多くはいない。


 その女がヒトをヒトとも思わぬ提案をする。

 たったいまから。

 本当にこれは人魚──いいや──魔女サイレンか。

 レオノールは悪魔の囁きにも似たジゼルの提案を、両手で耳を塞いで聞かなかったことにしてしまいたいという欲求に駆られた。


 一方、そんな男の葛藤などどこ吹く風。

 当然とばかりにジゼルは続ける。

 そしてそれはレオノールが考えていた策を、一手も二手も上回る、はるか先を行くものであった。


「そのまさかです、聖騎士パラディン:レオノール。すでに下準備は終えている。上流に雨を降らせ街の周囲を流れるテスナ河を増水させました。濁って見えますが、あの水はそのほとんどが聖瓶:ハールートによって聖別されたもの。こちらでの天候操作が妨害されるのであれば、離れた場所で水を調達すれば良い。これで街ごと沈めることが可能です」

「すでに、とは……まさかでは先ほどまでのあの行動は────遠駆けは」


 まさかここまでとは。

 想像を絶する提案に、レオノールは棒立ちになった。


 つい先ほどまで、ジゼルは特務権限を盾に、持ち場を離れていた。

 ひとり馬を駆り周囲を見て参りますと言い置くと、前線の兵たちを置き去りにこの場を立ち去ったのだ。


 だが引き止める間もなく逃げ去ったものと思われていた彼女は、ついさきほど、これもまた風のように帰還した。


 それで先ほどの口論だ。

 つい先ほどまで単独行動を取っては前線を離れていた特務執行者が、帰ってくるなり兵を突入させろと言い出した。

 それまで必死に戦列を支えてきたレオノールが、承服しかねるもの無理はない。


 だがその彼女がどこへ行っていたものかと思えば、すでに街ごと水底に沈める算段を整えていたというのか。

 自分たちを、兵たちの命を時間稼ぎに使ってだ。


「ばかなッ。貴女の試算ではまだ半数、五〇〇〇を超える市民が城塞内部で抗戦、あるいは逃げ惑っているのですよッ?! ご自分で先ほど言われたことだ、これは!」


 なにより、あの街へとかかる城門前の橋には、屍人鬼グールたちを押し戻そうと奮闘する我らが聖堂騎士団と従士隊が陣取っているッ!

 激昂が極まったのか年上の聖騎士パラディンが逆上する。

 しかし怒りをあらわにするレオノールへと、“聖泉の使徒”:ジゼルテレジアはことさら冷酷な一瞥を与えた。


「だからです。いま内部であの街を蝕んでいる蚊とんぼどもは、我々が馬鹿正直にこの戦いに付き合うと思っている。下等な屍人鬼グールどもを押さえ込むのが精一杯だと、驕り昂ぶって見下している。その果てにすり潰されるところに高みの見物を決め込んでいる」

「それで貴女は、その鼻柱をへし折ろうと言うのですか? いやそれは駄目だ。これはプライドの問題ではない! かかっているのは民草の命、人の命なのですよ!」


 思わず掴みかかった聖騎士パラディン:レオノールの喉を、逆にジゼルの細腕が捕らえた。


 たおやかに見える腕のどこから、そんな力が湧き出るものか。

 尼僧姿のジゼルが、喉輪の要領で騎士を相手に組み伏せる。

 重甲冑の装甲の上からであるにも関わらず恐ろしい圧力が、歴戦の勇士であるハズの聖騎士パラディンの喉を締め上げていく。


 顔色の変わった男に対し、聞き分けのない子供に言い聞かせるようにゆっくりと、しかし微塵の容赦も感じさぬ声色でジゼルが諭した。


「あっがっ」

「どうも心得違いがあるようだ。我らが闘うのは民衆のためではない。全くないとは言わぬが、それは聖イクスの教えを信じる者を護らんがためであることを忘れるな。民だから救うのではない、イクス教徒であるから救うのだ」

「なん……だと……」


 汝、忘るる事なかれ。

 噛んで含めるようにジゼルが囁く。


「我ら聖堂騎士団が戦うのは、人類の叡知の砦たる聖都:エクストラムを防衛せんがため。守るべきはイクスの教えであり、その殿堂たる法王庁なのだ。なにより我ら聖なるイクスの教えに唾を吐き牙を剥く蚊とんぼどもに、いいように見下されて黙っていることなどできると思うのか」

「し、かし、それでは兵たちが……」

「だからだ。これから決定的な一撃を加えようというときに、それを悟らせる馬鹿がどこにいる? 死力を尽くし戦線は維持せよ。雄々しく戦い相手の目を前線に釘付けにしろ。敵にこちらの策を気取らさせるな。なあに、そのときは一瞬だ。高みの見物を決め込んでいる蚊とんぼの親玉どもの横っ面に鉄槌を加える。思いっきり殴りつけて地に這わせる。聖なる神の拳を持って、な?」


 そしてそこへと至る血路を切り開くつわものたちは、尊き使命によって生きながらにして聖別され、すでにして救われた者たちなのである。


「彼らこそ殉教者。イクスの教えにその身を捧げた尊き者たちなのだよ」

「く、狂っている。聖騎士パラディン:ジゼルテレジア、貴女は狂っている!」


 レオノールが思わず叫ぶ。

 断罪する。

 彼に対しジゼルが微笑んで見せたのは、このときが初めてだった。

 我が意を得たり、という笑み。

 いかにも、と嗤った。


「いかにも──狂わずしてなにが信仰者か」

「な、にッ」

「わたくしは狂うほどに信じている。我が神を、聖イクスを、そして敬愛するヴェルジネス一世法王聖下を」


 逆に問おう。


「ではオマエはなにを信じて、いま此処ここに立っているだ?」


 唐突に突きつけられた問いかけ。

 すでに三十代もなかばを過ぎ、壮年を迎えた男は十五以上も年下の乙女に詰問され、言葉を失った。


「不埒者、背教者めが。信心が足らぬわ」


 そんな男から興味を失ったようにジゼルは手を放す。

 がしゃり、と雨で濡れた石畳に甲冑が耳障りな音を立てた。


 しかしそれも城門から続く橋より響き渡る戦闘音楽──剣戟けんげきと怒号、絶叫と懇願こんがんの入り混じった交響曲が打ち消していく。


「わたしは認めん、認めんぞ」

「オマエが認める認めんの問題ではない。我は法王聖下よりこの防衛戦の特務指揮権を任された者。一応この場の指揮官はオマエだが、わたしが本気になれば、その頭を飛び越えて命令を下すこともできるのだぞ?」


 だからいまこうしてオマエを介して軍団指揮を進言しているのは、オマエの権限と誇りを尊重していたからなのだが、そこはわかっているな?

 取るに足らぬものを見るような蔑みを含んだ瞳に射竦められ、聖騎士パラディン:レオノールは呆然とジゼルを見上げた。

 

 その眼前で、ジゼルは濡れそぼった修道女の衣装をナイフで引き裂き、脱ぎ捨てていく。


「な、なにを」

聖騎士パラディン:レオノールは戦意喪失と見なします。ええ、これ以降はこの場の指揮権を完全に、このジゼルテレジアが掌握。はい、殲滅行動に移ります。我が全力を持って敵を排除してご覧にいれましょう」

「なにをしているッ?! だれと話をしているッ?!」


 まるでこの場にいないだれかと話すように、焦点の合わぬ遠い瞳で虚空へとジゼルのは語りかける。

 聖騎士パラディン:レオノールは強烈な違和感を覚えた。

 

 そんな彼に、ジゼルは一瞬だけ視線を戻す。

 だれと話を、ですって? 

 そんなもの決まっているでしょうに、という蔑みを隠そうともしないで。


「我らが父なる神:イクス。そしていと高くも尊き方──聖母:マドラ。その御二方の地上代理人である法王聖下をおいて、だれがありえるというのか」

 

 ジゼルが見せるあまりに迷いなき瞳が、最も敬虔なイクス教信徒であるはずの聖騎士パラディンをして、心胆寒からしめた。


 そのうえで、狼狽する彼をあやそうとでもいうのか。

 ジゼルはレオノールの頬に指を添える。

 彼がジゼルの輝くばかりに美しい裸身から、目を逸らさせずにいることを、許すように。


 もちろんレオノールが血走った目でジゼルを睨むのは、欲情からではない。

 美しい女が放つ恐るべき狂信の《ちから》と、その肉体を拘束する強大無比の《ちから》を秘める《フォーカス》──聖瓶:ハールートに理由があった。


 かつて旧世界を水没させ浄化したという大洪水。

 それを引き起こしたとされる聖瓶:ハールートは、いまや狂信者:ジゼルテレジアの手の内にあり、レオノール率いる聖堂騎士団の精鋭たちを巻き添えにして、ひとつの都市とともに夜魔の騎士たちを壊滅させようとしていた。


 このまま現実が進行すれば、ものの一分としないうちに自分たちには確実な破滅が降りかかる。


「させん、させんぞ!」


 提案の拒絶を示すように男の手がジゼルを突き飛ばす。

 レオノールは立ち上がり、かたわらの武器を手に取った。


 悛改しゅんかい鎚矛メイスの異名を取る《フォーカス》:ヴォーカルペイン。


 エクストラムの聖騎士パラディンたちは、それぞれが最低ひとつの《フォーカス》を身に帯びている。

 そしてそれは、彼ら聖騎士パラディンを輩出した家門の家宝であることがほとんどだった。


 このヴォーカルペインもまたレオノールの家に代々伝えられた品である。


 痛みと衝撃を拡大し長引かせる異能を秘めたこの鎚矛メイスは、強大な再生能力・再建能力を誇る魔の十一氏族の行動を苦痛を持って妨げ、これを無力化するに長じた武具であった。


 またその秘められた《ちから》を解放することで、直接的な破壊ではなく幻の痛みを周囲の敵にまき散らし、軍団レベルの足を止めることもできた。

 もちろんこの《ちから》は尋問においても無類の効果を発揮する。

 聖騎士パラディンに課せられる聖務は、直接的な破壊だけを求められるものではない。

 迅速かつ効率的な情報収集を行う上で、自在にコントロール可能な苦痛をいつでも作り出しながら、相手の肉体を破壊したりすることのないヴォーカルペインは、重宝される局面が多かった。


 光条を発したり、力場を操作するような派手さはないが、極めて実戦的かつ強力な《フォーカス》であったのだ。


 レオノールはそれをもってジゼルを諌めようとした。


 もっとも聖瓶:ハールートのほかには一糸纏わぬ姿となったジゼルであったから、鎚矛メイスによる一撃を受けたりすれば、良くて骨折の重傷、悪ければ即死があり得た。

 だがたとえそうであったとしても、レオノールには彼女の言うがままに策を容認し、兵とあの街の住民の命とが無為に失われていく様を黙認するなどできなかった。


「いますぐ、せめていますぐ兵たちを引かせろ。住民にも避難の時間を与えるべきだ!」


 言いながらレオノールは悛改しゅんかい鎚矛メイス:ヴォーカルペインを起動させた。

 直接的打撃ではなく幻の痛みを持って、ジゼルの凶行を諌めようとしたのだ。


 だが、その試みは空発に終る。

 なぜならば、メイスを握ったその腕を鋭い刃が貫いたからだ。


「うぬっ」

「我が主に手出しはさせぬ。たとえ聖騎士パラディンさまが相手でも、ね」

「貴様ッ?!」


 いずこから現れ出でたものか。

 純白の甲冑に身を包んだ騎士が影のように走り出て、レオノールとジゼルの間に割って入ったのだ。

 その騎士の姿に、ジゼルはすこし呆れたように笑って見せた。


「あらトラーオ、我が騎士。すこし遅かったのではなくて?」

「街の様子を探りながら撹乱作戦を展開していた男にそれを言うのか」

「お願いしていたことの首尾は?」

「見かけるのは男爵や子爵級の夜魔ばかりだ。本当の意味での大物はどこかに潜んでいるんだろう。ここまで姿を現さずに通してきた相手だ。引きずり出すにしても、ちょっとやそっとじゃあ難しい。そして、あの街はもう駄目だ。すでに住民の半数以上が屍人鬼グールとなった。守備隊も全滅。城壁のなかは怪物たちであふれ返る地獄の鍋の様相だよ。カテル島の……ラダコーナ市の比ではない。市内で抗戦を続けていた貴族や騎士たちは自害するか、敵の手に落ちた。そんなわけで夜魔の騎士たちは狩りに飽きつつある。潮時だな」

「ふふ、良い仕事、良い見立てねトラーオ。さすがわたくしだけの騎士さま」


 ジゼルは騎士の頭を掻き抱くようにして胸乳へ導く。

 唐突に与えられた愛撫に、トラーオと呼ばれた純白の騎士はヘルムの奥で鬱陶しげに目を細めた。

 だが、その手を振りほどくことは、しない。

 

「聞いたかしら、元指揮官殿?」


 腕を押さえ跪いた聖騎士パラディンへとジゼルは声をかけた。

 レオノールは自分の身体が言うことを聞いてくれないことに、驚愕していた。


 トラーオの刃が与えたのは、ただの負傷ではなかったのだ。


 数倍に拡張された痛みがレオノールを襲った。

 そう──まるで彼が受け継いだ伝家の《フォーカス》:ヴォーカルペインの《ちから》を逆用されたかのように。


 ぐうう、と理解を超える苦痛にうめく男へと冷淡な声でジゼルは告げた。


「もう救えないわ。この街もアナタの可愛い兵たちも」

「なんてこと、なんということだ」

「だから言ったでしょう? こうするしかないのだと」


 とんだ時間の浪費だったわね。

 貫かれた腕を押さえ、がっくりと膝を落とした聖騎士パラディンにはもはや一瞥をも与えず、交す言葉はないとばかりにジゼルは燃え盛る街を睨んだ。


 そのままゆっくりと精神を集中させていく。

 すると、どうしたことだろうか。

 増水し荒れ狂っていたテスナ河の川面が、さらに泡立ち、のたうつように暴れ始めた。


 逆巻く水流が竜巻に吸い上げられるかのごとく、宙を舞う。

 一秒ごとに水柱は成長し、太く、強大になっていく。


 数秒の内に巨大な御柱と化した濁流は九頭の竜の姿を得て、天をつんざく大瀑布となり燃え盛る街を打ち据える。

 

 その直前──────。

 ドンッ、と街を取り巻く城壁が内側から爆ぜた。

 



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