■第二〇七夜:挑発は想いのために
試みれども試みれども、刑具の姿をした《フォーカス》は蛇の姫:マーヤを手放そうとはしなかった。
すでにそのすべてが白化し、完全にアシュレの制圧下にあるというのに、だ。
これは、とアシュレは思い至る。
ボクが、ボクの無意識が……つまり《ねがい》が、彼女を束縛しているのか?
「それって……あり得ないことではない、あり得ないことではない、ケド」
アシュレは羞恥に顔を両手で覆った。
まさか彼女を自由にすると誓った自分が、心の奥底では真逆の……マーヤの束縛と軟禁と玩弄を望んでいるなどと認められるはずがなかった。
「こんなの認められるか。いいや、認めていいはずがない」
思わず怖い声を出してしまったアシュレに、蛇の姫はびくりと身体を震わせた。
「そんなにいけないことだろうか」
「いや、いけるいけないではなく、これはボクの良心の問題だ。誇りや……騎士としての在り方の問題なんだよ、マーヤ」
「でも……姫はこのままでも悪くはないと、そ、そんなふうに思ってしまっているのだ。そんなふうに思わされてしまったのだ」
羞恥に顔を朱に染めているのはアシュレだけではなかった。
アシュレの苦悩を見て取った蛇の姫は、自分の偽らざる気持ちを明かしてくれたのだ。
あなたからの束縛も玩弄も独占も、わたしにとっては好ましい、と。
アシュレはここへ来る前、シオンから言われたことを思い出した。
『自らの選択肢や尊厳のために命を賭けてくれる男にこそ、女は選択肢を奪われ、すべてを差し上げたいと感じるのだと……まだわからんのか?』
罪深いというのはそういうところだ、とあのときシオンは話を締めくくった。
「だとしても、だ!」
都合の良い回想でこの状況を納得してしまいそうになっている自分を、アシュレは叱咤した。
蛇の姫が驚いて目を見開き顔を上げた。
「だとしてもこんなことは許されない。許されていいはずがない。ボクがボクを許さない──シオン、来てくれ!」
アシュレは夜魔の姫を呼んだ。
数秒の沈黙の後、呼びかけに応えて現れたシオンは乗り気ではなさげだった。
「これでも気を使ったつもりなのだが……呼ばれては出ぬわけにはいかぬ」
「マーヤ、見るがいい。これがボクの永劫のパートナー。“叛逆のいばら姫”:シオンザフィルだ」
「ご紹介に預かった、シオンザフィル・イオテ・ベリオーニ・ガイゼルロンである。ガイゼルロン公国とは故あって袂を分かった。初にお目にかかる、蛇の姫:マイヤティティス・ジャルジャジュール、でお名前に間違いはないか?」
今度は呆然とするのはマーヤの方だった。
ふたりきりだと思っていた空間に、突然第三者が割って入ったのだから当然だろう。
しかもその第三者とは人智を超える美貌を体現する永劫の住人、夜魔の大公の息女だったのだから。
「シオンザフィル……夜魔の大公の娘……」
「そうだマーヤ、美しいだろう? しかも彼女はすでにボクのものだ。身も心も自由に出来るし、そのように幾度もしてきた。この意味がわかるか? これでもキミはボクに……ボクの心の奥底の卑劣で下劣な欲望のままに束縛され玩弄される未来を望むのかッ?!」
自らの卑怯さ、不実さをアシュレはマーヤに突きつけた。
彼女自身が望んだとはいえ、夢としての恋の陶酔のまま、美しい幻想のまま、蛇の姫の自由と未来とを奪うことをアシュレはよしとしなかったのだ。
それを突きつけることで、アシュレに対する不信や怒りを抱いてもらいたかった。
もちろんここで蛇の姫の恩寵を失えば、アシュレたち戦隊は当面の飲料水を失う。
しかしそれと引き換えであっても、アシュレは己の不実を隠匿したまま蛇の姫の心を受け取るわけにはいかないと思ったのだ。
若い、甘い、と言われればそれまでだろう。
浸りたいものには存分に甘い夢に浸らせ、そこからの利益を甘受すればよいのだと老練なる為政者であれば断じたことだろう。
搾取できるものであれば搾取すれば良い。
それで相手が喜び、耽溺してくれているのであればなおのことだ、と。
それが政治というものだ、と。
だがそれでも、この世界の偽りに立ち向かう戦隊を導く者として、その欺瞞を方便と言い換えることだけはアシュレにはできなかったのだ。
己の思慕を前にして突然の事実を突きつけられた蛇の姫の反応は……だれも予想できないものだった。
その言葉を聞いた蛇の姫のアイスブルーの瞳にみるみる涙が溜まっていき、溢れ、ぽろぽろと流れ落ちた。
そして、言う。
「美しい……。あなたがアシュレダウの一番の想い人……シオンザフィル殿下」
「!」
絶句したのはアシュレだ。
シオンは驚きに目を瞠り、その後なにか理解に及んだ表情になってマーヤと見つめ合っている。
「ジャルジャジュール姫……その口ぶりではすでに察されていたか?」
「どうかマイヤティティスと、シオンザフィル殿下。そして、それはもう最初から……」
シオンからの問いかけに、儚げに微笑んでマーヤは答えた。
そこには怨恨も怒りもない。
ただただ、来るべき審判を前にした、しかし覚悟したからこそ晴れやかな罪人の笑顔だけがあった。
「知っておったとも、姫は」
「マーヤ……」
「この地に足を踏み入れた瞬間から、貴公からはアシュレダウ、貴公の身体からはたくさんの女性たちの薫りがしていた。それは体臭というより想い。寄せられた好意や希望、そして加護と恩寵の薫りが」
「戦乙女の契約……」
「いいえそれだけではない。それもあったけれど……蛇の女はとても嗅覚が鋭い。特にその男にまつわるほかの女のそれには、敏感なもの。蛇の姫を前にして不義密通などできる筈がない。想いは薫り」
それに、とさらに笑みを広げて見せた。
「姫は巫女でもあるのですよ?」
なんてことだ、とアシュレは嘆息した。
「じゃあ始めから全部知っていて……」
「完全に把握したのは、捧げて頂いた貴公の血によってだったけれど、な」
「血?」
「夜魔の一族は血によって媒介される夢を糧とすると聞いたことがある。であれば蛇の一族は血に込められた想いを感じ取る。アシュレダウ……あなたの血はとても甘く、濃厚で、気高かった。自らの双肩に託されたものを、必死に果たそうとする者だけが獲得できる品格を持っていた」
姫は、
「姫はそんな貴公だから信じたのだ」
それに、
「それにもし、貴公が言うように真に不実を働いていたなら、そこな夜魔の姫が決して許すまい。ほかの女たちも同様。つまり貴公は幾多の女たちから想いを捧げられながらも、だれからもそれを不実とは思われていない。すべてを明らかにした、その上で」
ちがうか、と問いかける蛇の姫に、大変遺憾だがおおむねその通りだ、と夜魔の姫は盛大なため息とともに答えた。
「なにしろついこの間、ついに竜の皇女まで手中に収めたくらいだ」
「シ、シオン?!」
「まあなんと……豪儀な」
シオンの告白をマーヤは面白い冗談を聞かされたかのように受け止め、朗らかに笑ってさえ見せた。
「それはなんとも、大捕り物で」
「とんでもない狩りの結末であった」
美姫ふたりの間に挟まれ、アシュレは頭頂からダラダラと汗をかいた。
ウルドとのはじめての逢瀬を思い出すと、いまでも懺悔したくなる。
「では姫は、マイヤティティス姫殿下は、真にこのままで良いと言われるのか?」
言葉が見つからないアシュレに成り代わり、シオンが話を進めた。
すこしうつむいて、マーヤが受ける。
「姫は……日陰者ゆえ。すでにこの身は純潔とは言えぬ。とても皆の、アシュレダウを想う者たちなかには混じれぬ恥ずべき穢れた存在……」
「そんなものか」
恥じ入るように言う蛇の姫に、シオンは嘲るように鼻を鳴らした。
隣りで聞いていたアシュレが弾かれたように夜魔の姫を見る。
「なに、を?」
「その程度の想いなのか、とわたしは訊いているのだ、蛇の」




