■第二〇六夜:言葉にできぬもの
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「マーヤ……マイヤティティス・ジャルジャジュール」
そっとアシュレは呼びかけた。
宮殿深奥に座する噴水のそば、件の隠し扉を抜け、水晶の森を潜り抜けて、上水道の源泉に至るあたりで呼ぶ声がした。
歌うように、切々とアシュレの名を呼ぶ蛇の姫:マーヤの声。
そこには恨むような調子はなく、ただただ迎えに来てくれぬ男を一途に待ち続ける姫君の思慕だけがあった。
「想われたな」
というシオンの感想がすべてを言い表している。
果たして、すがすがしい水の気に満ちた源泉の中心で、清き泉水を呼び出し続ける蛇の姫は瞳を閉じ、倒れ伏していた。
全身を戒める忌まわしき刑具の姿をした《フォーカス》が、休む間もなくその肉体を苛んだ結果、限界に達した姫君はこうして気を失い、その間だけつかの間の休息を得られるのだ。
あの祈りにも似たアシュレへの呼びかけは、彼女が心を正気で保つための御守り、そのものであった。
こんこんと湧き出る泉水の響みだけが、ドーム状の天井に反響する。
「マーヤ、マーヤ……ごめんよ。ボクたちのためにこんな……苦しかっただろう。許してくれとは言わない。どうかボクを恨んでくれ。自分たちのために、きみひとりにこんな苦しみを味わわせ続けているボクを」
シオンは泉水の部屋への同席は遠慮すると申し出てくれた。
必要であれば呼べ、と言い残し、門の外で待機してくれている。
それはここまでの道程でアシュレが説明したマーヤのひととなりと、これまで契約を違えず、自分たち戦隊のために安全で清潔な飲み水を潤沢に供給し続けてくれた蛇の姫への敬意から来る、心遣いだった。
「マーヤ。どうか目を覚ましてくれ」
愛しい騎士からの呼びかけに、囚われの姫君のまぶたが、ぴくりと動いた。
ゆっくりとだが、それが持ち上がる。
憂いに満ちているものだとばかり思っていた瞳が、どこか幸せな夢の余韻に満たされていることに、アシュレはすこしだけ驚く。
「マーヤ?」
「アシュレ……アシュレダウ? ああ愛しい方。ええ、はい、お求めのままに。姫は、マーヤは、もう完全にあなたのものですから。どうか壊れるまで、姫をお使いになってください……懇願など踏みにじって……思うままになさってください」
「ッ?! マーヤ、ボクだ、どうしたんだ。しっかりしてくれ!」
まさか正気を失いかけているのか。
アシュレは慌ててマーヤを揺さぶった。
肉体に食い入った刑具がギシリ、と軋む。
アシュレの呼びかけに蛇の姫の瞳が段々と焦点を取り戻し、ハッ、と見開かれた。
「き、貴公?! 本物の?! 本物?! ではあれは夢?! あわわっ、いいいま姫はなにを言った?! うわごとめいて、とんでもないことを貴公に聞かせなかったか?!」
なるほど夢現であったということか。
だとしたら、いったいどんな夢を見ていたというのか。
なにげにさらっと愛を告白された気もするアシュレだ。
しかしそれにしても様子が数日前とまるで違う。
訪うことのできなかった、ここ数日の間になにが起きたというのだ。
アシュレはにわかには状況を把握できず、慌てた自分を落ち着かせようと深く息を吸い込んだ。
「大丈夫、大丈夫だよマーヤ。ボクだ。来たよ、約束を果たしに」
「大丈夫、そうか大丈夫であったか……それならよかった。またあらぬことを呟いてしまっていたのではと心配になった。ああ、よく来てくれた、姫のあなた」
アシュレは先ほどのことは、聞かなかったことにしようと決意した。
ただ、すこし安堵したこともあった。
どうやらマーヤを責め続けるものの質が、すくなくとも悪夢ではなかったと確認できたことだ。
あのマーヤの声には嫌悪や屈辱は感じられなかった。
初めて出逢ったときからは考えられない変化だ。
百年の長きに渡り悪意ある自動装置に絶え間なく嬲られ続け、羞恥と屈辱に塗れ猜疑心に心を占領されていた彼女とは、先ほどの彼女のうわごとは別人のように安らかで……なんというか愛に満ちていた。
「ずいぶんと間を空けてしまった。心細かっただろう?」
「正念場だとわかっていたから──竜王:スマウガルド・ガラムゴルムとの対決──姫は……姫は大丈夫だった。頑張って耐えることができた。でも貴公にもしものことがあったらと、それだけが気掛かりで、心配で。姫との約束を果たそうとして、貴公が命を落としでもしたらどうしようと」
「そこまで想っていてくれたのか」
「でも、すぐに大丈夫だとわかった。貴公の来訪より先に起きた変化で、だ」
「変化?」
よく事情を飲み込めないままにアシュレは問うた。
理由は不明だとしても、彼女が心安くあれたことは僥倖だった。
しかし、その言動にはどこか浮世離れしたものがあった。
蛇の女たちは巫女の《ちから》を強く持つ。
それゆえの予知能力かとも思ったのだが。
「姫の姿、どこか変わっておらぬか、アシュレダウ?」
「変わって……あ、これ《フォーカス》の色が……カタチもか?!」
言われて見れば一目瞭然だった。
マーヤを捕らえる刑具、《フォーカス》の色が、まるきり変わってしまっていた。
昏倒した彼女を介抱するのに懸命なあまり、気がつかなかったのだ。
たしかにマーヤを捕らえる刑具はその姿形ばかりでなく色さえ変えていた。
ぬめるような漆黒から、波に洗われた骨のような白へと。
その色にアシュレは憶えがあった。
「これは……まさか白化なのか? そんなまさか……じゃあスマウガルドに所有権のあった《フォーカス》は、軒並みボク名義に切り替わったってことなのか……」
呆然と呟いた。
竜の聖域でイズマと、ウルドと交した会話を思い出す。
《魂》によって個人適合化された《フォーカス》の名義を新たに書き換えるのは事実上、永久に不可能……。
襲い来るめまいを止めようと両まぶたに指を当てうつむいたアシュレに、当の蛇の姫本人が続けた。
「ようやく思い当たったか? そうだ、もう数日も前のこと。突然、姫を捕らえ慰みモノにし続けてきたこの忌まわしき刑具が、悶え苦しむように暴れ始めた。こちらが壊れてしまうかと思うほどだったが、それはすぐに暴走を止め……このように白く姿を変えた」
「ボクたちが《御方》を仕留めたときだ」
「大仕事を成し遂げられたのだと、身を持って知ったのだ姫は」
それ以来だ。
「この刑具の振る舞いが一転した。慈しむように、しかし貪るように、優しく深く求められるようになった。恥辱で屈服させるような運指ではなく、姫の心の深いところを愛してくれるような……そういう振る舞いにまるきり変わってしまった」
しかも、だ。
「そこから流れ込んでくるのは貴公の……あなたの《スピンドル》の薫りと想い。姫のことをどんなに気にかけてくれているか、大事に想ってくれているかが伝わってきて……こんなの……耐えられぬ。耐えられるわけがないではないか」
ぐずぐずと泣きながら、しかしまったく嫌でも悲しいわけでもなさそうにマーヤは言うのだ。
「嬉しさしか感じられない。玩弄されているハズなのに、貴公のものであるというだけで、嫌悪も苦痛も感じられない。なにひとつまったく拒絶することができない、拒もうと考えることすらできなくされて。愛されているとしか思えない」
そういう数日を過ごしてしまった。
「姫の言っていることはおかしいか?」
問いかけに、アシュレは無言で首を振った。
極めて主観的で観念的ではあるが、蛇の姫の感じ方は間違っていなかった。
たしかにアシュレはマーヤのことを大事に想っていた。
戦隊を救ってくれた恩義だけでなく、必ず自由にして野に放ってあげなければならない存在だと。
そしてその想いを、白化して自らのものとなったこの巨大な《フォーカス》は汲み取り、振る舞いを変えたのだ。
不浄王:キュアザベインの戴く苦痛の冠と振る舞いが異なるのは、アレがいざというときキュアザベインを屈服させるための道具であるのに対し、こちらの刑具は常に自動的に蛇の姫を責め苛むための道具であったからだろう。
だから持ち主がスマウガルド……いいや《御方》から、アシュレへと切り替わった瞬間に、その心の深い場所にある想いを汲み取り、マーヤへの行為の質を変えた。
ただ、とアシュレは思うのだ。
「これは……取り外せないのか?」
「アシュレ? アシュレダウ? どういうことだ?」
不思議そうに蛇の姫が訊いたのは『取り外せないこと』についてではなかった。
「これを取り外す、のか?」
「ああ、もちろんだよ。取り外すとも。そう言ったハズだ。必ずキミを自由にする、と。ボク、誓わなかったかい?」
意外なことを言われたようにマーヤが目を見開いた。
「まさか本当に姫を自由にしてくれるつもりだったのか?」
「あたりまえだ。そのためにボクは命を賭けて戦った。キミとの約束は必ず守る」
アシュレの断言に、蛇の姫は一瞬だがなぜかショックを受けたような顔をして、それから頬を赤らめるとうつむいてしまった。
「マーヤ?」
「まさか……まさか、そこまで本気で」
嬉しいのか、悲しいのか。
よくわからない様子でマーヤは小さく首を振った。
なぜなのか理解できないが、ともかくアシュレは《フォーカス》との格闘に移った。
そもそもこの《フォーカス》はすでに自分のものなのだから、マーヤを解放する手段が必ずあるはずだ。
だが試せど試せど、刑具は蛇の姫をがっちり捕らえたまま解放しようとはしなかった。
以前のように刑罰のような暴走こそ起こさなかったが、蛇の姫を捕らえた枷はびくともしない。
「どうなっているんだ、これは」
「姫は思うのだが……これは自動的に……つまり貴公が意識せずとも姫を……そのだな、玩弄して言うことを聞かせる道具だから、ではないのか? これはそういう意識にのぼらない望みを汲み取る道具なのでは?」
「つまり?」
「その……つまり……き、貴公の心の深いところが姫を解放したくないと、そう思ってくれているのではと……姫は愚考するのだ」
姫の、お、思い上がりであろうか?
顔を真っ赤にしてさらにうつむくマーヤに、アシュレは愕然とした。




