■第一九五夜:星と蒼穹
ウルド────。
そう呼びかけられたような気がして、竜の皇女はまぶたを持ち上げた。
ずいぶんと長い間、眠ってしまっていたような、そんな心持ちがした。
目覚めると、瞳に飛び込んできたのは星空だった。
満天を圧してさんざめく星々が、ウルドを包み込んでいた。
そして、その宙を、数え切れないくらい、信じられないくらいたくさんの光がながくながく尾を引いて落ちて行くのだ。
「流れ星……?」
「いいやあれは……この精神の牢獄が捕らえていた記憶たちが世界の崩壊とともに流れて落ちて行くところだ。記憶野が崩壊して生じる光……末期の。……気がついたか、我が愛よ」
振り向けばそこには男が座していた。
片膝をつき、眠っていたウルドを守るようにして。
「スマウグ? あなたはスマウガルドなのか?」
「そう、そのとおりだ。我が君、愛しき姪よ」
そこにいたのは紛うことなく竜の王であった。
スマウガルド。
かつてウルドが想いを寄せたあの日のままの姿で、偉丈夫は佇んでいた。
竜族としては柔和な面持ちだが、内に秘めたる王としての気質をその鋭く研ぎ澄まされた牙が、高い知性と思慮深さ、そして深い愛を秀でた額が表していた。
「ああ、スマウグ!」
だが思わず起き上がりすがりつこうとしたウルドを、大きな掌がやんわり、しかし断固として制した。
「なんだ……どうした? どうしたというのだ、抱擁ぐらい、させよ。生きてこうしてふたたび逢えたのだ。あの日の──あなたに」
予期せぬ拒絶にウルドは泣き出しそうになってしまった。
かつてウルドはこの男を自らの義憤によって誅した。
彼は竜族の臣民である空中庭園の民の命を貶め玩び、尊厳を汚し、結果として竜族の誇りを穢した。
だから同じく竜の皇女としてこれを罰するのは、責務であった。
しかし、あのときは意識できなかったが、ウルドが彼を弑したのは、もっと別の感情がその胸のうちで大きな部分を占めていたからではなかったか。
裏切られた、と思った。
自分が慕い尊敬までしていたはずの男が、このような下衆に堕したことにウルドの怒りは頂点に達していた。
男は見る影もなく変わり果て、淫蕩で邪悪な儀式に没頭し、あまつさえ他の生命を弄っては玩んで己に都合のよい玩具にした。
それを許せないと感じた。
自らがそうであるように、彼もまた自分を憎からず想ってくれていると感じていた。
求愛の決闘をあちらからは申し込まずとも、ウルドからの挑戦を拒絶することなく真っ向から何度も受けてくれるからには、そういうことだと信じていた。
だが、だが──これではまるでわたしの想いさえ、己の穢れ切った欲望を満たすための戦利品でしかなかったかのようではないか。
それが許せず、我慢出来ず、ウルドは彼を殺したのだ。
惨い辱めを与え長き苦痛の果てに──彼が領民たちにそうしたように──死すように処した。
だが彼の、スマウガルドの真意はそうではなかった。
彼は救おうとしてくれたのだ。
ウルドを。
ウルドたち竜族を。
この世界が定めた理不尽な規矩から解き放って。
それだけではない。
スマウガルドはずっとウルドを守ってくれていた。
なにから?
己のなかにある理想と……恋慕から。
いや、己の想いの成就を《ねがう》ことが恋であると定義するのであれば、それはもはや恋などではありえなかった。
想いの不達を己自身に課しながら、そうであるのに想い人を守ることはこれはもはや、恋という言葉では説明がつかない。
その想いをなんと呼べば良いのか、ウルドはすでに答えを得ていた。
愛。
そうウルドはすでに、ずっとずっと昔から愛されていたのだ。
彼に。
スマウガルドに。
だからこそ彼はウルドの想いを遠ざけた。
なぜならいま自分が試みていることは……《御方》の遺骸を用い世界を改変しようという試みは、極めて危険であると理解していたからだ。
自らが志半ばで果てたとき──あるいは《御方》に取り込まれたことまで想定していたか──自分のかたわらにウルドがいては危険だからだ。
ウルドを穢してしまうからだ。
完全な理解に達してしまったウルドは、もう嗚咽を堪えられない。
両手で必死に口元を押さえて声を押し殺す。
竜族は決して人前で声を上げて泣いてはならない。
それは王者としての種の敗北を意味するからだ。
しかしそれでも……涙を押しとどめる堰はない。
その様子にスマウガルドは、微苦笑した。
ウルドの理解とその優しい心根に感謝するような、安堵したような、それでいて案ずるような微笑み。
その肉体はなぜかもうすでに、ほとんど影に呑まれてしまっていて。
「スマウグ……スマウグ!」
ついに我慢出来なくなってウルドは叫んでしまった。
「来ては行けない」
しかし種としての禁忌をかなぐり捨て愛慕の情を示した姪を、スマウガルドは三度、拒絶した。
「なぜ。なぜなんだスマウグッ! せめて……せめて触れさせてくれ。あの日のあなたに」
「だからだ、ウルド。きみがそういう娘だからこそ、もうわたしに触れてはならない」
「わたしが、わたしだから?」
「言ったはずだ、ウルド。わたしはすでに《夢》だと。ここにいるのは正しくはもうスマウガルドという男ではない。その精神ですらない。わたしはただこの《御方》が、《御方》の内部制御を司るこの小さな“庭園”が演じ続けさせているわたしの影に過ぎないのだ」
「か……げ?」
「もっと分かりやすく言えば死者だ。死者の記憶だけがいつまでも姿見に写り込んで、生きているかのように振る舞い続ける。永劫の孤独のなかで演じ続ける」
「永劫の孤独のなかで……」
「だがそれももう終わりだ。きみが、そしてきみが連れてきてくれた男が、終わらせてくれる」
嗚咽が驚愕と衝撃に変わり、その痛みにウルドは打ちのめされた。
スマウガルドの言う「外界からの男」のことをウルドはよく知っていた。
そうアシュレが、アシュレダウがこの世界を、この閉じた小さな“庭園”を終わらせる。
しかしそれは同時に、その“庭園”が演じる彼=スマウガルドの終演でもあった。
「そんな……なにか方策があるのだろう。ここから……出るやり方があるのだろ?」
蒼白になって震えながら問う姪に、スマウガルドは苦い笑みを広げた。
「なくはない。あるいは、だが」
「ではそれを……」
「きみや、きみを助けるためいまも外で奮闘を続ける彼の内部に、わたしを移せばあるいはだが、ね」
言葉を失いウルドは息を呑んだ。
ありえないさ、とスマウグが自嘲気味に笑った。
「残念ながらその《ちから》はもうこの《御方》には残されていない。出力と命令系統を分断する記述をだれかが書き込んだ。《御方》の内的世界に介入して、その内的言語=相似系会話 調整言語 にその連結を一時的にしても阻害する記述を書き込んだ者がいる」
極めて驚くべきことだが。
そう告げるスマウガルドの顔には賛嘆の色があった。
「まさかわたしより先に、その実現に漕ぎ着けた者がいるとは。脱帽だ」
楽しげに言う。
けれども、もう彼の身体はほとんどが影に呑まれて、闇色に染まっていく世界と区別ができなくなりつつあった。
闇に向かって収斂し崩壊していく世界が、彼を取り込もうとしているのだ。
「スマウグ! こっちだ。そこに留まっていてはいけない!」
叫ぶウルドの肉体は、対照的に光に包まれていた。
胸に穿たれた杭とそこに結わえつけられた縛鎖から、どうしたことか温かい波動と律動とがどんどん流れ込んでくる。
そしてその輝きと温かさが増していけばいくほど……太陽の光が闇を際立てるようにスマウガルドに落ちる影は濃さを増していくのだ。
いいやそれだけではない。
世界からはもうすでにすっかりと星々の光は退き、あちこちからガラス細工が壊れていくような、崩壊の音が鳴り響き始めていた。
「スマウグ、スマウグ!」
そのときになってウルドは気がついた。
ウルドもスマウガルドも一歩も動いていないのに、互いの距離がじりじりと引き離されている。
慌てて走るが──素足は空を掻くばかりで前にも後ろにも進めない。
そうすでに世界の底は失われていて、ウルドはただ宙にいるだけなのだった。
ああ、とその姿を見て竜の王だった男は微笑んだ。
星のようだ、と笑う。
いまのきみはまるで。
星だとたとえられた皇女は、しかし、泣き叫んで引き離されていく男に手を伸ばすのだ。
そんな姪に「そうじゃない」と男は首を振る。
「きみが行かなければならないのは、こちらではない」
満身の《ちから》を込めるようにして、泥土のごとき闇の帳から振り抜かれたその腕が、天を指し示す。
思わずウルドはその指が差す先を、振り仰ぐ。
崩壊していく《御方》の内的世界の内側から。
そこに見えたのは青い、いやもはや黒いと表現したほうがいい、澄み切った青空だった。
その青さに己の内側が熱されるのを感じた。
肌が、翼が、風を嗅いだ。
縛鎖を介して流れ込んでくるあの波動と律動が「生きろ」とウルドに告げていた。
伝えられる想いが胸を焦がしていく。
そして──呼ぶ声がして──ウルドは目覚める。
今度こそ、本当に。




