■第一八〇夜:聖贄(せいし)の祭壇
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気がつくと祭壇の上にいた。
立ち枯れの大樹の梢を組み合わせて作ったような、孤独な生け贄のための処刑台。
この白い梢。
特徴的で節くれ立った枝のありさま。
目覚めた瞬間、そのすべてをどこかで見たことがあるようにスノウは感じた。
どこでだったかはすっかり忘れてしまっていたけれど。
そしていまその寒々しい祭壇に両腕を鎖で縛られ吊られて、スノウは座しているのだった。
座しているといってもギリギリ膝がつくかつかないかという、絶妙に意地の悪い姿勢で跪かされているだけだ。
気を失っていた間にかかった体重のせいで、抜けてしまうのではないかというほどに腕の付け根が痛んだ。
かわりに素肌を覆うのは、信じられないくらい肌触りのよい深紅の長衣。
炎に巻かれながらも飛び交う蝶の群れが、金糸で縫い取られている。
絹織りのそれは、とても値段などつけられないほど高価な召し物だったが、帯もベルトもなく前を閉じられていないため首筋から胸の谷間、そして下腹までなにも隠せてはいない。
ただただ自分という存在を貴重な生け贄として仕立て上げるためにだけあつらえられた、そういう衣装だとスノウには思えた。
あ、う、と脱臼してしまいそうな腕の痛みにうめく。
なんとかそこから逃れようと立とうとするが、膝にはもうぜんぜん力が入らない。
「おっとう、お目覚め? あんま無理しないほうがいいよ。スノウちゃんのカラダにはいま、なにされても気持ちよくなるように、ボクちんが念入りにおクスリ入れておいてあげたんだから。ちょっとの衝撃で大変なことになっちゃうぞ?」
気がつくと耳元で声がした。
指が、むき出しのスノウの足を撫でるか撫でないかのところで振るわれる気配。
それだけで電流が走り抜けたような感覚が、尾骶骨から骨から頭蓋までを一直線に走り抜けた。
ひいいいいっ、とスノウは悲鳴を上げる。
じゃらりがじゃりと縛鎖が鳴り、年齢にしてはあきらかに豊かな胸乳が揺れ、その衝撃がまた連鎖反応を起こしてスノウを悶絶させる。
にこにこ、とその様子を軽薄な忠告をした男は隣で見守っていた。
「ほらね、言ったでしょ? 長い間鎖に縛られて吊り下げられているみたいな、間接や筋が痛むようなタイプの痛みはしょうがないけど……いまスノウちゃんのおカラダは刺激に対して極めて感度良好になっちゃってるんだよ。そのまま静かに、静かーに落ち着いて」
触れたのは自分だろうに、まるで他人事のように男は言った。
その紅玉のように赤い一つ目の男をスノウはよく知っていた。
「い、イズマ?! イズマどうして?!」
「あーらら、おクスリがノーミソの方にまで回っちゃった? アレレレ、ボクちんおクスリの量を間違えたかなあ。肉体は限界まで責め、理性はギリギリのところで残す。それが土蜘蛛の調教術の極意なんだけどナー」
「なんでなんで、ここにイズマがいるのッ?!」
「いやいや、つい先ほどお会いしたじゃあないですか。件の温泉地で」
「そんな、そんなじゃあ、わたしをこんなにしたのはイズマなの?! どうしてどうして、どうしてッ?!」
「どうしてって……そりゃあ。えっと説明しなかったけ? あ、しなかったネ? でもスノウちゃんにはもうわかってるんじゃあないの、ねえ?」
キミは悪い子だもの?
イズマの口調はどこまでも優しくて、でもそれがたまらなく恐ろしくて、スノウは思わずうめいてしまった。
「裏切った?! 裏切った?! わたしたちを裏切って、竜王:スマウガルドの手下になった?!」
「なーんだ、やっぱわかってんじゃないっスか。かわいこぶっちゃって、んもうほんとにスノウちゃんてば、悪い子さんっ」
言いながらイズマは、暴れたことであらわになったスノウの突端を指先で弾いた。
がひゅっ、とふたたび声にならない悲鳴がスノウの口から漏れる。
軽く弾かれた、たったそれだけで、先ほどとは比べ物にならない衝撃がスノウを襲ったのだ。
あああ、あああああああ、という喚きを、スノウはまるで他人事のように聞いた。
「ああららら。スノウちゃんってば名器さん。すっごいそそる鳴き方するんだね」
「イズマイズマ、もうやめて。これなにわたしのからだどうなって、や、いあやめて──」
「あーはいはい、やりませんよもうこれ以上。指一本触らない、ボクちんはね?」
「ひいっ。い、イズマは……もうしない?」
まだ走り抜けた衝撃の余韻に痺れながら、あっさりと引き下がったイズマの言葉を信じられずにスノウは言った。
そーそー、と土蜘蛛の男は軽薄を絵に描いたような顔で頷いた。
なんどもなんども。
イズマが頷くたびに、信用とか信頼とかいう言葉がゴミくずになっていく。
「いまのは説明を受け納得したうえでの同意とでも言えばいいのかなあ。ほらスノウちゃんもいま自分のボディがどんな状態で、いまから起こることをどんなふうに感じられるのかちゃんと知っといた方が覚悟も固めやすいし、理性も保ちやすいでしょ?」
「説明を受け納得したうえでの同意?! いまから起きること?! 覚悟を固めやすい?! り、理性を保ちやすい?!」
なにを言われているのか、イズマがなにを言っているのか。
スノウにはさっぱりわからなかった。
ただひとつだけわかるのは、恐いということだ。
なにひとつわからないということが、とてつもなく恐い。
おそろしくてたまらない。
だから思いっきり否定した。
「しない、わたし同意なんかしないよ、なにひとつしない!」
「あーらら。でも、そーわ言われましてもねえ。スノウちゃんももうすっかりご存知のとおり、現在のわたくし絶賛スマウガルド陛下の忠実な下僕ですのでえ、クライアントさまからのご要望には逆らえないっていうか」
「スマウガルドの──要望?!」
「うん、なんかスノウちゃんの話をしたらすっごい興味を持たれたみたいでね。世界の秘密が隠されてる本と一緒になった娘ちゃんだーって説明して差し上げたら、是非ともめくり返してみたいっておっしゃるから」
「めくり返す?! め、めくり返す?!」
約束通り、今度はイズマは指一本スノウには触れなかった。
そのかわりにワキワキとそれはもう直視をためらわれる位には卑猥に両手の指を動かして見せた。
スノウの呼吸はそれだけで極限まで浅く、速くなる。
ガチガチガチガチ、と歯が鳴るのを止められない。
スノウが魔導書:ビブロ・ヴァレリであることを、スマウガルドに知られた。
そのことだけでも恐怖なのに、よりにもよって彼はスノウに興味を抱いたのだ。
イズマが面白おかしく知らせたから。
温泉地の高台でイズマの過去を見通したとき、屍の王として現れたスマウガルドの醜い姿が脳裏で瞬く。
鮮やかに、残酷に、あのとき感じた腐臭と重圧もそのままに。
胃の腑が裏返るような感覚をスノウは憶えた。
ぐぶり、と吐瀉物が喉をせり上がり口腔から迸った。
「あーらら、吐いちゃった。おっかしいなあ全部出しといたはずなんだけど、胃液だけでも人間は吐いちゃうからなあ」
喉を焼く胃酸の痛みと鼻を突く吐瀉物の匂いに泣きながら、スノウは喚いた。
苦痛だったからではない。
スノウの肉体は喉を胃液がせり上がる感覚、その不快さを快感と感じてしまったからだ。
「でも苦しくはないみたいだね。よしよしボクちん上出来! さっすがの腕前でしょ? もともと人間の喉には官能を感じる器官としての役目があんだよね。ごくごくごくって喉鳴らしてミルク飲み込んだり、咀嚼の足りないパンを勢いよく飲み込むとき苦しいはずなのにそれが気持ちよく感じるでしょう? いまのスノウちゃんは喉をなにかが通過するだけで感じちゃうんですよ、気持ちよく」
「なんでなん、なんでこんなこと」
「そりゃあボクちんがスノウちゃんのこと大好きだからですヨ。もっかい言うね、大事なことなので? ボクちんはスノウちゃんのことが大好き! だから苦しんで欲しくないのよ。知らないこわーい竜王さま……いまはばっちい屍か……にめくり返されても苦しみより快感を感じて欲しい! だからそうしました!」
つまり、
「これは慈悲。かなり慈悲。というか慈悲」
指を振り立て瞳を閉じて満足げに言う土蜘蛛の王を、スノウは驚愕の眼差しで見上げた。
そんなスノウの様子に、にんまりと満足げにイズマは笑って立ち上がった。
両膝を折って吊り下げられたスノウと目線を合わせるために、つま先だけで重心を保ちイズマは開脚屈伸という奇妙なポーズで座っていたのだ。
「イズマ?!」
「安心して。しないよ、ボクちんは。もうなんにもしない。それどころか立ち去ります。下ごしらえは済んだからサ。ここからはクライアントさま──スマウガルド陛下の番さ」
慇懃無礼な執事のように芝居がかった仕草で一礼して、言葉の通りイズマは場を退いた。
その背後から、じゃらりがらり、となにかを引きずる音がして……それは現れた。
立ち枯れの樹で出来た祭壇へと階下から階段を使い一歩一歩、上がってきたもの。
その姿を目の当たりにしたとき、スノウは先ほどとは比べものにならない嘔吐感に襲われた。
なんどもなんども吐く。
吐いてしまう。
なぜって。
眼前に現れたのは竜と人間をそのちょうど半分で掛け合わせ、その生き物に念入りに拷問して長い年月をかけて隅々まで腐らせた──そういう存在だったからだ。
そこから漂ってくる腐臭が、スノウの胃の腑をひっくり返す。
生理的嫌悪などと生易しいものではない。
他を圧する圧倒的な汚濁の匂い、そして明らかに邪悪な重圧がスノウに生物としての危機を知らせる。
繰り返しせり上がってくる液体と、喉と鼻腔を焼く酸の痛み。
だがそれすらもいまのスノウには快感としてしか感じられない。
それが怖い。
こわくてたまらない、たまらないのだ。
「シダイハ、スマシタカ?」
「もちろんですとも陛下。ユアハイネス、ユアマジェスティ。いかようにも気の済むまでめくり返されてくださいまし」
「ナルホド、コハ、ナントモウツクシイ」
「汚し甲斐があります?」
「コタビノ、シギ、ホメテツカワス」
腐りかけの肉片を震わせながら、屍の王たるスマウガルドはイズマを褒めた。
ごぼりがぼりと毒の沼地から湧き出すようなその声からは、堪え難い臭いとスノウに向けられた歪んだ情欲が触れられるほどの濃密さで感じられた。
いや、と締め上げられるガチョウのようにスノウは泣いた。
もう悲鳴も満足に上げられない。
グッグッグッ、と脅えきった娘の様子を見たスマウガルドは喉の奥で笑う。
たまりませんねえ、とイズマが追従する。
そんなふたりに「どうして」とスノウは問いかける。
わからない、という首を振って。
どうしていま自分がここに居て、これからどんな目に遭わされるのか。
それがわからなくて発した問いでは、ない。
底なしの恐怖に追いつめられながらも、スノウは気がついたのだ。
全身を無数の武具と銛とで貫かれ、さらに胸郭に直接結わいつけられた縛鎖を臓腑のように引きずる屍の王。
彼が纏う腐汁を吸い込みボロボロになってしまった王の衣装。
そこに縫い止められた、いまでも鈍く光る汚れた装飾品の数々。
いいやそれは宝飾品にまで高められた勲章……。
同じ衣装を纏い、同じ縛鎖に胸貫かれた男とスノウはつい先ほど出逢った。
あれは……《夢》のなかでのこと。
いいや、あすこがもし彼が言ったように、切り取られた“理想郷”であったなら。
もしそうであったなら、あれは《夢》などでは断じてない。
なぜなら“理想郷”はいまこの瞬間も、スノウたちのすぐ隣り、《意志》を手放した人間には決して超えられぬ無意識の帳の向こうに実在するからだ。
「おうさま、なの?」
かぼそいスノウの囁きは、その直後に起きた慄くような音の連なりにかき消された。
理解に震えるスノウの足下で、まるでスマウガルドの意思を受けたかのように立ち枯れの樹のようだった祭壇が、ざわわ、ざわわわわ、と蠢いてカタチを変え魔導書の娘を取り込むようにせり上がってきたからだ。




