■第一七六夜:ヒトを導くもの
去れ、とケダモノたちに向かって言い放ったのは、王さまだった。
「去るがいい、上位存在へのシフトを嘯きながら可能性を玩ぶケダモノども。貴様らの気まぐれで無責任な《夢》に、この娘を《そうさせ》はせん」
庇うように進み出た王さまが、外套が翻す。
深紅の長衣が、スノウに注がれていたケダモノたちの視線を遮る。
それは対決の合図だった。
王さまの外套の影に庇われたスノウからは見えないが、三者が睨み合っていることがヒシヒシと伝わった。
耳が痛くなるような、ゾクゾクと背筋が寒くなるような種類の沈黙が両者の間にはある。
ケダモノたちが凝視しているのは自分なのだと、スノウにもわかった。
さて、どれくらいそれが続いたか。
突然、草原を一陣の風が吹き渡り、それが丘の上に立つ木立を強く嬲った。
スノウもワンピースの裾を慌てて押さえ込む。
下着の類いを身につけていないスノウにとってそれは乙女的に大事であった。
ただ王さまだけが荒れ狂い舞い踊る長衣をものともせず、ただじっとケダモノたちと対峙していた。
ざわっざわっざわっ、と呼ぶように大樹の枝が風に鳴る。
そして、ついに突風がその勢いを失ったとき、ようやく視界を取り戻せたスノウが見たのは、光る足跡だけを残して丘の向こうへと走り去るケダモノたちの姿だった。
「ナニ、アレ?」
震えながら王さまの裾に取りすがってスノウが訊いた。
「アレはケダモノ。可能性のケダモノ。そなたたちを《そうするちから》がカタチを取ったものである」
目に見える強制力だ、と王さまは言った。
「目に見える強制力? 《そうするちから》?」
「あるいはかつて我らに注がれた《ねがい》も、“庭園”にあってはあのような姿をしていたのかもしれぬ。我もはじめて奴らを見たのは、ここに来てからが、はじめてであったよ」
このときになって、スノウはようやく理解した。
ここがどこなのか。
いやよく考えたら、王さまは最初から言っていたのだ。
ここは庭だと──“庭園”だと。
「まってじゃあわたしいま」
“庭園”にまつわるこれまでの経験の数々が甦って、スノウは震え上がった。
「案ずるな。ここは確かに“庭園”であり、奴らこそこの世界の住人ではあるが、ここは我が切り取った我が所領。我が賓客であるそなたに危害は加えさせぬ」
流れるような動作でスノウを抱きしめて王さまが確約してくれた。
だが、スノウの動揺は収まらない。
“庭園”がどんなところか、スノウはもう知っていた。
ここは《御方》たちや、“再誕の聖母”の本拠地だ。
「なんで? なんで? どうしてわたし……」
「もしやと思ったが、そうかそなたここを──“庭園”の存在を知る者であったか。道理で詳しいわけである。この世界の成り立ち、我ら竜族がいかにして王という役割をなすりつけられたかについて」
王さまの身体からは燃え盛る溶岩の匂いがした。
彼が本物の竜であることをスノウは強く意識する。
不意にその手を振りきって、駆け出したくなる欲求に襲われた。
端的に言えば恐慌に陥りかけていた。
「はなして!」
叫んで駆け出したスノウの後ろ手を、王さまが掴んだのはそのときだった。
がくん、と肩が抜けそうな衝撃があって華奢な肢体が草原に踊る。
「待つがよい、スノウ。夜は危険である。そなたは我が護る。どこにもゆくでない」
「だって、だって──王さまホントはだれなの? なんでこんなところにいるの?!」
「待つがよいと言った。我を恐れるそなたの心はわかる。だがいましばらくはともにあるがよい。先ほども見たであろう。ここは我がその生涯を駆けて、巨大な“庭園”の本領から切り取った一部、すなわち“島”である。だが、切り離したはずの本領からケダモノたちはどういうルートを通ってか渡ってくる。忍び込んでくる。我が目を光らせている間はそなたに手出しはできまいが……そなたがひとりになったら途端に群がってくるであろう。アレはそういう性質のものだ。孤独の匂いに群がるのだ」
つまり悪辣なのである。
言いながら王さまは跪いて、スノウと目の高さを合わせてくれた。
それで……それでなんとかスノウは平静を取り戻すことに成功した。
「あぶない、ってこと?」
「ひとりになるでない」
優しく諭されて、スノウは折れてしまった。
アシュレ似の美丈夫にそんなことを言われると、とてもひとりではいられなくなる。
依存はスノウの、矯正できない性であった。
ずくん、と未熟な《スピンドル》が疼いた。
「でも“庭園”のこと知ってるってことは……王さまは竜族の成り立ちについて、どうして自分たちが《そうされた》かも、ホントは知っていたんじゃないの? なんでわたしに聞いたの?」
腹立ち紛れに詰問口調で問うた。
いま訊くべきことではなかったかもしれない。
だが知らないふりをされてきたことが、たまらなく腹立たしかったのだ。
本当に腹を立てていたのは恐くてひとりではいけない自分に対してだったが、それでも色々なことを伏せられたまま、ここまで体よく王さまに扱われていたことが気に入らなかったのだ。
抗議交じりの詰問をスノウはぶつけた。
対する王さまの返答は、困惑に彩られていた。
「あるいは仮説はあった。我らがなぜどうしてどのような思惑によって竜にされたのか。だがそれはあくまで我ひとりの推論であり、研究であった。客観的な事実に辿り着くには、それについて語り合い、試行錯誤できる者が必要不可欠であったのだ」
言い分けじみて言葉にしたあと、王さまはため息をついた。
合点したように。
ああ、だからか、と。
「ああ、だからか。だから我は望んでしまったのだな、そなたを。そなたのような者がここに来て留まって欲しいと《ねがって》しまった。だから、」
「わたしみたいな人間を《ねがった》?」
突然、愛の告白を受けたような衝撃に、スノウは胸を貫かれた。
王さまの目が、動揺に揺れていたからだ。
世界は黄昏を通り越し、どんどん夜へと向かっていった。
星々が空を埋め尽くしていく。
それなのに虫たちの声すらしなかった。
かわりにスノウはたくさんの光る眼を見た。
それは遠くの暗がりから王さまとスノウを凝視するケダモノたちの眼だ。
「いこう」
逡巡を振り切って王さまは立ち上がった。
スノウにも続くように促す。
ほとんど駆け出すと言っていいほどの速度で、大股で丘を目指す。
「どうして?」
手を引かれ転びそうになりながらも、スノウは訊いた。
なにについて問うたのか、自分でも判然とせぬままに。
「どうして我らが竜族が王としての役割を練り着けられたのか。そなたはそう問うたな? それは我が生前ずっと追い求めてきた問いであった。なぜ我らは王として産まれ落ちたのか。だれがそう望んだのか。なんのために?」
王さまの声もまた、スノウが聞きたかった答えとは違っていたかもしれなかった。
だが、それでもふたりは語らずにはいられなかった。
かさりこそり、と葉を踏む蹄の音が聞こえたからだ。
「我が得た仮説はこうであった。つまり彼らは──我らに玉座を差し出した《旧世界のみんな》は《ねがい》を投じた。我らに集中させた権力が、いつか臨界点を超え、自分たちを導く強大なエネルギーとなることを望んで。その《ちから》を発生させ得る強力な炉を、我ら竜族が体内に器官として持ち得ることを強く《ねがって》」
「自分たちを導くエネルギーを、それを発生させる炉を《ねがって》?」
「ここではそれをあえて《希望》と呼ぼう」
「きぼう」
歩幅がまるで合わず、遅れがちなスノウをついに王さまは抱き上げた。
アシュレ以外の男性に触れられることにスノウは忌避感があったが、すぐに強張りは解ける。
王さまの真剣な瞳と、周囲からじわりと狭まってくるケダモノたちの包囲の気配がそれを促した。
「《希望》はなにをするの? なにをする《ちから》なの?」
「信じさせる」
「なにを」
「明日を。保証されていない未来を生きることを」
「それを発生させる器官。竜族がそういう器官を……炉を作れるの?」
「竜族である必要はなかった。だが結果として、その器官を──生体炉を体内に宿せる存在は竜しか有り得なかったのだ。彼らが、かつてこの世界を望んだ《みんな》の総意を、集合無意識を、《ねがい》を意識化して“庭園”が集積してカタチにしたら、そうなっただけのことだ」
あまりのことにスノウは言葉を失う。
でうして自分がこんなことを聞かされているのか、わからない。
けれども聞かなければならないことだとわかった。
なぜって王さまの口ぶりは必死だったし、丘を目指す足取りはすでに疾駆と言ってよかったからだ。
「じゃあ竜族に王の役目を託したヒトたちは《希望》が欲しかったんだ」
「そう、そうだ。そなたは聡いな。そのとおりだ。そのとおりだと我は睨んでいる」
「じゃあ……《みんな》が《希望》を望んだその時代には、よっぽど《希望》がなかったんだね」
「そなた……そこまでわかるのか。ああ、神よ感謝します。いまこのとき、このような娘と出会わせてくれたことを」
王さまに褒められるまでもない。
それはスノウの実感だった。
ヒトは自分にないものに強く焦がれる。
自分自身がそうだから、よくわかるのだ。
かつて竜族に王の姿を託した人々は《希望》を見失っていたのだ。
だから、それを発生させるという器官を、つまりカタチを取った揺るぎなき《希望》を強く《ねがった》。
「王さまたちに力強く率いて、導いてほしかったのかなあ」
「さて、それはどうだろうか。いやそういう《ねがい》もあったであろう。しかしそれは究極的には違うと我は見ている」
丘が迫ってきた。
斜面は遠めに見ていたときよりよほど急で、はるかに荒涼としていた。
そこを王さまはスノウを抱えたまま駆け上がっていく。
むき出しのスノウの柔らかい足では、きっと傷だらけになっていただろう。
「究極的にはチガウ?」
導いて欲しかったのではなくて?
王さまの首筋にほとんど唇が触れてしまいそうな距離でスノウは問うた。
うん、と王さまは頷く。
「導いて欲しかったというのは間違いではない。ないだろうよ」
「でも、じゃあ」
「我々に王たれと望んだ彼らは、導かれたいと《ねがう》と同時に、指図されることも拒んだ。命令は嫌だと拒みたかった、というのが正確であろうか?」
以前のスノウであれば王さまがなにを言っているのか、本当にわからなかったであろう。
だが、いまは違う。
もう違った。
アシュレとともにトラントリムの暗い夜を、ヘリアティウムの地下図書館での運命を変える出来事の数々を体験したスノウには、よくわかっていた。
人々の、決して歴史の、世界の舞台には上ろうとしない者たちの《ねがい》のことが。
「つまり、だれにも指図されずとも導かれずとも、間違えずに生きていけるようにしてほしかった? 人生を教導してほしかった?」
スノウの声はささやきだった。
だが、その声が起こした変化は劇的だった。
王さまが瞳を見開いてスノウを見た。
漆黒の瞳の奥で金色の虹彩が日食の日の日輪のように光っていた。
「そなた……ほんとうに」
「わたし、しってるかも、それのこと。わたしたちを導くかみさまのこと。人造の」
どこからくるのかわからない恐れに震える声でスノウがそう言うのと、王さまが丘の稜線まで上りきるのはほとんど同時だった。
そこから見えた風景に、スノウは息をするのを忘れた。




